スィーツしか見てなかったら天才イケメンパティシエに愛された
第九話 飴細工のバラのケーキ
今日は灯里がカフェ ソレイユ・ヴェールで働き始めてから初めての休日。
だが、灯里は難しい顔をして部屋のベッドの上でスマホを凝視していた。
(一刻も早く新居を見つけないと!)
翡翠はいつまでもこの部屋にいたらいいと言ってくれているが、翡翠への不純な好意を自覚した今、せめて住居は離れた方が良いという結論に至ったのである。
物理的に距離ができれば、会うのは職場だけになる。そうすれば気持ちは治まるだろうと。
(今後、翡翠さんに恋人ができた時に隣室だと耐えられないし……)
というわけで、灯里は勤め先であるカフェ ソレイユ・ヴェールに通いやすい、オートロック付きの一人暮らし物件を探しているのだ。
「お?」
ふいに、高速フリップする灯里の指先が止まる。
(この物件、家賃も丁度良い!この物件逃したら、もう他にない……)
仕事が終わった後はずっと物件を探している灯里。この辺りで条件に合うものはこの物件しかないとわかっていた。
灯里はバッグを持ってマンションを飛び出した。
このマンションからカフェは目と鼻の先だが、翡翠は出勤も退勤も常に灯里に付き添って部屋まで送っていたので、灯里が一人で外に出るのはあの日以来で。
(さすがにもう何もないと思うけど、一応知らせとくか……)
翡翠は過保護なタチで、灯里が一人で行動すると心配するのだ。
灯里はスマホを取り出して、『良い物件を見つけたので、今から駅前の不動産屋さんに行って来ます』とメッセージを送ってから、不動産屋に向かった。
*****
(駅前に来るのも久しぶりだなぁ)
久しぶりの外出らしい外出。灯里は解放感を感じながら歩く。
目当ての不動産屋が見えてきて、灯里はコーヒーショップの前を足早に通り過ぎようとした時。
コーヒーショップから突然出てきた男を見て、灯里は真っ青になる。
「ははっ、やっと見つけたぞ!」
「どうして……」
目の前に、勝ち誇ったような顔でニヤつく成木がいた。
「ここからなら駅に来る人間がよく見えるからな、毎日張ってたんだよ!」
(毎日……?平日なのに仕事は……?)
なぜここまで成木に執着されるのか、灯里には理解ができず固まってしまった。
「何勝手に仕事やめてんだよ!お前は俺のサンドバッグだろ!」
成木は怒鳴りながら、拳を振り上げる。
逃げなきゃって頭では思うのに、灯里の足は張りついたように動かない。
ただ目を瞑ることしか……
「うっ!」
……苦しげな呻き声が聞こえたーー成木の。
灯里が恐る恐る目を開くと、翡翠が成木の腕を掴んでいた。
怒りに染まった翡翠は、成木を掴む手にさらに力を込める。
「なんだお前ッ!痛い!離せ!」
情けない声をあげる成木を翡翠がパッと離した。
急に離されて、成木は勢い余って尻餅をつく。
「灯里さん、大丈夫ですかーー」
灯里の方を向いた翡翠の背後。
成木が立ち上がりながら、翡翠に拳を向ける姿が灯里の目に映った。
「危ない!」
「ぐあっ!?」
翡翠の危機に灯里の体が考えるより先に動いた。
灯里が成木に蹴りを食らわせたのだ。
何が起こったのかわかっていない表情で地面に転がる成木を、灯里は荒い息を吐きながら見下ろす。
「二度とッ私の前に現れないで!」
「ひいっ!」
灯里の剣幕に怖じ気づいた成木が、こけつまろびつ逃げていった。
「……警察を呼びますか」
「多分、もう大丈夫な気がします。私が歯向かうとは思ってなかったんでしょうね……」
あんな怯えた顔の成木は初めて見た。
ああいう人間は返り討ちを食らうことを想像していないので、意外と打たれ弱い。
*****
「それにしても、間に合ってよかった……」
駅前から離れ、ひと気がない道に入ると、隣の翡翠が深く安堵の息を吐いた。
「翡翠さん、助けに来てくれてありがとうございます……」
「いえ、スマホのメッセージに気付くのが遅れて怖い思いをさせました。不動産屋に行く時に声をかけてほしかったです……」
「す、すみません!そこまで甘えられないと思って……」
「最近、灯里さんは私のことを避けてますよね」
「!」
まさか気付かれていたなんて。
動揺した灯里は言葉に詰まる。
それで確信を得た翡翠が、悲しそうに目を伏せた。
「私が気付かないうちに灯里さんに何か失礼なことをしていたら、すみまーー」
「翡翠さんは何も悪くないです!悪いのは私……翡翠さんのスィーツだけじゃなく、翡翠さんのことも好きになってしまって……」
ああ、一生言う気はなかったのに。けれど、傷ついた顔の翡翠を見たら、誤解を解くために白状するしかなかった。
(浜地さん達に申し訳ないけど、仕事も辞めるしか……)
「わ!?」
俯いていた灯里の視界が急に暗くなり、思わず声が漏れた。
「嫌われてなくてよかった……」
全身をすっぽり包まれた感触と、すぐ耳元で聞こえる翡翠の声。
(私、翡翠さんに抱きしめられてる……?)
「す、すみません!同じ気持ちなのがうれしくてつい……」
翡翠の体が離れ、灯里は恐る恐る顔を上げた。
目の前には、慌てた顔の翡翠が立っている。
「夢……?」
「夢じゃないです」
「だって、翡翠さんのような素敵な人が、何の取り柄もない私なんかを好きになるわけが」
「『なんか』じゃない。灯里さんは自己評価が低すぎます。あなたは明るく素直でかわいい……魅力的な女性だと自覚した方がいい」
翡翠が灯里の目を見つめながら、手を取る。
「翡翠さんは私を過大評価してます。私、翡翠さんが見た目だけで判断されて傷ついた話を聞いたのに、翡翠さんの外見にもかっこいいってときめいてるんですよ……!」
灯里が決死の覚悟で言ったのに、翡翠は驚いた後に柔らかい微笑を浮かべた。
「灯里さんにそう思ってもらえるなら、この外見で生まれて良かったと初めて思えました」
翡翠にとって、美しい容姿はマイナスしかもたらさなかった。
「あなたは外見だけですり寄って来た女性達とは違う。私自身より先に、まず私のお菓子を好きになってくれた」
「じゃあ私……翡翠さんのことを好きでいていいんですか?」
「もちろん」
翡翠が灯里の手をぎゅっと握り、歩き出した。
(夢みたい……)
マンションに戻っても翡翠は灯里の手を離さないので、灯里は翡翠に連れられるまま、彼の部屋に足を踏み入れた。
作りは灯里の部屋と同じだが、甘いお菓子の香りがする。
「私が作ったケーキを食べてくれませんか」
「は、はい」
リビングのソファーに案内されて腰かける灯里。すぐに翡翠が冷蔵庫からケーキを持って戻って来た。
「これって……!」
赤いバラの飴細工と、シュガーペーストのレースが飾られた美しいケーキ。
「前の店で作っていたケーキです。映え目当てで捨てられてから作るのが怖くなりましたが……灯里さんに食べてほしくて」
「食べてみたかったんです、いただきます……!」
灯里はフォークで切り取って口に含む。
(なにこれ……飴でできた薄い花びらが儚く砕けてレース部分と生クリームと溶け合って……スポンジが受け止める……全てが調和してる)
「夢のように美味しい……幸せな味がします」
灯里は泣いていた。
こんな奇跡のようなケーキが、映え目当てで食べられることなく廃棄されていたことが悔しくてたまらない。
灯里は涙をぬぐってから、ケーキを完食した。
フォークを置いた直後。
いつの間にか隣に座っていた翡翠が、灯里の肩を抱き寄せる。
「ありがとう……どんなに傷ついても、お菓子を作ることを諦めないでよかった。あなたに出会えた」
「……私も翡翠さんのスィーツに、翡翠さんに出会えてよかった」
灯里は顔を上げて遠い目をする。
フィナンシェの香りに導かれてソレイユ・ヴェールに辿り着いたあの日から今までのことを思い返した。
「ただ生きるために仕方なく仕事をするだけの冴えない毎日で。社長の親戚の成木にミスを着せられても抗うこともできなくて……
でも、翡翠さんのスィーツに出会ってから、ソレイユ・ヴェールに行くために仕事を頑張れるようになって、美味しく食べるために運動と自炊を始めて……毎日が楽しくなってきたんです」
灯里はそう言って翡翠に笑いかけた。そして、すぐに目を伏せる。
「こんなに美味しいスィーツを作れて優しくて素敵な人が私を好きだなんて、やっぱり夢を見てる気持ちで……」
「……あなたこそ俺を過大評価している。俺はあなたにキスをしたいと考えてる、普通の男だ」
「へ!?」
(翡翠さん、普段は"俺"って言うんだ……って違う!そのあと!)
驚いた灯里が翡翠を見上げる。
深い緑色の瞳が灯里を射抜く。
形のいい唇が近づいてーー触れた。
「本当だ、幸せな味がする」
ーーーーー
あとがき
読んでいただきありがとうございました!
一件落着したのでとりあえず終了です。
あと翡翠視点のお話を書く予定です。
だが、灯里は難しい顔をして部屋のベッドの上でスマホを凝視していた。
(一刻も早く新居を見つけないと!)
翡翠はいつまでもこの部屋にいたらいいと言ってくれているが、翡翠への不純な好意を自覚した今、せめて住居は離れた方が良いという結論に至ったのである。
物理的に距離ができれば、会うのは職場だけになる。そうすれば気持ちは治まるだろうと。
(今後、翡翠さんに恋人ができた時に隣室だと耐えられないし……)
というわけで、灯里は勤め先であるカフェ ソレイユ・ヴェールに通いやすい、オートロック付きの一人暮らし物件を探しているのだ。
「お?」
ふいに、高速フリップする灯里の指先が止まる。
(この物件、家賃も丁度良い!この物件逃したら、もう他にない……)
仕事が終わった後はずっと物件を探している灯里。この辺りで条件に合うものはこの物件しかないとわかっていた。
灯里はバッグを持ってマンションを飛び出した。
このマンションからカフェは目と鼻の先だが、翡翠は出勤も退勤も常に灯里に付き添って部屋まで送っていたので、灯里が一人で外に出るのはあの日以来で。
(さすがにもう何もないと思うけど、一応知らせとくか……)
翡翠は過保護なタチで、灯里が一人で行動すると心配するのだ。
灯里はスマホを取り出して、『良い物件を見つけたので、今から駅前の不動産屋さんに行って来ます』とメッセージを送ってから、不動産屋に向かった。
*****
(駅前に来るのも久しぶりだなぁ)
久しぶりの外出らしい外出。灯里は解放感を感じながら歩く。
目当ての不動産屋が見えてきて、灯里はコーヒーショップの前を足早に通り過ぎようとした時。
コーヒーショップから突然出てきた男を見て、灯里は真っ青になる。
「ははっ、やっと見つけたぞ!」
「どうして……」
目の前に、勝ち誇ったような顔でニヤつく成木がいた。
「ここからなら駅に来る人間がよく見えるからな、毎日張ってたんだよ!」
(毎日……?平日なのに仕事は……?)
なぜここまで成木に執着されるのか、灯里には理解ができず固まってしまった。
「何勝手に仕事やめてんだよ!お前は俺のサンドバッグだろ!」
成木は怒鳴りながら、拳を振り上げる。
逃げなきゃって頭では思うのに、灯里の足は張りついたように動かない。
ただ目を瞑ることしか……
「うっ!」
……苦しげな呻き声が聞こえたーー成木の。
灯里が恐る恐る目を開くと、翡翠が成木の腕を掴んでいた。
怒りに染まった翡翠は、成木を掴む手にさらに力を込める。
「なんだお前ッ!痛い!離せ!」
情けない声をあげる成木を翡翠がパッと離した。
急に離されて、成木は勢い余って尻餅をつく。
「灯里さん、大丈夫ですかーー」
灯里の方を向いた翡翠の背後。
成木が立ち上がりながら、翡翠に拳を向ける姿が灯里の目に映った。
「危ない!」
「ぐあっ!?」
翡翠の危機に灯里の体が考えるより先に動いた。
灯里が成木に蹴りを食らわせたのだ。
何が起こったのかわかっていない表情で地面に転がる成木を、灯里は荒い息を吐きながら見下ろす。
「二度とッ私の前に現れないで!」
「ひいっ!」
灯里の剣幕に怖じ気づいた成木が、こけつまろびつ逃げていった。
「……警察を呼びますか」
「多分、もう大丈夫な気がします。私が歯向かうとは思ってなかったんでしょうね……」
あんな怯えた顔の成木は初めて見た。
ああいう人間は返り討ちを食らうことを想像していないので、意外と打たれ弱い。
*****
「それにしても、間に合ってよかった……」
駅前から離れ、ひと気がない道に入ると、隣の翡翠が深く安堵の息を吐いた。
「翡翠さん、助けに来てくれてありがとうございます……」
「いえ、スマホのメッセージに気付くのが遅れて怖い思いをさせました。不動産屋に行く時に声をかけてほしかったです……」
「す、すみません!そこまで甘えられないと思って……」
「最近、灯里さんは私のことを避けてますよね」
「!」
まさか気付かれていたなんて。
動揺した灯里は言葉に詰まる。
それで確信を得た翡翠が、悲しそうに目を伏せた。
「私が気付かないうちに灯里さんに何か失礼なことをしていたら、すみまーー」
「翡翠さんは何も悪くないです!悪いのは私……翡翠さんのスィーツだけじゃなく、翡翠さんのことも好きになってしまって……」
ああ、一生言う気はなかったのに。けれど、傷ついた顔の翡翠を見たら、誤解を解くために白状するしかなかった。
(浜地さん達に申し訳ないけど、仕事も辞めるしか……)
「わ!?」
俯いていた灯里の視界が急に暗くなり、思わず声が漏れた。
「嫌われてなくてよかった……」
全身をすっぽり包まれた感触と、すぐ耳元で聞こえる翡翠の声。
(私、翡翠さんに抱きしめられてる……?)
「す、すみません!同じ気持ちなのがうれしくてつい……」
翡翠の体が離れ、灯里は恐る恐る顔を上げた。
目の前には、慌てた顔の翡翠が立っている。
「夢……?」
「夢じゃないです」
「だって、翡翠さんのような素敵な人が、何の取り柄もない私なんかを好きになるわけが」
「『なんか』じゃない。灯里さんは自己評価が低すぎます。あなたは明るく素直でかわいい……魅力的な女性だと自覚した方がいい」
翡翠が灯里の目を見つめながら、手を取る。
「翡翠さんは私を過大評価してます。私、翡翠さんが見た目だけで判断されて傷ついた話を聞いたのに、翡翠さんの外見にもかっこいいってときめいてるんですよ……!」
灯里が決死の覚悟で言ったのに、翡翠は驚いた後に柔らかい微笑を浮かべた。
「灯里さんにそう思ってもらえるなら、この外見で生まれて良かったと初めて思えました」
翡翠にとって、美しい容姿はマイナスしかもたらさなかった。
「あなたは外見だけですり寄って来た女性達とは違う。私自身より先に、まず私のお菓子を好きになってくれた」
「じゃあ私……翡翠さんのことを好きでいていいんですか?」
「もちろん」
翡翠が灯里の手をぎゅっと握り、歩き出した。
(夢みたい……)
マンションに戻っても翡翠は灯里の手を離さないので、灯里は翡翠に連れられるまま、彼の部屋に足を踏み入れた。
作りは灯里の部屋と同じだが、甘いお菓子の香りがする。
「私が作ったケーキを食べてくれませんか」
「は、はい」
リビングのソファーに案内されて腰かける灯里。すぐに翡翠が冷蔵庫からケーキを持って戻って来た。
「これって……!」
赤いバラの飴細工と、シュガーペーストのレースが飾られた美しいケーキ。
「前の店で作っていたケーキです。映え目当てで捨てられてから作るのが怖くなりましたが……灯里さんに食べてほしくて」
「食べてみたかったんです、いただきます……!」
灯里はフォークで切り取って口に含む。
(なにこれ……飴でできた薄い花びらが儚く砕けてレース部分と生クリームと溶け合って……スポンジが受け止める……全てが調和してる)
「夢のように美味しい……幸せな味がします」
灯里は泣いていた。
こんな奇跡のようなケーキが、映え目当てで食べられることなく廃棄されていたことが悔しくてたまらない。
灯里は涙をぬぐってから、ケーキを完食した。
フォークを置いた直後。
いつの間にか隣に座っていた翡翠が、灯里の肩を抱き寄せる。
「ありがとう……どんなに傷ついても、お菓子を作ることを諦めないでよかった。あなたに出会えた」
「……私も翡翠さんのスィーツに、翡翠さんに出会えてよかった」
灯里は顔を上げて遠い目をする。
フィナンシェの香りに導かれてソレイユ・ヴェールに辿り着いたあの日から今までのことを思い返した。
「ただ生きるために仕方なく仕事をするだけの冴えない毎日で。社長の親戚の成木にミスを着せられても抗うこともできなくて……
でも、翡翠さんのスィーツに出会ってから、ソレイユ・ヴェールに行くために仕事を頑張れるようになって、美味しく食べるために運動と自炊を始めて……毎日が楽しくなってきたんです」
灯里はそう言って翡翠に笑いかけた。そして、すぐに目を伏せる。
「こんなに美味しいスィーツを作れて優しくて素敵な人が私を好きだなんて、やっぱり夢を見てる気持ちで……」
「……あなたこそ俺を過大評価している。俺はあなたにキスをしたいと考えてる、普通の男だ」
「へ!?」
(翡翠さん、普段は"俺"って言うんだ……って違う!そのあと!)
驚いた灯里が翡翠を見上げる。
深い緑色の瞳が灯里を射抜く。
形のいい唇が近づいてーー触れた。
「本当だ、幸せな味がする」
ーーーーー
あとがき
読んでいただきありがとうございました!
一件落着したのでとりあえず終了です。
あと翡翠視点のお話を書く予定です。