ゆめもうで
チェックアウトを済ませ、再び小さな海上タクシーに揺られて賢島駅へと戻った。
駅からほど近い港に降り立つと、潮の匂いに混じって、観光客たちの賑やかな声が聞こえてくる。現実に引き戻される感覚が、鋭い痛みとなって胸を刺した。
「……お昼、どうする?」 駅へと続く坂道で、彼が不意に足を止めて尋ねた。
私は少しだけ考え、それから小さく首を振った。
「いいえ、このまま帰りましょう。どこかのお店に入って、向かい合って食事をしたら……なんだか、本当にただの『旅行』になってしまう気がするから」
「そうだな」
彼は私の意図を汲み取るように頷いた。
「このまま、この静かな空気を壊さずに、それぞれの場所へ戻るのがいい」
私たちはそのまま駅舎に入り、窓口へと向かった。私は手元にある「ゆめもうで」切符を出し、大阪行きの特急券に引き換えた。隣では、彼が財布から厚みのある紙幣を取り出し、名古屋までの切符を現金で購入していた。
「現金で買うの? カードは使わないの? ポイントためたりできるじゃない?」
私が笑いながら尋ねると、彼は券売機から吐き出される磁気券を受け取りながら、少しだけ気恥ずかしく笑った。
「アプリを入れたりするのが、苦手なんだ」
その不器用な一言が、仕事では真摯な設計図を描くはずの彼を、ひどく等身大の、生身の人間として私の隣に引き戻した。
自動改札機が並ぶ入り口の前に辿り着いた。私の列車が来るまでには、まだ少しの時間があった。けれど、彼の乗る名古屋行きの列車はすでにホームへと滑り込んでいて、出発の合図を待つばかりだった。時間はもう、一秒も残されてはいなかった。
不意に、周囲の喧騒が遠のいた。行き交う観光客の姿も、構内に流れるアナウンスも、まるで初めから存在しなかったかのように消え去り、そこにはただ濃密な沈黙だけが降りてきた。世界がぐにゃりと歪み、視界の端が融解していく。そんな均衡の崩れた空間の中で、彼はためらうことなく、私の肩を力強く抱き寄せた。
私も彼の背中に腕をまわし、その厚みを、体温を、逃さないように強く抱きしめ返した。コートの感触越しに伝わってくる鼓動を、指先に永遠に刻み込むように。
私たちはただ、互いを抱きしめているのではなかった。バラバラになりそうな自分たちの輪郭を、ひとつの固い結び目として繋ぎ止めようとしていたのだ。
「……また、一年後だな」
彼の言葉に、私は胸の奥に溜まっていた澱(おり)のような不安を、静かに吐き出した。
「そうね。一年後なんて、あっという間。でも、私がそれなりに綺麗でいられるのなんて、あと数回しかないかもしれない。一年経つごとに、私はますますおばさんになっていく。いつか、あなたに愛想を尽かされてしまいそうで、怖いの」
私の卑屈な言葉を、彼は遮るように、けれど穏やかな声で打ち消した。
「それは僕も同じだよ。髪の毛もなくなるかもしれないし、何もかも衰えていく。君の方こそ、僕に幻滅するかもしれない」
彼は私の視線を真っ直ぐに捕らえ、続けた。
「それでも、僕たちは続けられるような気がしている。もちろん見た目も大事だけれど、そんなものは二十年前に終わった話だ。時間は誰にでも平等だ。四十代、五十代、六十代……。僕たちは、まだあと三十回以上も会えるじゃないか。そう考えれば、悪くない数字だと思わないか」
三十回。一年を一つの単位として数え直せば、私たちの未来はまだ、驚くほど長く残されている。
その具体的で残酷なほどに誠実な数字が、私の心に、新しい種類の重りを与えてくれた。それは、これから始まる孤独な三百六十四日を歩き抜くための、揺るぎない錨(いかり)だった。
「きみを見つけるのに、二十年もかかってしまった」
耳元で囁かれたその言葉は、もはや後悔ではなく、これからの長い空白を埋めるための唯一の糧のように聞こえた。
彼は私の唇に、熱を帯びた自身のそれを一度だけ、静かに重ねた。
「行こう。それぞれの場所へ」
彼はそう言って私を放し、磁気券を改札機に通した。バタン、という無機質な遮断音が響く。その金属音を合図に、彼は私のいる「外側」から、日常の続く「内側」へと足を踏み出した。
私は改札の外に立ち尽くしたまま、まっすぐ伸びるホームの先、名古屋行きの列車へと向かう彼の背中を追った。
彼は列車のドアの前に辿り着くと、ふと足を止め、吸い込まれる直前に一度だけこちらを振り返った。
そして、私を安心させるように、静かに一度だけ手を振った。 そのささやかな動作が、離れていく距離を一時だけ繋ぎ止め、私の胸を温かな痛みで満たした。私はそれに応えるように小さく手を挙げ、彼が車内へと消えていくのを最後まで見届けた。
彼が消えた瞬間、ホームは急速にその色を失い、ただの冷たいコンクリートの塊へと戻った。
私はふらふらと、昨日彼と落ち合ったあのコンビニエンス・ストアへと足を向けた。
昨日と同じ、薄いガラスの向こう側。けれど、そこにはもう、私を待つ人の影はない。
不意に、胃の腑を掴まれるような鋭い痛みが走った。
それは朝からブラックコーヒーしか受け付けていない胃の悲鳴か、あるいはこの二十四時間の濃密な「虚構」が終わり、現実の重力が身体を軋ませているせいか。昨夜味わった贅沢な晩餐とのあまりの落差に、私の身体は空虚な痛みとなってその飢えを主張していた。
私は棚から、サンドウィッチを一つ手に取った。レジを済ませ、駅のベンチで無造作に包装を剥がす。カサカサという無機質な音がホームに響いた。
一口、噛みしめる。少し冷えたパンの感触が、鈍い痛みとともに喉を通っていく。このささやかな生命維持の儀式が、私を「日常」という名の正しい軌道へと、冷酷に、確かに繋ぎ止めていた。
私は一人で大阪行きの特急に乗り込んだ。座席に身を沈め、ふと窓の外を仰ぐ。昨日の雪が嘘のように、一月の空はどこまでも高く、澄み渡るような青色に染まっていた。
バッグの底にある「ゆめもうで」の切符は、もはやその役割を終えている。けれど、掌に残った彼の温もりと、胃の底に澱のように残ったあの鈍い痛みだけは、これから始まる一年間の渇きを凌ぐための、私の確かな記憶となって脈動し続けていた。
その鮮やかな青を切り裂くように、一月の冷たく乾いた風が吹き抜けていった。
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『ゆめもうで』 完
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この物語の舞台となった伊勢志摩の香りを、共に感じてくれた友人に捧ぐ。
駅からほど近い港に降り立つと、潮の匂いに混じって、観光客たちの賑やかな声が聞こえてくる。現実に引き戻される感覚が、鋭い痛みとなって胸を刺した。
「……お昼、どうする?」 駅へと続く坂道で、彼が不意に足を止めて尋ねた。
私は少しだけ考え、それから小さく首を振った。
「いいえ、このまま帰りましょう。どこかのお店に入って、向かい合って食事をしたら……なんだか、本当にただの『旅行』になってしまう気がするから」
「そうだな」
彼は私の意図を汲み取るように頷いた。
「このまま、この静かな空気を壊さずに、それぞれの場所へ戻るのがいい」
私たちはそのまま駅舎に入り、窓口へと向かった。私は手元にある「ゆめもうで」切符を出し、大阪行きの特急券に引き換えた。隣では、彼が財布から厚みのある紙幣を取り出し、名古屋までの切符を現金で購入していた。
「現金で買うの? カードは使わないの? ポイントためたりできるじゃない?」
私が笑いながら尋ねると、彼は券売機から吐き出される磁気券を受け取りながら、少しだけ気恥ずかしく笑った。
「アプリを入れたりするのが、苦手なんだ」
その不器用な一言が、仕事では真摯な設計図を描くはずの彼を、ひどく等身大の、生身の人間として私の隣に引き戻した。
自動改札機が並ぶ入り口の前に辿り着いた。私の列車が来るまでには、まだ少しの時間があった。けれど、彼の乗る名古屋行きの列車はすでにホームへと滑り込んでいて、出発の合図を待つばかりだった。時間はもう、一秒も残されてはいなかった。
不意に、周囲の喧騒が遠のいた。行き交う観光客の姿も、構内に流れるアナウンスも、まるで初めから存在しなかったかのように消え去り、そこにはただ濃密な沈黙だけが降りてきた。世界がぐにゃりと歪み、視界の端が融解していく。そんな均衡の崩れた空間の中で、彼はためらうことなく、私の肩を力強く抱き寄せた。
私も彼の背中に腕をまわし、その厚みを、体温を、逃さないように強く抱きしめ返した。コートの感触越しに伝わってくる鼓動を、指先に永遠に刻み込むように。
私たちはただ、互いを抱きしめているのではなかった。バラバラになりそうな自分たちの輪郭を、ひとつの固い結び目として繋ぎ止めようとしていたのだ。
「……また、一年後だな」
彼の言葉に、私は胸の奥に溜まっていた澱(おり)のような不安を、静かに吐き出した。
「そうね。一年後なんて、あっという間。でも、私がそれなりに綺麗でいられるのなんて、あと数回しかないかもしれない。一年経つごとに、私はますますおばさんになっていく。いつか、あなたに愛想を尽かされてしまいそうで、怖いの」
私の卑屈な言葉を、彼は遮るように、けれど穏やかな声で打ち消した。
「それは僕も同じだよ。髪の毛もなくなるかもしれないし、何もかも衰えていく。君の方こそ、僕に幻滅するかもしれない」
彼は私の視線を真っ直ぐに捕らえ、続けた。
「それでも、僕たちは続けられるような気がしている。もちろん見た目も大事だけれど、そんなものは二十年前に終わった話だ。時間は誰にでも平等だ。四十代、五十代、六十代……。僕たちは、まだあと三十回以上も会えるじゃないか。そう考えれば、悪くない数字だと思わないか」
三十回。一年を一つの単位として数え直せば、私たちの未来はまだ、驚くほど長く残されている。
その具体的で残酷なほどに誠実な数字が、私の心に、新しい種類の重りを与えてくれた。それは、これから始まる孤独な三百六十四日を歩き抜くための、揺るぎない錨(いかり)だった。
「きみを見つけるのに、二十年もかかってしまった」
耳元で囁かれたその言葉は、もはや後悔ではなく、これからの長い空白を埋めるための唯一の糧のように聞こえた。
彼は私の唇に、熱を帯びた自身のそれを一度だけ、静かに重ねた。
「行こう。それぞれの場所へ」
彼はそう言って私を放し、磁気券を改札機に通した。バタン、という無機質な遮断音が響く。その金属音を合図に、彼は私のいる「外側」から、日常の続く「内側」へと足を踏み出した。
私は改札の外に立ち尽くしたまま、まっすぐ伸びるホームの先、名古屋行きの列車へと向かう彼の背中を追った。
彼は列車のドアの前に辿り着くと、ふと足を止め、吸い込まれる直前に一度だけこちらを振り返った。
そして、私を安心させるように、静かに一度だけ手を振った。 そのささやかな動作が、離れていく距離を一時だけ繋ぎ止め、私の胸を温かな痛みで満たした。私はそれに応えるように小さく手を挙げ、彼が車内へと消えていくのを最後まで見届けた。
彼が消えた瞬間、ホームは急速にその色を失い、ただの冷たいコンクリートの塊へと戻った。
私はふらふらと、昨日彼と落ち合ったあのコンビニエンス・ストアへと足を向けた。
昨日と同じ、薄いガラスの向こう側。けれど、そこにはもう、私を待つ人の影はない。
不意に、胃の腑を掴まれるような鋭い痛みが走った。
それは朝からブラックコーヒーしか受け付けていない胃の悲鳴か、あるいはこの二十四時間の濃密な「虚構」が終わり、現実の重力が身体を軋ませているせいか。昨夜味わった贅沢な晩餐とのあまりの落差に、私の身体は空虚な痛みとなってその飢えを主張していた。
私は棚から、サンドウィッチを一つ手に取った。レジを済ませ、駅のベンチで無造作に包装を剥がす。カサカサという無機質な音がホームに響いた。
一口、噛みしめる。少し冷えたパンの感触が、鈍い痛みとともに喉を通っていく。このささやかな生命維持の儀式が、私を「日常」という名の正しい軌道へと、冷酷に、確かに繋ぎ止めていた。
私は一人で大阪行きの特急に乗り込んだ。座席に身を沈め、ふと窓の外を仰ぐ。昨日の雪が嘘のように、一月の空はどこまでも高く、澄み渡るような青色に染まっていた。
バッグの底にある「ゆめもうで」の切符は、もはやその役割を終えている。けれど、掌に残った彼の温もりと、胃の底に澱のように残ったあの鈍い痛みだけは、これから始まる一年間の渇きを凌ぐための、私の確かな記憶となって脈動し続けていた。
その鮮やかな青を切り裂くように、一月の冷たく乾いた風が吹き抜けていった。
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『ゆめもうで』 完
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この物語の舞台となった伊勢志摩の香りを、共に感じてくれた友人に捧ぐ。