黒川悠真Side 書籍化作品・番外編『未完成の恋ですが。~俺様建築士と描く未来の設計図~』


エレベーターの扉が閉まると、ふたりきりの箱の中が急に狭く感じられた。
壁の液晶に表示される数字を、必要以上に睨んでしまう。

(なんか……この状況って……いいのか?)

成り行きだった――言い訳だけれど、本当に、そうだった。
子ども図書館が完成して二か月。気づけば、週末は宮本と一緒に過ごすようになっていた。食事をして、少し車を走らせて、他愛もない話をする。
……触れない距離を、保ったままで。
事の発端は、さっき、車の中で、彼女が言った一言。

「図書館の外で、座れる場所があったらいいのにって声もあって」

その瞬間、仕事脳に切り替わった。

「資料は全部、俺の部屋にある。今からその話、するか」

口にしてから、何も考えていないと気づいた。
女性を自分の部屋に誘う意味をまったく考慮にいれていなかった。
彼女は驚いたように身を揺らし、数秒あいだを置いてから頷いた。

(バカか、俺は。そりゃ、警戒するだろ)


エレベーターが静かに上昇する。
数字が増える。俺の部屋がある6階まであと少し。
俺は急に弱気になった。もちろん、男の欲はある。自分のテリトリーに好きな女を招き入れて、何事もなく帰せる自信なんて、正直、ない。
襲ったら……ごめん。

「……来るの、嫌じゃなかった?」

自分でも情けないと思うほど、小さな声しか出なかった。
女に慣れていないわけじゃない。
三十二年生きていれば、それなりの数の交際もしてきたし、勢いで一夜を過ごしたこともある。
ただ――心底惚れ切った相手となると、最後がいつのことだったか思い出せない。
欲も、理性も、同時に暴れ出す状況で、どう振る舞えばいいのか。
そういう意味では、俺には経験値が足りない。
どちらかといえば自信過剰で通してきた人生の中で、こんなふうに踏み出す一歩を迷うのは、ひどく珍しいことだった。

目的の階を示す音が鳴り、扉が開いた。廊下は静かで、夜の匂いがする。自分の家なのに、鍵を取り出す指先が緊張でわずかに震えた。ドアの前に立ち、深く息を吸う。鍵が回る音。ドアが開く。

「……どうぞ」

玄関の灯りが廊下に流れていく。ドアが閉まる音が、静かに背中で鳴った。



スーパーで買った総菜で夕食をとったあと、図書館の外回りに追加する設備について話し合う。
平静を装うのに苦労した。
彼女が俺の部屋にいる。
それだけのことなのに、そわそわして落ち着かない。視線を上げるたび、ここに彼女がいるという現実に少し照れてしまうと同時に、どうしようもなく嬉しくなる。
誰かに見せるつもりのなかった俺の日常に、宮本が自然に溶け込んでいた。


ひと段落したところで、壁の時計が視界に入った。
23時。
もう、こんな時間か。
宮本といると時間の流れが速すぎる。
彼女も一瞬、同じ時計を見た気がして、視線がぶつかる。
どちらからともなく言葉が途切れ、沈黙が落ちる。
その静けさが、この時間が終わってしまうことへの名残惜しさを連れてきた。
まだ、この夜を手放したくない。


先に沈黙を破ったのは宮本のほうだった。

「これ……飲み終えたら帰りますね」

二杯目のコーヒーが少し残っているカップを見ながら、彼女がそう言った瞬間、胸の奥が縮んだ。理屈では、当然だと分かっている。時間も遅いし、引き止める理由だって、本来はない。

「わかった、送るよ」

口では答えたものの、その結論を自分の中で受け入れられる気がしなかった。
好きな相手と一緒にいる時間は、どうしてこんなにも短く感じるのだろう。まだ話し足りない、まだ離れたくない――そんな感情が確実に募っていく。
彼女がカップを持ち上げ、口元に運んだ。その仕草を見た瞬間、胸の内側で何かがはじけた。考える余裕はなかった。

「……飲むな」

カップを持つ宮本の手を制す。
制した俺の指先には、逡巡と理性と男の欲が混じりあっていた。

「今夜は……帰したくない」

彼女は一瞬目を見開き、それから、逃げるでも拒むでもなく、静かにカップをテーブルに戻した。
次の瞬間には、衝動に身を任せて彼女を胸に引き寄せる。
触れた体温に、あっけなく理性が溶かされていく。
彼女の頬に手を添えて、唇を重ねた。

「莉央……」

初めて、彼女の名前を口にした。
いつのころからか、そう呼びたかった。愛しさを込めて……

「嫌、か? 嫌なら言ってくれ。傷つけたくない」

なけなしの理性を発動して、彼女に問う。
この先の肌を重ねる時間は、莉央にとっても満たされた時であって欲しい。ただ俺の欲を放つだけの時間にしたくない。

「嫌……じゃありません」
「……っ」

胸に溜め込んでいた緊張が、一気にほどけた。

「莉央……」

大切な名を呼びながら何度もキスを重ねる。彼女の想いを確かめるように、離れては触れ、触れては離れる。
頬を染めた莉央の口から甘い吐息が漏れるのを感じとって、手を引きながらベッドルームの扉を開けた。
カーテンの隙間から月の光がこぼれて、床に細い帯を描いていた。その淡い光の中で、彼女の輪郭がほのかに浮かぶ。

「好きだ……莉央」

ベッドに横たわった彼女の頬を両手で包んだ。

「……黒川さん」
「悠真でいい」

莉央の睫毛がわずかに震える。
一瞬の沈黙。

「……悠真、さん」

胸が満ちていく。苦しいくらいに。

俺は彼女のブラウスのボタンをひとつひとつ外した。
触れたら壊れてしまうものと、でも、触れなければこの夜が完成しないものが、同時にそこにある。
呼吸が重なる。
ぬくもりが重なる。
急がなくて、いい。
夜はまだ浅い。
この夜の熱と静寂を、彼女と分け合える――それだけで、十分だった。
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