聖女らしきものたちの暗躍

聖女 エレノア

ノートン子爵がもう一つの秘密の避難場所に到着すると、思いがけない人物に出迎えられた。礼を執るノートン子爵の手を取ったその人物は、ゆっくりと告げた。

「今朝、エレノアがブノワ小侯爵に連れ去られたの。でも安心して。居場所は分かっているし、ネリーと私の配下が守りを固めているわ。必ず無事に救い出して、エレノアの悪い噂や汚名は全て払拭するの。どうかわたくしを信じて」

かつて父と共に随行の一員として従った、キャサリン王女と同じ黒曜石の煌めく瞳。
その瞳は今、燃えるような怒りを含んでいる。

「私の親友をここまで貶め苦しめた者たちには、残りの人生全てをかけて報いを受けさせるわ。贖罪なんかさせはしない」

その言葉に、ノートン子爵は頷いた。

「全てイザベラ様のお心のままに従います」



◆◆◆
ブノワ小侯爵セルジュを乗せた馬車が門を出た後、ネリーと離されたエレノアは、運河に面した二階の部屋に案内された。
広々としたその部屋は、曲線を描く脚がとても優美な家具で統一された、女性らしい上品な設えだった。クローゼットには、シンプルだが質の良いドレスがずらりと並んでいる。どれをとっても子爵位ではとても手の届かない最高級の品ばかりだ。侍女がその中の一着を手に取って、にこやかに差し出した。

「旦那様が、こちらにお着替えをして欲しいとの事です」

エレノアの着替えを終えた侍女たちは、茶菓の用意をして部屋を出て行った。しかし、エレノアが邸から出られないように、廊下や出入り口にはメイドや執事たちが見張るように控えている。
ネリーは何処にいるのだろう。手荒なことをされていなければ良いと、それだけが心配だった。

茶菓にも、出された昼食にも一切手を付けずに、窓から外を眺めるだけのエレノアに、使用人たちは気遣いを見せるも、無理に勧める事はしなかった。

運河の向こう岸に中央礼拝堂が見える。その高い尖塔が、夕日を受けて水面に長い影を落とすのをぼんやり眺めていると、ホールに人が集まる気配がした。それから程なく、玄関の前に馬車が到着したようだ。

動かずに椅子に座って外を眺めていたエレノアに、入って来たセルジュが優しく語りかけた。

「お菓子も食事も、エレノアの好きな物を揃えたつもりだったんだけどね。朝から何も口にしていないと聞いたから、果物を持って来たんだ」

そう言って、側のテーブルにオレンジをそっと置いた。

「オレンジは好きだろう? 君の侍女が目の前で切れば食べてもらえるかな? このままでは体調を崩してしまう」

そう言って気遣う様に顔を覗き込み、ふわりと笑った。セルジュの合図でネリーが呼ばれ、エレノアの前でオレンジを剥かせると、銀のフォークを添えて差し出した。
セルジュは、自分の前にも置かれたオレンジをぱくりと頬張って見せた。

「心配しなくて大丈夫だよ。飲み物や食べ物には何も混ぜたりしないから。ほら、食べてみて。おいしいよ」

目の前に差し出された、みずみずしいオレンジの果肉と香りに誘われるように、フォークを取ってその一片を口にした。
水分を欲していた口の中に、爽やかなオレンジの果汁が染み渡る。

それを見て安堵したように優し気に細められた目元が、オーギュストによく似ていると思った。
その眼差しが、カミーユに寄り添われ、顔を近づけて彼女を見つめていたオーギュストと重なり、ずきりと心が痛んだ。

「よかった、やっと食べてくれたね」

そう言って、セルジュは眉を下げてとても嬉しそうな笑顔を向けた。
ふと顔を上げると、部屋の中にはセルジュと二人だけになっている。その事に気付いたエレノアは、ぎくりと体を強張らせた。

「そんなに警戒しないで。無理強いも無体な事もしないと約束するよ」

そう言って伸ばしてきた手を、エレノアはするりと躱した。
それを見てセルジュは笑みを深めて言った。

「今朝、君が私の手を取った所は広場の沢山の人が見ているし、港でお父上に第二夫人として娶りたいと言った事は多くの人が聞いているからね。噂が広がるのは早い。きっともう君が私の第二夫人になったと、街中の人が知っているだろうね」

思わず顔を上げたエレノアに、セルジュは続けた。

「それから、お父上に会えるのは、君が身も心も私を受け入れてからだよ」

その言葉に、深い絶望の表情を浮かべたエレノアは、セルジュがあっという間もなく窓を開けると、身を乗り出してその手摺に腰かけた。
かろうじてその身を留めているのは、窓枠に掛った細い指だけだ。
窓の真下に広がる運河に落ちてしまえば、助かるとは思えない。

セルジュは顔色を失い、焦った様子ながらも静かな声でエレノアに呼びかけた。

「エレノア、落ち着いて。何もしないから、窓から離れて。お父上もすぐに呼ぶ。だから、お願いだ、さあ、こちらにおいで」

ゆっくりと伸ばされたセルジュの手を見たエレノアは、さらに手摺から身を乗り出した。
商会に居た頃、あばずれや、穢れた女と罵られ、石もて追われたあの頃を思い出す。
第二夫人として囲われたと噂になったなら、エレノアにはもうあの酷い噂を払拭する術は無くなった。籠の鳥としてここに閉じ込められ、これからの人生をこの目の前の男の慰み者になって過ごすくらいなら……。

夕日に輝く水面を見つめる。
お父様の無事な姿を一目見たかった。
イザベラに今までの友情の感謝を伝えたかった。

女神様、どうかご加護を。
窓枠から指を離した瞬間、ぐらりと傾いた体が宙に浮いた。

「エレノア!」

そう叫ぶと共に、窓に駆け寄ってエレノアの手を掴もうと伸ばしたセルジュの手が空を切った。

その時、呆然と手を伸ばしたままのセルジュを押しのけ、飛び乗った手摺を思い切り蹴ってネリーが空中に飛び出した。

宙に舞うエレノアを包み込んだネリーは思った。
きっとあの時、父も母も大切な家族を助けたい一心だったんだ。
どうかみんな力を貸して。
私はこの方を助けたい。



◆◆◆
「誰かが運河に落ちたぞ!」

大きな水しぶきの音に、気づいた周囲は騒然となった。
沈んだまま、誰も浮かび上がって来ない水面を皆が固唾をのんで見守っている。
そして、落ちたと思われる窓辺に呆然と立つセルジュの姿に、誰かが指を差して言った。

「ブノワ侯爵に第二夫人として連れ込まれたエレノア嬢が、純潔を守るために身を投げたんだ!」

時を同じくして、街では至る所で一斉に声が上がり、その噂は瞬く間に広がっていった。

「エレノア嬢は、爵位簒奪を目論んだ叔母のアンと従姉カミーユに陥れられた!」
「カミーユは、従妹のエレノア嬢の婚約者を寝取ったばかりか、不貞男のオーギュストと一緒になってエレノア嬢の酷い嘘を吐き散らした!」
「裏切り者は婚約者のオーギュストであり、あばずれはカミーユだった!」

街の声が大きくなる中、黄昏に染まった空を震わせるように、完成したばかりの中央礼拝堂の鐘楼から、大鐘の音が鳴り響いた。

単調に鳴らされたその鐘の音は4度。

その時、鐘の音が届く範囲にいた誰もが手を止め、鐘楼を振り仰いだ。
この国の人々、とりわけ王都に住む人間は、聖女の伝承として、単調に4度鳴らされる大鐘の音の意味を知らぬものはない。
しかし、その鐘の音を実際に自分たちの耳で聞くのは初めてだった。

「聖女が女神様の下に召された……」

誰かが呟いたその言葉は、凪いだ湖面に投じられた小石の様だった。
そこから発生した波紋は、最初は小波の様に、そして伝わるごとに徐々に大きな波となって王都の隅々までに伝わっていったのだ。

召された聖女は誰なのか。
中央礼拝堂の中に新しく建立された『嘆きの碑』と呼ばれる聖女像。
そこに突如一人の女性の名が刻まれた事を人々は目撃した。

その名は、エレノア

伯母と従姉の姦計により婚約者にも裏切られ、周囲の誹謗中傷に晒されて、捕らわれの身となってなお、その純潔を守り抜いた少女。
エレノア・ノートン子爵令嬢。

その名はその日のうちに王都中の人々の知る所となった。

◇◇◇
間近に聞こえる鐘の音にゆっくりと意識が浮上し、目を開けると目の前にネリーの顔がある。彼女はなぜか修道女服をまとっており、目が合うと、ほっとした様子で優しく抱き起してくれた。
顔を上げると、そこには女神様の祭壇があり、そこから続くドーム天井には、この国に伝わる女神様の神話がフレスコ画で美しく描かれている。天井近くの高い位置にある窓からの光で明るく照らされた天井と、入り口から祭壇までの左右の壁に嵌め込まれたステンドグラスから差し込む光が、真っ白な大理石の壁や天井に柔らかく反射している。
全てが夢の様に美しく、神々しい程の荘厳さだった。

「ここは天国なのね」

ぽつりと呟いた自分の言葉でハッと我に返った。

「ネリー! あなたはここにきてはいけない! すぐに戻るのよ!」

ネリーは慌てる私の手を力強く握り、優しいながらも、力強い眼差しを向けてはっきりと告げた。

「これからお嬢様の新しい人生が始まるのです。嫌だと言っても、私はどこまでも着いていきますよ」

そう言って手を取られ、あろう事かネリーは女神像を動かし、こじ開けた隙間からエレノアを中に押し込むと、自分も続いて入って聖女像を元に戻した。

隙間の先は立派な螺旋階段を中心にしたホールになっており、王宮に負けないほどの豪華な邸宅になっている。
辺りを見回していると、高い靴音と共に駆け寄って来たイザベラに思い切り抱きしめられた。

「良かった! エレノア、会いたかった!」

体を離したイザベラは、涙ぐんで言った。

「もうこれで大丈夫! あなたの汚名は全て雪がれたわ。あなたを陥れた者どもへの復讐は、私と、ノートン子爵に任せてね」

そう言って促されて振り返った先に、懐かしい父の姿があった。
私は、手を広げて待つ父の胸に飛び込んだ。
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