役目を終えたはずの巫女でした―――選ばれなかった時間の続き

第87章 離れても、繋がっている――それでも、ここに戻る

アルトが部屋を出てから、しばらくしてノックの音がした。
「失礼します」
リーゼが昼食を運んできた。
「サクラ様、お食事をお持ちしました」
「ありがとうございます」

テーブルに並べられた食事は、いつもと変わらないはずなのに、どこか現実感が薄い。
桜は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと食事を口に運んだ。

けれど、味を感じているのかどうか、自分でもよく分からない。
胸の奥が、まだ少しだけ落ち着かない。

食事を終え、リーゼが下げていくのを見送ると、部屋に一人残された。

ふと、窓の方へ視線を向ける。
王宮の庭が、いつもと同じように広がっていた。

――戻ったら、話をしないと。

お母さんと、お姉ちゃんと。
それに、凜ちゃんたちにも。

クロトの傍で生きていこうと決めた。
その気持ちは、もう揺らがない。

けれど。

――年に1回か……

今までは、週に1回は会えていた。
それが、年に1回になる。

その差は、思っていた以上に大きい。

寂しい、とは思う。
でも、それでも。

きっと、お母さんも、お姉ちゃんも喜んでくれる。

でも。

――何かあったときに、すぐ会えないのって……

それって、家族としてどうなんだろう。

ふと、そんなことを思って苦笑する。

……こんなこと言ったら、逆に怒られるかもしれない。
「何言ってるの」とか、「自分で決めたんでしょう」って。

二人の顔が、自然と浮かんだ。
それを見ているだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。

そんなふうに、ぼんやりと窓の外を眺めていたときだった。

コン、コン。

扉がノックされる。

「失礼します」

聞き慣れた声に、桜ははっと振り向いた。

「クロトさん」

名前を呼んだ瞬間、自分でも分かるくらい、顔が熱くなる。
まだ慣れない。

ふと、頭の中に告白の場面がよぎりそうになって、慌てて首を振る。

「大丈夫ですか」

その様子に、クロトがわずかに笑みを浮かべた。

その余裕のある表情に、少しだけ引っかかる。

――なんでそんなに落ち着いてるんだろう、私だけが動揺してて、何か不公平……。

理不尽でほぼ八つ当たりな考えが、頭に浮かぶ。

「クロトさんは余裕そうで、なんか、ずるいです」

思わず口に出してしまう。

クロトは一歩近づき、桜の目の前まで来ると、少し困ったような表情を浮かべた。

「別に、余裕ではないんですけどね」

距離が近い。
普段よりも、明らかに近くて、それだけでまた心臓が跳ねる。

「あ、あの……ち、近くないですか」

「そうでしょうか」

さらりとかわされる。

桜は何とか落ち着こうと、小さく呼吸を整えた。

「兄が、来ましたか?」

その言葉で、少しだけ意識が切り替わる。

「はい。あの、挨拶に来てくださって」

「きちんとお話ししたことがなかったんですけど、優しい方ですね」
「私のことも、気遣ってくださって」

「えぇ」

クロトは、少しだけ嬉しそうに表情を和らげた。

「戻ってきたら、兄の家に滞在するという話は?」

「あ、はい。聞きました」

「本当に、何から何まで申し訳なくて……でも、こちらの生活、まだよく分からないので、すごく助かります」

クロトは、わずかに表情を曇らせる。

「サクラ様が気にすることではありません」
「もとは、私があなたを引き留めたのですから」

その言葉に、桜はすぐに首を振る。

「それ、さっきも……」

少し言い淀みながら続ける。

「最初に、こ、告白したのは私ですし……」
「ここに残るって決めたのも、私なので……」

「だから、その……」

そこまで言って、自分の言葉に一気に顔が熱くなる。
何を言いたかったのか分からなくなり、言葉が続かない。

クロトはその様子を見て、わずかに目を見開いた。
それから、ゆっくりと口を開く。

「サクラ様」

「もし、許していただけるのであれば……抱きしめても、よろしいでしょうか」

桜は驚いて、思わず視線を上げた。
経験がなさすぎて、そういう時、どうしていいのか分からない。

けれど、クロトの目が、どこか必死に見えて。

小さく、こくりとうなずいた。

次の瞬間、ぐい、と腕を引かれる。
気づいたときには、もう胸の中だった。

思ったよりも強い力で抱き寄せられて、息がとまるのではないかと思った。
服越しに伝わる体温があまりにも近くて、心臓が痛いくらい鳴る。

それでも、安心できると、思っている自分に、いちばん驚く。

頭の上から、低い声が落ちてくる。

「……待っています」

少しだけ間を置いて続いた。

「ただ、もし――どうしてもご家族の元に残りたいと思われることがあれば、それも仕方のないことだと、思っています」

――待つと言いながら、まだ私に選ばせようとしている。
――本当に、私の気持ちを、どこまでも大切にしてくれている。

クロトさんは、最初からそうだ。
自分のことはあまり気にせずに、人の方を優先してしまう人だ。

「あの……」

クロトの腕の中で、小さく声を出す。

「寂しいとは、思います」
「きっと、向こうに行ったら、少し悩んでしまうかもしれません」

一度、言葉を区切る。

「でも」

「クロトさんといられない方が、絶対に私、後悔しますから」

ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「だから、ちゃんと戻ってきますね」
「この場所に」

クロトの腕に、わずかに力がこもった。

「……ありがとうございます」

そのまま、ぎゅっと抱きしめられる。

少しして、ゆっくりと腕がほどかれた。

離れた瞬間、何とも気恥ずかしい空気が流れて、さっきよりもさらに顔が熱い。

桜は無意識に首元の紐に触れ、そこにある淡い薄紅色の守り石の感触に、ふと気づいた。

「あの、クロトさん」

「これ、預かっていてもらえませんか」

紐を外し、石を差し出す。

クロトはそれを見て、小さくうなずいた。

「そういえば、魔力を込めていましたね」
「あちらには、持ち込めませんでしたか」

「はい。なので……戻ってくるまで、お願いします」

「えぇ、分かりました」

クロトは石を受け取る。
その仕草は、すでにいつもの落ち着いたものに戻っていた。

それを見て、桜も少しだけ安心する。

クロトは一歩距離を取り、穏やかに言った。

「では、行きましょうか」

桜は小さくうなずく。

向かう先は、異世界へと繋がる結界の部屋。

桜は一度だけ振り返り、それから前を向いた。
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