大正桜恋譚―恋と土俵と古書店―

第八話 復興の日々 そして横綱昇進へ

震災から一週間が過ぎ、東京は少しずつ復興へ動き始めていた。
鬼丸さんは朝は稽古、昼は復興作業を手伝い、夜は私たちと共に新しい店の準備をした。

「千鶴さん、これを見てください」
ある夜、鬼丸さんが一冊のノートを見せてくれた。
「これは...祖父の日記?」
「はい。震災の前に、大事な部分だけ書き写していたんです。全部は無理でしたが、主要な技の記録は残せました」
ページをめくると、几帳面な文字で技の解説が書かれていた。
「鬼丸さん...」
「建物や本は燃えても、私たちの中にある思いは消えません」
その言葉が、私たちに勇気をくれた。

九月も半ばを過ぎ、私たちは新しい店の構想を練り始めた。
「場所は両国がいい」
父が言った。
「国技館の近くなら、相撲ファンも来やすい。それに、鬼丸さんの応援もしやすい」
「でも、資金が...」
「大丈夫だ。実は、曾祖父が銀行に預けていた金がある。震災で店は失ったが、預金は無事だ」
父の言葉に、私たちは希望を見出した。
十月、私たちは両国に小さな土地を見つけた。
焼け跡を整理し、仮店舗を建て始めた。
鬼丸さんは稽古の合間を縫って、力仕事を手伝ってくれた。
「鬼丸さん、無理しないでください」
「いえ、これくらいは当然です。私も、新しい翠雲堂の一員ですから」
その言葉が、とても嬉しかった。

十一月、仮店舗が完成した。
まだ小さな掘っ立て小屋のような建物だったが、私たちにとっては希望の象徴だった。
「翠雲堂、再開です」
私たちは、新しい看板を掲げた。
最初の在庫は、わずか五十冊。知人から譲ってもらった古書や、焼け跡から奇跡的に見つかった本たちだった。
でも、これが私たちの新しいスタートだった。

大正十三年一月、被災した両国国技館は使えなかったが、変わりに名古屋で
本場所が開催された。
鬼丸さんは、この場所に全てをかけていた。
初日から、圧倒的な相撲を取った。
立ち合いの鋭さ、技の切れ味、そして何より、相手を圧倒する気迫。
「鬼丸、別人のようだ」
「これが本当の力か」
観客たちが驚嘆の声を上げた。
鬼丸さんは初日から九連勝。
千秋楽は、私は父と共に、初めて名古屋まで応援しに行くことにした。
「千鶴さんが来てくれると、力が湧きます」
出発前、鬼丸さんが電話越しにそう言ってくれた。

千秋楽結びの一番、鬼丸さんの前に立つのは、あの横綱だった。幾度挑んでも、ただの一度も勝てなかった絶対王者。彼もまた、七勝三敗だった先場所とは違い今場所好調で九戦全勝であった。

勝った方が優勝する全勝同士対決。鬼丸がこの一番に敗れれば、昇進の夢は潰えると
報じられていた。
すべてが、この土俵に懸かっていた。
立ち合いの瞬間、横綱の圧力が鬼丸を襲う。踏ん張る足が、じりじりと後退を強いられる。観客の悲鳴が、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
土俵際――。
背中に俵の感触。もう、逃げ場はない。
だが鬼丸の目に、諦めの色はなかった。これまで積み重ねてきた稽古の日々、支えてくれた人々の顔、そして九日間、一番も落とさず戦い抜いてきた自分自身への誓い。すべてが、この一瞬に凝縮される。
その時だった。
低く腰を落とし、横綱の巨体を抱え込むように掴んだ鬼丸が、渾身の力で体を捻った。うっちゃり――土俵際からの起死回生の逆転技。
横綱の体が宙を舞い、土俵の外へと落ちていく。
一瞬の静寂の後、館内が割れんばかりの歓声に包まれた。
鬼丸は土俵に両手をつき、深く息を吐いた。初めて越えた壁。十戦全勝。二場所連続優勝。
この日、鬼丸は横綱を倒しただけではなかった。自分自身の限界をも、打ち破ったのだ。
場内が「鬼丸!鬼丸!」の大合唱に包まれた。
「鬼丸さん、おめでとう」
「よくやってくれた!」

観客席にいた千鶴は両手で口を覆ったまま、動けずにいた。
頬を伝う涙が、止まらない。
土俵際に追い詰められた鬼丸を見た瞬間、心臓が凍りついた。
「ああ、もう駄目かもしれない」
――そう思った次の瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられたわけだ。
鬼丸の、あのうっちゃり。
横綱が土俵から落ちた瞬間、千鶴の胸から込み上げてきたのは、歓声ではなく、嗚咽だった。
「勝った……勝ったのね……」
震える声で呟きながら、千鶴は泣き笑いの顔で天を仰いだ。
涙を拭おうともせず、勝ち名乗りを受ける鬼丸の目を真っ直ぐに見つめた。
鬼丸の疲労で強張った顔が、ほんの少しだけ、優しく綻ぶ。
言葉はいらなかった。
ただ、二人の間に流れる静かな誇りと、深い愛情だけが、そこにあった。


その夜遅く、鬼丸さんが私のもとを訪れた。
「千鶴さん、お父様。お話があります。今場所の結果を受けて、横綱昇進が決まりました」
「本当ですか!」
私は思わず叫んだ。
「おめでとう、鬼丸さん」
父も満面の笑みだった。
「ありがとうございます。これも、お二人の支えがあったからです」
鬼丸さんが深く頭を下げた。
そして、顔を上げた。
「千鶴さん」
「はい」
「覚えていますか。四年前の春、わたしが言ったことを」
「...はい」
「横綱になったら、改めてお願いしたいことがあると」
私の心臓が、激しく鼓動した。
鬼丸さんが立ち上がり、膝をついた。
「桜川千鶴さん。私と結婚してください」
涙が溢れて、言葉が出なかった。
「あなたがいなければ、今のわたしはありません。震災の時、あなたと、お父様と、翠雲堂を守ると決めました。どうか、わたしに、あなたを守らせてください」
「はい」
私はやっと声を絞り出した。
「喜んで」
父が目を細めて言った。
「千鶴を、よろしく頼む」
「はい。必ず、幸せにします」
その夜、私たちは新しい家族になることを、三人で誓い合った。


横綱昇進伝達式は、雷電部屋で盛大に行われた。
多くの報道陣と、相撲ファンが詰めかけた。
「謹んでお受けいたします。土俵の伝統を守り、さらなる精進を重ねることをお約束いたします」
鬼丸さんの口上は、簡潔で力強かった。
式の後、私たちの婚約も発表された。
「横綱・鬼丸関、本郷創業の古書店『翠雲堂』の娘と婚約」
翌日の新聞が、大きく報じた。
「力士と本屋の娘。震災を乗り越えた二人の絆」
記事は、私たちの出会いから、震災、そして再建までの道のりを綴っていた。
「有名人になってしまったな」
父が苦笑した。
「でも、悪い気はしないだろう?」
「ええ」
私も微笑んだ。

結婚式は、桜の咲く四月に行われた。
神前式で、親しい人々だけを招いた、こぢんまりとした式だった。
でも、私にとっては、世界で一番美しい式だった。
白無垢に身を包み、鬼丸さんの隣に座る。
彼の横顔を見つめながら、私は思った。
震災がなければ、私たちはこうして結ばれることはなかったかもしれない。
失ったものは大きかったけれど、得たものはもっと大きかった。
式の後、披露宴が開かれた。
雷電部屋の力士たち、父の知人、そして相撲ファンの皆さんが、私たちを祝福してくれた。
「千鶴さん、幸せですか?」
鬼丸さんが囁いた。
「はい。こんなに幸せでいいのかと思うくらい」
「僕もです」
彼の大きな手が、私の手を包んだ。
宴もたけなわの頃、一人の老人が立ち上がった。
相撲の解説者として有名な方だった。
「鬼丸関、おめでとう。そして、千鶴さん、おめでとう」
老人は杯を掲げた。
「鬼丸関の相撲は、古き良き伝統を守りながら、新しい時代を切り開いている。それは、千鶴さんたちの翠雲堂と同じだ。震災で全てを失いながら、また立ち上がった。その姿に、私たちは勇気をもらっている」
会場が拍手に包まれた。
「これからも、二人で力を合わせて、伝統を守り、未来を作ってください」
私たちは深く頭を下げた。
その夜、私たちは両国の新居に帰った。
小さな家だったが、私たちには十分だった。
「千鶴、見てください」
鬼丸さんが縁側を指差した。
月明かりに照らされた庭に、一本の桜の木があった。
「引っ越しの時に植えたんです。来年の春には、花を咲かせるでしょう」
「素敵...」
私は鬼丸さんの腕に寄り添った。
「毎年、この桜を一緒に見ましょう」
「はい。ずっと、ずっと」
その約束が、私たちの新しい人生の始まりだった。
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