騎士団隊長の初恋は、訳あり男装剣士でした
迎賓棟へ戻った頃には、陽はすでに傾き始めていた。
長い廊下の窓から差し込む光が、床の上へ淡く伸びている。
帝国側の者たちと別れ、一行はそのままセレスティアにあてがわれた部屋へ戻った。
王国側の書記官は、面談で持ち帰った記録を確認している。
リタもまた、茶の支度を整えながら静かに動いていた。
だが、セレスティアはほとんど言葉を発さなかった。
窓辺に立ち、帝都の街並みを見つめる。
――エルランドを継ぐ。
そして。
――ベイルを、夫として迎える。
ノクティスの言葉が、まだ頭の奥に残っていた。
やがて、書記官が顔を上げる。
「私は一度、先ほどの内容を整理して参ります」
「ええ。お願いします」
セレスティアが答える。
リタも二人の様子を見て、わずかに視線を巡らせた。
「では、私もお茶を入れ直して参りますね」
どこか察したようにそう言って、書記官とともに部屋を出ていく。
扉が閉じた。
残されたのは、セレスティアとベイルだけだった。
静けさが落ちる。
ベイルは何も言わない。
窓辺から少し離れた場所に立ち、ただセレスティアを見ている。
その距離が、今は妙に意識された。
セレスティアは、胸元で指先を重ねる。
聞きたいことがある。
けれど――
なぜだろう。
先ほどノクティスと向き合っていた時よりも、その問いを口にすることの方が難しく感じた。
「……ベイル様」
ようやく声を出す。
「なんだ」
いつもと変わらない、低い声。
セレスティアは一度だけ視線を伏せた。
「先ほど……アストレア公が言っていたことなのですが」
ベイルの目が、わずかに細くなる。
「私がエルランドを継げば、ベイル様を夫として迎えることもできる、と」
「ああ」
短い返答。
「ベイル様は、アーデン侯爵家のご次男なのですよね」
「ああ。家督は兄が継ぐ」
「……そう、ですよね」
そこで、セレスティアはふと黙った。
考えてみれば。
自分たちは、婚約という立場になってからも、その先について話したことがない。
婚約が正式に認められるのかさえ、まだ定まっていなかったのだから、当然といえば当然だった。
けれどーー
ノクティスに「ベイルを夫として迎える」と言われて、初めて気づいた。
自分はこれまで、ベイルと婚姻した“その後”を、具体的に考えたことがなかった。
「……あの」
「なんだ」
「私がエルランドを継がずーー」
一度、言葉を切る。
「このままヴェルディアへ戻って、ベイル様と婚姻することになったら」
そこまで言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「……私は、どこで暮らすことになるのでしょう」
「……」
ベイルは、すぐには答えなかった。
わずかに目を見開いたあと、その視線が静かにセレスティアへ留まる。
まるで、今の言葉をもう一度、自分の中で確かめるように。
セレスティアは、ベイルのその沈黙の意味が分からず、わずかに首を傾げる。
「アーデン侯爵家へ入るのではない……ですよね?」
ベイルはそこでようやく、小さく息を吐いた。
「形式上はアーデン家との縁を持つことにはなるが、兄が家督を継げば、本邸も王都邸も兄が当主として管理することになる」
「だから、婚姻すれば俺たちは別に居を構えることになるだろう」
思いのほか、あっさりとした答えだった。
「別に……?」
「ああ。王都になるだろうな」
「王都……」
「騎士団の仕事がある。今の立場を続けるなら、その方が都合がいい」
現実的な説明。
セレスティアは、静かに頷く。
「では……」
一拍。
「そこへ、私も?」
ベイルの動きが、ほんのわずかに止まった。
「……婚姻するなら、そうなるだろう」
セレスティアも、それ以上は何も言わなかった。
けれど。
――俺たちは、別に居を構える。
先ほどのベイルの言葉が、今になって妙に胸に残った。
王都のどこかにある家。
そこからベイルは、朝になれば騎士団へ向かうのだろう。
そして一日が終われば――
そこへ、帰ってくる。
自分のいる場所へ。
「……」
不意に、胸の奥が落ち着かなくなる。
同じ家で。
朝も。
夜も。
そこまで考えて――
思考が止まった。
「……どうした」
「いえ」
反射的に答える。
けれど、なぜだろう。
急にベイルの顔をまともに見られなくなった。
視線を逸らす。
「……そういうものなのですね」
「何がだ」
「婚姻、というものが」
「……」
ベイルも黙った。
今度はセレスティアが顔を上げる。
ベイルは、何か言いたげにこちらを見ていた。
けれど、視線が合うと、わずかに目を逸らす。
「ベイル様?」
「いや……」
一度、息を置く。
「俺も、そこまで具体的に考えたことはなかった」
「……そうなのですか?」
「ああ」
「……そうですね」
セレスティアが小さく言う。
「まだ、正式に婚約したわけでもありませんものね」
その言葉に。
ベイルの眉が、ほんのわずかに寄った。
「……正確には、そうだな」
声音に微妙な引っかかりがある。
セレスティアは気づかず、続けた。
「それなのに、随分先の話をしてしまいました」
「……別にいいだろう」
思ったより早く返ってきた。
セレスティアが顔を上げる。
「え?」
「可能性として話しているだけだ」
淡々とした声。
けれど。
「考えて悪いことでもない」
「……」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
――考えても、いい。
ベイルとの、その先を。
なぜかそれだけで、胸の奥がわずかに温かくなった。
だが。
同時に。
別の未来が、頭をよぎる。
――エルランド。
セレスティアの表情から、わずかに柔らかさが消えた。
長い廊下の窓から差し込む光が、床の上へ淡く伸びている。
帝国側の者たちと別れ、一行はそのままセレスティアにあてがわれた部屋へ戻った。
王国側の書記官は、面談で持ち帰った記録を確認している。
リタもまた、茶の支度を整えながら静かに動いていた。
だが、セレスティアはほとんど言葉を発さなかった。
窓辺に立ち、帝都の街並みを見つめる。
――エルランドを継ぐ。
そして。
――ベイルを、夫として迎える。
ノクティスの言葉が、まだ頭の奥に残っていた。
やがて、書記官が顔を上げる。
「私は一度、先ほどの内容を整理して参ります」
「ええ。お願いします」
セレスティアが答える。
リタも二人の様子を見て、わずかに視線を巡らせた。
「では、私もお茶を入れ直して参りますね」
どこか察したようにそう言って、書記官とともに部屋を出ていく。
扉が閉じた。
残されたのは、セレスティアとベイルだけだった。
静けさが落ちる。
ベイルは何も言わない。
窓辺から少し離れた場所に立ち、ただセレスティアを見ている。
その距離が、今は妙に意識された。
セレスティアは、胸元で指先を重ねる。
聞きたいことがある。
けれど――
なぜだろう。
先ほどノクティスと向き合っていた時よりも、その問いを口にすることの方が難しく感じた。
「……ベイル様」
ようやく声を出す。
「なんだ」
いつもと変わらない、低い声。
セレスティアは一度だけ視線を伏せた。
「先ほど……アストレア公が言っていたことなのですが」
ベイルの目が、わずかに細くなる。
「私がエルランドを継げば、ベイル様を夫として迎えることもできる、と」
「ああ」
短い返答。
「ベイル様は、アーデン侯爵家のご次男なのですよね」
「ああ。家督は兄が継ぐ」
「……そう、ですよね」
そこで、セレスティアはふと黙った。
考えてみれば。
自分たちは、婚約という立場になってからも、その先について話したことがない。
婚約が正式に認められるのかさえ、まだ定まっていなかったのだから、当然といえば当然だった。
けれどーー
ノクティスに「ベイルを夫として迎える」と言われて、初めて気づいた。
自分はこれまで、ベイルと婚姻した“その後”を、具体的に考えたことがなかった。
「……あの」
「なんだ」
「私がエルランドを継がずーー」
一度、言葉を切る。
「このままヴェルディアへ戻って、ベイル様と婚姻することになったら」
そこまで言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「……私は、どこで暮らすことになるのでしょう」
「……」
ベイルは、すぐには答えなかった。
わずかに目を見開いたあと、その視線が静かにセレスティアへ留まる。
まるで、今の言葉をもう一度、自分の中で確かめるように。
セレスティアは、ベイルのその沈黙の意味が分からず、わずかに首を傾げる。
「アーデン侯爵家へ入るのではない……ですよね?」
ベイルはそこでようやく、小さく息を吐いた。
「形式上はアーデン家との縁を持つことにはなるが、兄が家督を継げば、本邸も王都邸も兄が当主として管理することになる」
「だから、婚姻すれば俺たちは別に居を構えることになるだろう」
思いのほか、あっさりとした答えだった。
「別に……?」
「ああ。王都になるだろうな」
「王都……」
「騎士団の仕事がある。今の立場を続けるなら、その方が都合がいい」
現実的な説明。
セレスティアは、静かに頷く。
「では……」
一拍。
「そこへ、私も?」
ベイルの動きが、ほんのわずかに止まった。
「……婚姻するなら、そうなるだろう」
セレスティアも、それ以上は何も言わなかった。
けれど。
――俺たちは、別に居を構える。
先ほどのベイルの言葉が、今になって妙に胸に残った。
王都のどこかにある家。
そこからベイルは、朝になれば騎士団へ向かうのだろう。
そして一日が終われば――
そこへ、帰ってくる。
自分のいる場所へ。
「……」
不意に、胸の奥が落ち着かなくなる。
同じ家で。
朝も。
夜も。
そこまで考えて――
思考が止まった。
「……どうした」
「いえ」
反射的に答える。
けれど、なぜだろう。
急にベイルの顔をまともに見られなくなった。
視線を逸らす。
「……そういうものなのですね」
「何がだ」
「婚姻、というものが」
「……」
ベイルも黙った。
今度はセレスティアが顔を上げる。
ベイルは、何か言いたげにこちらを見ていた。
けれど、視線が合うと、わずかに目を逸らす。
「ベイル様?」
「いや……」
一度、息を置く。
「俺も、そこまで具体的に考えたことはなかった」
「……そうなのですか?」
「ああ」
「……そうですね」
セレスティアが小さく言う。
「まだ、正式に婚約したわけでもありませんものね」
その言葉に。
ベイルの眉が、ほんのわずかに寄った。
「……正確には、そうだな」
声音に微妙な引っかかりがある。
セレスティアは気づかず、続けた。
「それなのに、随分先の話をしてしまいました」
「……別にいいだろう」
思ったより早く返ってきた。
セレスティアが顔を上げる。
「え?」
「可能性として話しているだけだ」
淡々とした声。
けれど。
「考えて悪いことでもない」
「……」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
――考えても、いい。
ベイルとの、その先を。
なぜかそれだけで、胸の奥がわずかに温かくなった。
だが。
同時に。
別の未来が、頭をよぎる。
――エルランド。
セレスティアの表情から、わずかに柔らかさが消えた。