ゆめもうで

第三章 カスティーリャの夜、あるいは静かな飢え

どのくらいの時間が過ぎたのか、正確にはわからなかった。
部屋を満たしていた青白い薄明はいつの間にか深い闇に塗り替えられ、空調の低い唸りだけが、私たちが依然として現実の時間軸の上に留まっていることを告げていた。
シーツの隙間から滑り込んできた冷ややかな空気に、私は小さく身震いした。さきほどまで重なり合っていた彼の体温が、皮膚の表面からゆっくりと剥がれていく感触がひどく寂しく感じられた。
私はたまらず、隣にいる彼の身体にそっと身を寄せた。彼は私の震えに気づくと、何も言わずにその大きな腕で私をそっと抱き寄せた。

「寒い?」

耳元で、深い静寂の底をたゆたうような、ゆったりとした響きが伝ってくる。それは空間そのものを優しく押し広げるような、不思議な安心感を伴っていた。

「なんかね……」

私は彼の胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「なんだか、夜が来るのが怖いの」

彼はそれには答えず、ただ私の肩を包む手に力を込めた。夜が来るということは、その先に必ず朝が控えているということだ。そして朝は、この夢のような時間を強制的に終わらせる。
彼は枕元に手を伸ばし、小さな明かりを灯した。オレンジ色の光が、乱れたリネンと、彼の端正な横顔を淡く浮き彫りにする。

「何か食べようか」

彼の言葉は、凪いだ夜の海のように静かに、私の不安の輪郭をなぞって溶かしていった。

「……ルームサービスは、ここには無いんだったかしら」

私がその余韻に浸りながら尋ねると、彼は私の髪を一度だけ優しく撫でてから言った。
「ああ、プライベートヴィラだからね。その代わり、チェックインの時にレストランの予約をしておいた。そろそろ良い時間だ」

「そうね、お腹が空いたわ」
私はゆっくりとベッドから抜け出し、洗面所の鏡の前に立った。
鏡の中には、ひどく乱れた髪の私がいた。顔は化粧が崩れ、輪郭が少しだけ曖昧になっている。けれど、その崩れた様子は、今の私という存在をありのままに肯定しているようで、これはこれで良いような気もした。隠しきれない熱の名残をそのままにしておきたい衝動に駆られたが、これからレストランに向かうのであれば、やはり整えなければならない。

私は指先で髪を梳きはじめた。その時、鏡の中に、背後から近づいてくる彼の姿が映った。
彼は私のすぐ後ろに立つと、鏡の中の私をじっと見つめながら、大きな手で自分の髪を手櫛で無造作に整えた。その自然な動作が、先ほどまで共有していた親密な時間を、日常の延長線上へと緩やかに着地させていく。

「きみはそのままでもよいのに」

彼はそのまま、私の首筋に軽く唇を触れさせた。耳元に届くその囁きには、自分自身の手できみを乱したのだという密やかな満足感が、体温のように淡く滲んでいる。
整えようとしていた私の指先が、鏡の中で一瞬だけ止まった。

鏡に映る自分の口元が、ゆるやかに、隠しようもなく綻んでいくのがわかった。
彼が私をこのように乱したことを自ら悦んでいる。その事実が、約二十年を過ぎた今この時でさえも、私が彼の心の中心に居場所を持っていることの証のように思えて、胸の奥から熱い嬉しさが込み上げてくる。

鏡越しに私のその表情を盗み見た彼は、自分が口にした言葉の甘さが急に気恥ずかしくなったのか、ふいと視線を逸らした。
「……先に行ってるよ」
少しだけ早口にそう言い残すと、彼は逃げるように洗面室を後にした。鏡の中に移っているのはもとの私だけになった。
残された空間には、彼の気配と、先ほどまでの甘やかな余韻だけが漂っていた。
私は止めていた指先を再び動かし、もう一度ゆっくりと髪を梳いた。鏡の前で少しずつ肌を整え直す。一工程ごとに、私は自分の中に「誰かに見られても良い自分」という、静かな膜を重ねていく。

身を整え終えた私は、散らばっていた衣類を拾い上げ、一つずつ丁寧に纏った。
私たちは再びウールのコートを羽織り、マフラーを巻き直した。
一軒家形式のヴィラを後にし、一歩外へ踏み出すと、そこには昼間よりもさらに純度の高い静寂が待ち構えていた。牡丹雪はいつの間にか霧雨のような細かな粒に変わり、オレンジ色の街灯の下で銀色の砂のように光っている。
コートのポケットの中で、彼の手が私の手を静かに包み込んだ。 その温もりに触れていると、かつての時間の堆積が、不意に鮮やかな記憶となって呼び起こされる。

約二十年前、私たちは同じ大学の、同じ教室にいた。 私は設計の課題に追われるたび、どこか視点がズレていたり、大事な計算をミスしたりと、危なっかしい学生だった。けれど、彼は私の描く少し突飛なアイデアを「面白いね」と、いつも独特の落ち着きで称賛してくれた。
私はその言葉を向けられるたび、どう返していいか分からずに顔を赤らめる、ただの不器用な同級生だった。彼には別の場所に住む彼女がいた。その境界線を超えてはいけないと自分に言い聞かせながら、ただ並んで課題をこなす時間が、当時の私に許された精一杯の特権だった。
卒業し、私たちは別々の重力を持つ世界でそれぞれの生活を築いた。けれど、建築という狭い円環の中では、離れた場所にいたはずの二人の距離が不意に近づくことがある。数年前、偶然が重なり、私たちは再び同じ空間で再会することになった。
お互いに守るべき家庭があり、崩せない日常がある。けれど、あの頃に塗り残してきた空白の存在を認めてしまったとき、私たちはもう、ただの同級生には戻れなかった。
「一年に一度、どこかへ行こう」 そう約束を交わして始まった逃避行も、今回で二度目の冬を迎える。

石畳を濡らす黒い光沢が、異国の情緒をより深く、重厚なものに変えていた。海鳴りの音が、建物の隙間を縫って低い通奏低音のように響いてくる。
「海が見たいわ」と私は言った。
「ああ。レストランはすぐそこだ。海を眺めながら、温かいものでも口にしよう」
複雑な曲線を描く小径を抜け、私たちはレストランへと続く斜面をゆっくりと下り始めた。

暗闇の中に浮かび上がる、静かな青い光を湛えた看板が、今の私たちには唯一の目的地のようだった。
レストランの窓際の席に座り、運ばれてきたワインがキャンドルの火を透かして揺れる。

「今回は、なんて言って出てきたの?」
彼が静かに、けれど逃れようのない現実を確かめるように尋ねた。
「同僚のお友達と伊勢神宮参りに行くって、夫には伝えたわ」
私は、自分の声が驚くほど平坦なことに気づく。
「一泊二日の小旅行。この時期なら、何の疑いも持たれないから。あなたは?」
「僕は、名古屋で仕事の出張だと伝えてある」彼は短くそう言って、手元のグラスを軽く揺らした。

私たちは、お互いの誠実さを少しずつ削り取って、この「遠い場所」への切符を手に入れた。
「明日には、またそれぞれの正しさに戻らなければならない」
彼が、私の視線を捕らえるように言った。

「正しいって、何なのかしら」
私はグラスを置き、彼の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「正しいのが正義なのかしら。……ボタンの掛け違いのようなことだって、あるでしょう?」
私の言葉に、彼は微かに眉を寄せ、黙って耳を傾けていた。
「あの頃、私たちが同じ教室で課題に没頭していたとき、もし何かの拍子でボタンを正しく留めることができていたら、今のこの『正しさ』は存在しなかったかもしれない。どこかで掛け違えたまま、二十年分もボタンを留め続けてしまったから、今さら脱ぎ捨てることもできなくなっている。……ねえ、どちらが本当の正義なの?」

「答えは、きっと誰にも出せない」
彼は、深く静かな余韻を残す響きで自分自身に言い聞かせた。
「僕たちにできるのは、この掛け違えたままの時間を、一年に一度だけ、こうして静かに肯定することだけなんだろう」

ふと、私は手元の時計に目をやろうとした。現実に引き戻される時間を無意識に確認しようとしたのかもしれない。けれど、その動きを制するように、彼の細く長い指先が私の手をそっと、けれど確かな重みを持って包み込んだ。

「時計を見るのはやめよう」
彼はそのまま私の手を握りしめた。
「夜はまだ長い。少なくとも、この異国の街並みが朝の光にさらされるまでは、僕たちはただの僕たちでいられるはずだ」

私は黙って頷き、運んできた料理を口にした。
舌の上で広がる素材の柔らかな感触や、追いかけてくるワインの微かな渋み。それらを一つひとつ確かめるように丁寧に噛みしめる。
時計を見る代わりに、私はただ、この一皿の味を、そして目の前にいる彼の気配を、この瞬間だけの真実として静かに自分の中に刻み込んでいた。
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