役目を終えたはずの巫女でした―――選ばれなかった時間の続き

第88章 託されるもの―――待っていてください

結界の部屋には、いつもと変わらない空気が流れていた。

「サクラ様」

リエットが穏やかに声をかける。

桜は小さく頷き、それから少しだけ姿勢を正した。

「リエット様、色々ありがとうございました。改めて、再召喚よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げると、リエットはやわらかく微笑んだ。

「いいんですよ。またサクラ様とお会いできるのは、私も嬉しいですから」

その言葉に、桜もほんの少し表情をゆるめる。

「それでは、行きますね。1か月後に、また」

桜は一度リエットへ視線を向け、それからクロトを見た。

クロトは短く頷く。

「……えぇ」

それ以上の言葉は、出なかった。

桜はゆっくりと結界へ足を向ける。

その背中を見た瞬間、クロトの指先に力が入った。

リエットの理論は理解している。運用にも問題はない。だから、大丈夫なはずだった。

それでも、どんなことにも絶対はない。

桜は戻ってくると、何度も口にした。

――それでも。

家族を選ぶ彼女の姿が、頭の中から消えてくれない。

桜が傍にいる未来を、一度はっきりと思い描いてしまったからこそ、それを失うことに耐えられる自信がなかった。

無意識に、拳を握りしめる。

桜の足が結界へ踏み入れられようとした、そのときだった。

ふいに、その動きが止まる。

桜が振り返った。

まっすぐに、クロトを見る。

「ここに、戻ってきますね」

そう言ってから、桜は顔を赤くし、小さな声で続けた。

「あの……だから、待っていてください」

クロトは一瞬だけ息を止め、それからようやく頷いた。

「……はい」

桜はほっとしたように頷くと、そのまま結界へ足を踏み入れた。

光が揺らぐ。

その姿が、ゆっくりと溶けるように消えていく。

やがて、完全に見えなくなった。

クロトはしばらく、その場から動けなかった。

――――――――――

桜の姿が消えて、ほどなくして。

リエットが、わずかに顔を上げた。

「……来ます」

その一言で、場の空気が変わる。

クロトは何も言わず、ただ桜が消えた場所へ視線を向けたまま立っていた。

「おそらく、もう間もなくこちらに」

リエットの声には、確かな手応えがあった。

クロトは短く頷く。

待つことしかできない。

ただ、時間だけが過ぎていく。

やがて、結界の気配がかすかに揺れた。

次の瞬間――

そこに現れたのは、見覚えのある面影を残しながら、以前より少し大人びた少女だった。

「……えっと、お久しぶりです」

少しだけ居心地悪そうにしながらも、凜ははっきりとした声で挨拶する。

リエットがすぐに微笑んだ。

「えぇ。またお会いできて、嬉しいです」

その表情はやわらかい。

けれど、その奥にあるものをクロトは見逃さなかった。

凜は小さく息を整えてから、続ける。

「前回は、私のせいで……いろいろ、ご迷惑をおかけしました」

リエットは首を横に振った。

「いいえ。私たちが何も伝えなかったのです」

「その結果、あなたに負担をかけてしまいました。こちらこそ、申し訳ありませんでした」

その言葉に、凜はわずかに目を細めた。

「言えなかったのは、私のことを思ってですよね」

「だから、もう大丈夫です」

ふっと息を抜くように笑って、それからすぐに表情を引き締める。

「今回は、ちゃんとできるって思ってます」

その言葉に迷いはなかった。

リエットは優しく頷く。

「えぇ。期待しています」

凜はさらに続けた。

「それに今回は――桜ちゃんの人生がかかっているので」

その一言で、空気がまたひとつ重くなる。

「桜ちゃんをこっちに呼ぶには、私がちゃんと使えないと駄目なんですよね?」

「だから、早く確認したくて。ちゃんと、結界修正ができるか」

「では、確認を始めましょうか」

リエットがそう促すと、凜は「お願いします」と軽く頭を下げた。

そのあとで、凜はゆっくりとクロトの方へ向き直る。

ためらいなく、1歩ずつ近づいていき、クロトの前で足を止めた。

「クロトさん」

その呼びかけに、クロトはわずかに姿勢を正す。

「……はい」

自然と、声が低くなる。

凜はまっすぐにクロトを見上げたまま言った。

「桜ちゃんのこと、よろしくお願いします」

「……家族からも、くれぐれもよろしくって」

穏やかな口調だった。

だが、その重さは明確だった。

クロトは一瞬だけ目を伏せ、わずかに息を整える。

「……承知しました」

短く、しかしはっきりと答える。

凜は小さく頷き、少しだけ口元をゆるめた。

「あと」

軽く付け加えるように言う。

「私も、結界修正のたびにこっちへ来ると思うので」

クロトの視線がわずかに上がる。

凜は続けた。

「桜ちゃんが幸せじゃなかったら――そのときは、何とかして連れて帰りますから」

冗談めかした言い方だったが、目だけはまったく笑っていなかった。

クロトはその視線を正面から受け止める。

そして、わずかに息を吐いた。

「……その必要はありません。必ず、守ります」

短い言葉だった。

けれど、それ以上の意味を持つものでもあった。

凜は、ようやくほっとした表情を浮かべる。

そして――

「……まぁ、さっき会ったとき、桜ちゃん幸せそうでしたけど」

そう言ってから、少しいたずらっぽく続けた。

「でも、忘れないでくださいね。時々、チェックしに行きますから」

そう言って、クロトを指さしてみせる。

――――――――――

■結界修正の部屋にて

リエットとクロトが見守る中、凜は結界へと手を伸ばした。

触れた瞬間、空気がわずかに変わる。

わずかな歪みの位置を、凜は迷うことなく捉えた。

これまで見えなかったものが、今ははっきりと分かる。

桜のときのように細かく整えていく感覚ではない。

一度、全体がほどけるように揺らぎ――そのまま、ためらいなく張り直されていく。

乱れは残らない。

リエットが、わずかに目を細めた。

「……十分です。想像以上に、力を制御されています」

その言葉が落ちた瞬間、凜はようやく息を吐いた。

「……よかったぁ」

小さく漏れたその声には、抑えきれない安堵がにじんでいた。

肩の力が、すっと抜ける。
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