騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした

第四話「二つの未来」

 翌日。

 指定された時刻よりわずかに早く、一行は面談のための一室へ通された。

 昨日とは違う、小さな会議室だった。

 華美な装飾はなく、中央には長机が置かれている。
 その上には、いくつかの書類が整然と並べられていた。
 セレスティアは、その一番上に記された文字へ目を落とす。

 ――エルランド。

 自分が長い間、遠ざけてきた名。
 胸の奥に、わずかな重みが落ちる。

 向かいには、帝国側の担当官と書記官がすでに席についていた。 セレスティアの隣には、王国側の書記官。
 ベイルは、その少し後ろに控えている。
 リタもまた、邪魔にならぬよう後方に立っていた。
 誰も多くを口にしない。
 紙をめくる音だけが、時折、静かな室内に響いた。

 やがて――

 「お待たせいたしました」

 声とともに扉が開く。

 現れたのは、深い色合いの長衣を纏った男だった。
 仕立てそのものは貴族らしく端正だが、襟元や袖口には銀糸で細かな術式紋様が織り込まれている。

 その上から羽織った長い外套が、歩みに合わせて静かに揺れた。

 葡萄酒色の髪。
 黒にも見えるほど深い瞳の奥には、光を受けて暗い赤が滲んでいる。

 ノクティスだった。

 セレスティアの胸の奥に、小さな緊張が走る。
 けれど、驚きはなかった。

 ーーやっぱり。

 その姿を認めた王国側の書記官も、わずかに表情を引き締める。
 ベイルは何も言わない。
 ただ、その視線だけが鋭さを増した。

 昨日と変わらぬ穏やかな表情で室内へ入り、帝国側の者たちが一斉に立ち上がる。

 セレスティアたちも、それに倣(なら)った。

 ノクティスは軽く一礼を返すと、長机の上へ一度だけ視線を落とした。

 そのままセレスティアの向かいへ腰を下ろす。

 皆が席へ戻るのを待ってから、書類へ手を伸ばした。

 「では、始めましょうか」

 紙面を一枚めくる。

 「まず確認いたします」

 ノクティスは書面へ視線を落とした。

 「セレスティア・イル・エルランド。先代エルランド伯爵夫妻の一人娘――相違ありませんね」

 「……はい」

 答えながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。

 ーーイル。

 久しく、正式なフルネームを呼ばれていなかった。

 その名だけを、こうして意識したのはいつ以来だろう。

 幼い頃から、自分の名の一部としてそこにあったもの。

 特別な意味を持つ名であることは、知っている。

 けれど今、この男の口から呼ばれるとーー

 なぜか、ひどく重いもののように感じられた。

 ノクティスは何事もなかったかのように、次の項目へ視線を移す。

 「ご両親の死後、生前より親交の深かったルヴェール伯爵が後見人となり、同家に引き取られた」

 「はい」

 「その後、三年前に事故によって死亡したものとして届け出がなされている」

 そこで初めて、セレスティアの表情がわずかに強張った。

 ノクティスが視線を上げる。

 「ですが、あなたは生きている」

 「……はい」

 短い返答。

 ノクティスはそれ以上追及せず、次の書面へ目を移した。

 「現在、エルランド家の爵位と領地は、あなたの叔父君が継承しています」
 淡々とした声。

 「これは、当時の継承順位に従って行われた正当な処置です。――あなたが死亡したものとして扱われていた以上は」

 わずかな間。

 「しかし、生存が確認された今、状況は変わります」

 セレスティアは黙ってノクティスを見る。

 「先代伯爵の直系唯一の子であるあなたには、本来、第一位の継承権がある」

 室内の空気が、ほんの少し重くなる。

 分かっていたことだった。

 その確認のために、ここへ来たのだから。

 それでも改めて言葉にされると、遠ざけていたものを目の前へ置かれたような感覚があった。

 ノクティスは一枚の書類をセレスティアの前へ滑らせた。

 「こちらが、現在確認されている継承関係です」

 視線を落とす。

 そこには、父の名があった。
 その傍らには、母の名。
 そして二人から伸びる線の先にーー自分の名。

 セレスティア・イル・エルランド。

 さらに、父の系譜から続く先には、現在家督を継いでいる叔父の名が記されていた。

 「帝国としては、あなたの生存が正式に確認された以上、この状態を曖昧なままにはしておけません」

 「……はい」

 「選択肢は、大きく二つです」

 ノクティスの指先が、書面の一箇所を示す。

 「本来の継承権に基づき、エルランド家を継ぐ」

 指先が、もう一方へ移る。

 「あるいは――」

 暗赤の瞳が上がる。

 「正式に、継承権を放棄する」

 セレスティアは、その視線を正面から受け止めた。

 「……私は、放棄するつもりです」

 室内が静まり返った。

 ノクティスの表情は変わらない。

 「それが、あなたご自身の意思ですか」

 「はい」

 今度は迷わなかった。

 「叔父がすでにエルランドを継いでいます。領地も、そこに暮らす人々も、今は叔父のもとで成り立っています」

 一度、息を置く。

 「それを今さら私が戻って、取り上げたいとは思いません」

 ノクティスは何も言わない。

 セレスティアは続けた。

 「それに私は――ヴェルディアへ戻るつもりです」

 その瞬間。

 ノクティスの視線が、ほんのわずかに動いた。

 セレスティアの後方。

 ベイルへ。

 ベイルは何も言わない。

 ただ、その視線を正面から受け止める。

 一瞬。

 言葉のない応酬。

 やがてノクティスの視線が、再びセレスティアへ戻った。

 「ベイル殿との婚姻のために?」

 「……はい」

 「なるほど」

 それだけだった。

 否定も、嘲笑もない。

 ノクティスは書面へ視線を戻す。

 「では、一点確認しておきましょう」

 一枚、紙をめくる。

 「セレスティア殿は、エルランド家の継承権を放棄することと、ベイル殿との婚姻を……一続きのものとしてお考えですか」

 セレスティアが、わずかに眉を寄せた。

 「……どういう意味でしょうか」

 「そのままの意味です」

 ノクティスは指を組む。

 「あなたはベイル殿と婚姻し、ヴェルディア王国で暮らす。そのために、帝国における継承権を放棄する」

 「はい」

 「ですが」

 声は穏やかなままだった。

 「その二つは、本来、別の問題です」

 セレスティアの瞳がわずかに揺れる。

 ノクティスは続けた。

 「ベイル殿は、アーデン侯爵家の次男と伺っています」

 その言葉に、ベイルの眉がほんのわずかに動いた。

 「ご実家の爵位を継承される立場にはない」

 「……それが何か?」

 初めてベイルが口を開いた。
 低い声。

 ノクティスはそちらへ視線を向ける。

 「事実を確認しただけです」

 「そうか」

 「ええ」

 短いやり取り。

 どちらも表情を崩さない。

 ノクティスは再びセレスティアを見る。

 「であれば、何も難しい話ではない」

 「……?」

 「あなたがエルランド家を継ぐことと、ベイル殿との婚姻は両立できます」

 セレスティアは、一瞬意味を測りかねたように瞬いた。

 「……両立?」

 「ええ」

 ノクティスは、ごく当然のことを説明するように続ける。

 「あなたがエルランド伯爵位を継承し、当主となる。そしてベイル殿を夫として迎える」

 わずかな沈黙。

 「それで済む話です」

 セレスティアは言葉を失った。

 後方で、リタがわずかに目を見開く。

 王国側の書記官も、すぐには口を挟まなかった。

 ――制度上は、成立する。
 だからこそ、誰も即座には否定できない。

 「……ですが」

 セレスティアがようやく声を出す。

 「そうなれば、ベイル様は――」

 「帝国へ移ることになるでしょう」

 あまりにもあっさりと、ノクティスは答えた。

 「……」

 「何か問題が?」

 本当に分からないというような問いだった。

 セレスティアの眉が寄る。

 「問題って……」

 思わず、ベイルを見る。

 彼には彼の人生がある。
 ヴェルディアで騎士として生きてきた。
 第三騎士団を率い、守るべきものがあり、築いてきたものがある。

 それを――

 自分との婚姻のために、すべて置いてこいというのか。

 「ベイル様には、ヴェルディアでの立場があります」

 「存じています」

 ノクティスは即座に答えた。

 「第三騎士団隊長」

 「でしたら――」

 「ですが、それは爵位ではない」

 セレスティアの言葉が止まった。

 ベイルの目が、わずかに細くなる。

 ノクティスは淡々と続ける。

 「誤解なさらないでいただきたい。騎士としての彼の能力を軽んじているわけではありません」
 視線がベイルへ向く。

 「むしろ、優秀な方だと認識しています」

 ベイルは答えない。

 「帝国へ移られたとしても、その能力を活かす場はいくらでも用意できるでしょう」

 セレスティアの胸に、小さな引っかかりが生まれた。

 ――用意できる。

 その言葉。

 「それに対して」

 ノクティスの視線が戻る。

 「エルランド伯爵位は、あなたにしか継げない」

 静かな声音だった。

 「古くから帝国に連なる家名。領地。そして、血統」

 最後の言葉だけが、妙に耳に残った。

 「それらをすべて手放してまで、あなたがヴェルディアへ渡らなければならない理由が、私には分からない」

 セレスティアは黙った。

 ノクティスの言っていることは――分かる。

 理屈としては。

 「婚約を解消する必要はありません」

 その言葉に、セレスティアが顔を上げた。

 ベイルの視線も、鋭くノクティスへ向く。

 だが、ノクティスは変わらず穏やかだった。

 「お二人の婚姻を否定しているわけでもない」

 「では……」

 「ただ」

 ノクティスは、セレスティアを見据える。

 「なぜ、あなたばかりが手放す必要があるのです?」

 その問いに、セレスティアは息を止めた。

 「家も」

 「爵位も」

 「領地も」

 ひとつずつ。

 「あなたが生まれながらに持っていたものを捨てて、他国へ渡る」

 ノクティスは責めているわけではない。

 それどころか、問いかけているだけだった。

 だからこそ――返答が難しい。

 「ベイル殿との婚姻を望むことと、それらを失うことは、同じではない」

 沈黙。

 「両方を選べばいい」

 その言葉が落ちた瞬間。

 セレスティアの胸の奥で、何かがざわついた。

 ――聞いたことがある。

 形は違う。

 けれど。

 『何も失わずに済む』

 あの夜の声が、記憶の奥で重なる。

 『何も捨てずに済む』

 セレスティアの指先が、膝の上でわずかに強張った。

 ノクティスは気づいているのか、いないのか。

 変わらぬ声音で続ける。

 「エルランドを継ぐ」

 「ベイル殿とも婚姻する」

 ひとつずつ、確かめるように。

 「どちらかを捨てる必要などありません」

 「……」

 「あなたには、その権利がある」

 セレスティアは、ノクティスを見つめた。

 穏やかな顔。
 整った理屈。
 何一つ、間違ったことを言っていない。

 ――それなのに。

 どうして。
 あの夜と、同じ息苦しさを感じるのだろう。

 「……私は」

 声を出しかけた、そのとき。

 「一つ、よろしいでしょうか」

 王国側の書記官だった。

 ノクティスが視線を向ける。

 「どうぞ」

 「先ほどから、アストレア公は“両方を選べる”と仰っていますが」

 書記官は静かに言葉を継いだ。

 「その場合、セレスティア様がヴェルディアへ戻られる選択肢は、事実上失われるのではありませんか」

 一瞬。

 室内が静まり返った。

 ノクティスは否定しなかった。

 「……エルランド伯爵としての責務を果たすのであれば、そうなるでしょう」

 「つまり」

 書記官の声が、わずかに硬くなる。

 「何も手放さずに済む代わりに、どこで生きるかという選択は失うーーそういうことですね」

 ノクティスはしばらく書記官を見つめた。

 「……随分と極端な表現をなさる」

 「事実関係を確認しているだけです」

 「居を帝国に置く事と、自由を失うことは同義ではありません」

 ベイルの目が鋭さを増す。

 「随分と都合のいい話だな」

 「どちらにとってでしょう」

 ノクティスが返す。

 ベイルの眉が動く。

 「セレスティア殿は、家も爵位も領地も失わない。ベイル殿との婚姻も成立する」

 わずかに首を傾ける。

 「彼女にとって、不利益がありますか?」

 「お前にはあるだろう」

 低い声だった。

 初めて。
 ほんの一瞬だけ。

 ノクティスの表情から、穏やかさが薄れた。

 だが、それもすぐに消える。

 「……何のことでしょう」

 「とぼけるな」

 ベイルは視線を逸らさなかった。
 この男が、自分とセレスティアの婚姻を認めるためだけに、こんな提案をしているはずがない。

 ノクティスは、しばらくベイルを見ていた。

 やがて――

 「いずれにせよ」

 先に視線を外したのはノクティスだった。

 「本日、結論を出していただく必要はありません」

 書類を静かに閉じる。

 「継承権の放棄は、一度成立すれば容易に覆せるものではない」

 そしてセレスティアを見る。

 「ご自身が何を手放そうとしているのか。その意味を理解した上で、ご判断いただきたい」

 「……」

 「明日、改めてお答えを伺います」

 ノクティスは立ち上がった。

 面談の終了を察し、帝国側の者たちも席を立つ。

 セレスティアも立ち上がりながら、机上の書類へ目を落とした。

 ――エルランド。

 父の名。
 母の名。
 そして、自分の名。

 捨てたいわけではない。

 嫌っているわけでもない。

 ただ――
 そこへ戻ることが、自分の未来だとは思えなかった。

 ふと、ノクティスが足を止める。

 「セレスティア殿」

 呼ばれて、顔を上げる。

 「一つだけ」

 暗赤の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。

 「誰と生きるかを選ぶことと、ご自身の権利を手放すことは――別の話です」

 セレスティアは、何も答えられなかった。

 ノクティスはそれ以上何も言わず、踵を返す。

 扉が閉じる。

 静寂。

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 やがて、ベイルが静かに息を吐いた。

 「……そう来たか」

 セレスティアが振り返る。
 
 「どういうこと?」

 ベイルは閉ざされた扉へ視線を向けたまま、低く言った。

 「あいつは、お前に選択肢を与えてるんじゃない」

 「……え?」

 「自分の望む答えを選ばせるために、選択肢を並べている」

 セレスティアの瞳が、わずかに揺れた。

 「家も、爵位も、俺との婚姻も。全部手元に残せると言ってな」

 一度、言葉を切る。

 「その先に何があるかは、言わずに」

 セレスティアは黙った。

 確かに、ノクティスは何一つ強いてはいない。

 継承しろとも、帝国に残れとも言わなかった。

 ただ、失わずに済む道を示しただけだ。

 ーーそう見えるように。

 「だから、今すぐ答えを出すな」
 
 ベイルの視線が、セレスティアへ戻る。

 「あいつが何を言ったかじゃない」

 わずかな間。

 「お前が、どうしたいかだ」

 セレスティアは、すぐには答えられなかった。
 
 もう一度、机上の書類へ視線を落とす。

 ーーエルランド。

 捨てたいわけではない。
 あの家に生まれたことを、否定したいわけでもない。

 父も、母も。
 そこで過ごした幼い日々も。
 すべて、自分の一部だった。

 けれどーー

 それを手放さないことと、そこへ戻ることは、本当に同じなのだろうか。

 『誰と生きるかを選ぶことと、ご自身の権利を手放すことはーー別の話です』

 ノクティスの声が、まだ耳の奥に残っている。

 そして、それとは別に。

 『お前が、どうしたいかだ』

 ベイルの言葉も、胸の奥に残っていた。

 二つの言葉の間で、セレスティアは静かに目を伏せる。

 
 ーーヴェルディアへ戻りたい。

 そう思う。

 そして、その先に浮かぶのはーー

 低い声。
 まっすぐな眼差し。

 剣を交えれば、誰よりも真っ直ぐで。
 時折、驚くほど不器用で。
 それなのに、こちらが戸惑うようなことを、ひどく迷いなく言ったり。

 思い返せば、いつからだろう。
 隣にいることに、安堵するようになったのは。

 そしてーー
 離れることを、寂しいと思うようになったのは。
 
 ベイルの隣へーー戻りたい。

 その思いは、以前よりずっとはっきりしている。
 

 ーーけれど。

 それなら、自分はエルランドとどう向き合えばいいのだろう。
 
 継がないことは、捨てることなのか。

 離れることは、また逃げることになるのか。

 その答えだけがーーまだ、見つからなかった。
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