ゆめもうで

第一章 一月の風と、不完全なシンメトリー

大阪からの「しまかぜ」は、平日のせいか空席が目立っていた。
チケットは思いのほか簡単に手に入り、私は一人、その座席に身を預けてここまでやってきた。
車中でスマートフォンを確認すると、名古屋から来る彼から「コンビニに居る」と短いLINEが入っていた。

一月の賢島駅。改札を抜けると、すぐ目の前にコンビニエンス・ストアがあった。
私は立ち止まり、薄いガラスの向こう側に視線を投げた。そこに、一年という空白を飛び越えて、彼が立っていた。
驚くほど、何ひとつ変わっていない。それは私の中に眠っていた記憶のレイヤーと、寸分の狂いもなく重なり合う彼だった。
その完璧な一致を確認した瞬間、私の心臓は不規則な、それでいて強いリズムを刻み始めた。
それは、長い沈黙を守っていた重い機械が、不意にスイッチを入れられて動き出す音に似ていた。

彼はドリンクの棚の前に立ち、何かを物色するでもなく、ただ並んでいるボトルを眺めていた。
何かを選ぼうという意志は感じられない。余ってしまった半端な時間を、そこで無為にやり過ごしているだけのように見えた。
その姿は、まるでそこだけ別の情景から切り抜かれた断片のように、周囲の空気から不自然なほど切り離されていた。
その無防備な背中を見た瞬間、私の胸の奥で、熱い塊のようなものがせり上がってきた。
高揚感。
四十歳を過ぎて、こんな風に誰かに会うだけで心が浮き立つなんて滑稽だとは思う。けれど、湧き上がるそれを抑えることはできなかった。冷え切った空気の中で、頬だけが熱くなるのがわかる。
「待った?」
背中越しに声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。 厚手のウールのコートに、飾りのない紺色のマフラー。
彼は私を見て、何か眩しいものを見るように少しだけ目を細めた。そこには驚きよりもむしろ、静かな確信のようなものが滲んでいた。彼もまた、自分の中に眠っていた記憶の層を一枚ずつめくり、今ここにいる私の姿が、その一番下にあるオリジナルと寸分の狂いもないことを確かめているようだった。
「いや、僕も着いたばかりだ」
彼は短く答え、手ぶらで店を出た。特別な再会の言葉はない。ただ、一年の空白が最初から存在しなかったかのように、私たちの時間はあまりにも自然に、そして滑らかに重なり合った。

私たちは言葉少なに駅舎を出て、潮の匂いに誘われるように賢島港へと向かった。
そこからは英虞湾(あごわん)を行く小さな船――海上タクシーだ。一月の平日の昼下がり、乗客は私たち以外には誰もいない。エンジンの低い唸り声が始まり、船が桟橋を離れる。
冬の海風が、鼻腔の奥まで冷たく刺した。潮騒の香りと、船が吐き出す重油の焦げたような匂いが混じり合う。
その独特な匂いに包まれながら、私はデッキの手すりに手をかけた。視界には、真珠の養殖筏(いかだ)や、冷たい海中で静かに揺れる海苔の網が広がっている。海面から規則正しく突き出した杭や、等間隔に並ぶ浮き。それらは冬の穏やかな波に揺られ、静かに時を刻んでいるようだった。

彼は私の隣で、飛沫を上げる海面を黙って見つめていた。
空は低く、重たい鉛色をしている。船のデッキで、冬の海風が私の髪を乱暴にかき回した。視界が遮られ、私が手で押さえようとしたとき、彼が不意に手を伸ばしてきた。
彼の細長い指が、私の頬にかかった髪を丁寧に掬い取り、耳の後ろへと流す。指先が耳の輪郭に触れた。その指は外気で驚くほど冷たく、けれどそこから火傷しそうなほどの熱が伝ってくるような錯覚を覚えた。
彼は私の髪を整え終えると、そのまま視線を空へと移した。
「雪が降りそうだね、とても静かに」
次第に、空から白いものが落ちてきた。最初は埃のような細かな粒子だったが、すぐにしっかりとした雪片へと変わり、視界を白く染め始めた。

やがて視線の先に、海に突き出た桟橋と、その奥の入り組んだ海岸線に佇む建物が見えてきた。目的の地中海村だ。日本の湿った冬の風景から完全に切り離された、美しい虚構の街。船が桟橋に着くと、私たちは雪の舞う中へと降り立った。
桟橋は頼りないほど幅が狭く、人が一人通るのがやっとだった。足元には黒い海が揺れている。
私は不安定な足場と寒さに耐えかねて、彼の厚いコートの腕にしがみついた。ウールの粗い感触と、その奥にある彼の体温が、掌を通して伝ってくる。彼は何も言わずに、私の重みを受け止めて歩を進めた。

階段を上がりきると視界が開け、石畳のスロープが緩やかに下の方へと伸びていた。不揃いな石がパズルのように敷き詰められたその道の先には、この場所特有の白い建物ではなく、赤茶色の土壁で塗られた建物が静かに建っていた。まるでここだけ別の時間が流れているような、重厚で温かみのある佇まいだ。
レストランの入口まで辿り着いたが、ドアには「準備中」の札が掛かっていた。予約の時間にはまだ少し早い。
「仕方ない。少し歩こうか」
私たちは建物の周りをゆっくりと回り始めた。 レストランの裏手は広い木製デッキになっていて、その先にはただ海だけが広がっていた。シーズンオフの今は、いくつか並べられた椅子も所在なげに放置され、ひどく閑散としている。
吹き付ける風が強くなり、雪の勢いも増した。私は再び彼の腕を掴み、今度はさっきよりも強くしがみついた。
「寒いな」 彼が白い息を吐きながら言った。
「ええ、すごく」
雪の降る海は、恐ろしいほど静かだった。波の音さえも雪に吸い込まれてしまったかのように、完全な静寂がそこにあった。
「世界の果てみたいだ」 彼が海を見つめたまま言った。
「そうね。誰もいない」
私たちはしばらくの間、その「果て」の風景の中に立ち尽くしていた。冷たい風が頬を打ち、現実の感覚を麻痺させていく。

やがて店の扉が開く気配がして、私たちは現実へと引き戻された。 招き入れられた店内は暖かく、高い天井の空間が広がっていた。窓際の席に座り、渡された薄緑色のメニューに目を落とす。
「『ウルグル』か」 彼はコース料理の名前を口の中で転がすように言った。
「サン・セバスチャンの丘の名前だね。響きが少し重たい」
彼の視線はメニューの上部で止まった。
「見てごらん。このカツオのマルミタコ風、『地元の水産高校生が釣り上げたカツオを使用しています』と書いてある」
「本当だ。なんだか健気でいいじゃない」 私が言うと、彼は小さく苦笑した。
「ああ、悪くない。青春をかけて釣り上げた魚が、こうして正規の軌道を外れた男女の胃袋に収まるわけだ。食物連鎖というよりは、感情の不条理なサイクルを感じるね」
メインディッシュを選ぶ段になって、私は「本日の魚、ピルピルソース」を指差した。
「ピルピル」 彼はその言葉を、未知の言語のように復唱した。
「バスクの伝統的なソースよ。干し鱈のゼラチン質とオリーブオイルを時間をかけて乳化させるの。その時に出る音が由来らしいわ」
「乳化か」
彼は興味深そうにナプキンを膝に広げた。
「水と油のように、本来混ざり合わないものを、熱と撹拌によって無理やり結びつける行為だ。ピルピルというのは、その時の反発の悲鳴かもしれないな」
「ただの美味しいソースよ。そんなに深読みしないで」
「そうかもしれない。でも、どこか警告音みたいに聞こえるんだ。ピルピル、ピルピル。何かが臨界点に達しようとしている合図のような」
運ばれてきた料理は、彼の不穏な解釈とは裏腹に、滑らかで美しい黄金色をしていた。私たちはナイフとフォークを動かし、静かに食事を進めた。 ピンチョスの赤ピーマン、高校生が釣ったカツオ、そしてピルピルソース。
「悪くないディテールだ」
彼は白ワインのグラスを傾けながら、建物の梁を見上げて言った。
「本物の地中海にあるような時間の蓄積はないが、空間の切り取り方は上手い。これだけ人がいないと、余計なノイズが入らなくていいな」
「私たちは、そのノイズのない場所を求めてここに来たんでしょう?」
私が言うと、彼は少し考え、それから小さく頷いた。
「そうだな。君はいつも、世界の裏側にあるような静かな場所を見つけてくる。そういうところは、君の才能だと思うよ」
カトラリーが皿に触れる微かな音と、窓の外で降り続く雪の気配だけが、水槽の底に沈んでいく小石のように、静かに時間を埋めていく。
食後の「クレマカタラーナ」が運ばれてきた。表面のキャラメリゼされた砂糖をスプーンで軽く叩き、パリっという小さな音を立てて割る。

ふと、バッグの底に仕舞い込んだ近鉄特急の特急券を思い出した。そこには、目的地とともに一際目を引く文字が印字されている。

『ゆめもうで』。

古の言葉では、愛しい人のもとへ夢の中で通うことを「夢通い(ゆめがよい)」と呼ぶのだと、いつか本で読んだことがある。
けれど今の私には、この特急券に印字された『ゆめもうで』という響きのほうが、ずっとしっくりときた。
「詣で」とは本来、神仏を拝むために神聖な場所へ赴くことだ。伊勢の神宮へと続くこの晴れやかな「切符」を手にしながら、私は今、その道すがらにあるこの場所で、自分たちだけの静かな真実に触れようとしている。
私たちはそれぞれの生活という重力圏を離れ、この「切符」を使ってここまで物理的な身体を運んできた。けれど、結局のところ、やっていることはその印字された言葉通りの「ゆめもうで」なのかもしれない。これは私にとっての、ひどく孤独で、それでいて敬虔な参拝なのだ。
一月の雪が降りしきるこの海で、本来の目的地へと向かう途中のひととき、私はこの「夢」の場所で、心の奥底にある願いを捧げに来た。
「どうか、この夢が覚めませんように」
そんな言葉にならない願いを、冷たく甘いカスタードと共に喉の奥へ流し込む。
『ゆめもうで』と記された一枚の切符が、私たちの密やかな結びつきを静かに、誠実に、証明していた。
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