盤上の春風~加古川、四人の歩み~

第一章 出会いの駒音

桜の花びらが舞い散る四月、加古川香陵高校の渡り廊下で、私たち四人は初めて顔を合わせた。
 私、井上美月は読書好きで少し引っ込み思案な性格。同じ新入生の三人の女子と、偶然「将棋部見学」という張り紙の前で鉢合わせたのだ。
 加古川は「将棋のまち」として知られている。数多くのプロ棋士を輩出し、将棋文化が根付いた街だ。でも、恥ずかしながら、私は将棋のルールすら知らなかった。
 私は地元、加古川市出身だ。将棋のまちで生まれ育ったからといって、みんなが将棋のルールを知っているわけじゃない。興味のない子だって、きっとたくさんいる。

お昼休み、購買へ向かう途中だった。
渡り廊下は、生徒たちの笑い声と足音でにぎやかだ。
その壁の掲示板に、一枚の紙が貼られているのが目に入った。

 将棋部 部員募集中

 経験者・初心者問いません。
 見学だけでも歓迎します。

 顧問 神吉 佳介

将棋部かぁ。
私はふと立ち止まった。
春の風が渡り廊下を吹き抜け、紙の端がひらりと揺れた。
 そんな時、
「ねえ、あなたも将棋に興味あるの?」
 声をかけてきたのは、明るい笑顔が印象的で、ショートカットが似合う活発そうな子だった。
「……ちょっと、気になって」
「うち、稲葉陽菜。二組なんやけど」
「私は、井上美月。一組……私、将棋のルールも知らないんだけど、なんとなく。加古川って将棋のまちって言われてるでしょ? なのに全然知らないのも恥ずかしいかなって」
「わかる! うちも同じ。プロ棋士もたくさん出てるらしいよね、この街から」
「……そうですね」
 陽菜の隣で静かに頷いたのは、長い黒髪をポニーテールにした子だった。
「久保理沙です。四組ですわ。わたくしも、将棋のことは……正直、まだよく分かりませんの」
いったん言葉を切り、小さく息を吸う。
「けれど、新しいことに挑戦してみたいと思いまして。知らないからこそ、面白いのではないかと……」
 声は控えめだけれど、その目はまっすぐだった。
「あの、わたしも将棋全然わからないんですけど……」
 少し遅れて、おずおずと声をかけてきたのは、ふんわりとした雰囲気の子。
「船江さくら、です。六組です」
 優しそうな笑顔だった。
 春の風に揺れる張り紙の前で、私たちは顔を見合わせる。
 それが、四人の出会いだった。

 結局、四人とも将棋の「し」の字も知らないど素人。それなのに、なぜか話はどんどん弾んで、
「じゃあ、今日の放課後、見に行ってみる?」
ということになった。

教室へ戻る途中、渡り廊下を歩きながら、少しずつお互いのことを話す。

 さくらは私と同じ、加古川市出身。
「うちは明石やけど、西のほうやねん。ほら、ほとんど加古川寄りの」
 陽菜が言う。
「わたくしも同じ辺りですわ。明石市内にも、同じくらいのレベルの高校はありますけれど……こちらのほうが通学時間が短いんですの」
 理沙は少し遠慮がちにそう伝えた。
「そうなんや」
 私はうなずく。
 明石から通う、というだけでなんとなく大変そうに思っていた。
「家から近いのが一番やん」
 陽菜が、あっさりと笑う。
「朝ゆっくりできるし、帰りに寄り道もできるし」
「寄り道が本音やろ」
 さくらが小さくつっこむと、陽菜はけろりとして、
「それも大事やって」
 みんなが少し笑った。
 理沙も、ホッとしたように微笑む。
「でも、西の方やから、そんなに遠くはないんですのよ」

明石でも加古川寄り。
だからこの高校が、いちばん“ちょうどよかった”らしい。

同じ学区とはいえ、加古川は二人にとって少しだけ“よその街”。
けれど――
「加古川は将棋のまち、って有名やもんね」
陽菜がそう呟くと、理沙も静かに頷いた。
どうやら、その評判だけは明石でも有名らしい。

ちなみに、陽菜と理沙は家は近いのに、校区が違ったせいでお互い
今まで知らなかったらしい。
不思議なものだ。


放課後、私たちが訪ねた将棋部の部室は、校舎のいちばん奥、
書道準備室の隣にあった。廊下の窓はすりガラスで、昼間なのに少し薄暗い。

ドアには、手書きの紙が貼られている。

――将棋部 部員募集中
顧問 神吉佳介


なんとなく、入りづらい雰囲気だな、と私は思った。
静かすぎるせいかもしれないし、
『将棋部』という響きに勝手に緊張しているのかもしれない。
「ここやんな? 入ってみよっか」
 陽菜はそう言って、臆する様子もなくドアノブに手をかけた。
「失礼しまーす!」

きい、と乾いた音がした。

私とさくらは思わず顔を見合わせる。
それから、小さく息を吸ってあとに続いた。

理沙はドアが閉まりきらないように、そっと手で押さえ、
最後に静かに中へ入った。

部室には、古びた将棋盤と、静まり返った畳の匂い。
どこか時間が止まったような空間だった。
窓際には低い机が一つ。駒箱がふたつ、きちんと並べられている。

そして、窓から差し込む光の中に、一人の先生がいた。

半紙に向かい、ゆっくりと筆を動かしている。
さらり、さらり、と紙の上を墨が滑る音だけが響いていた。
私たちが入ってきたことに気づくと、先生は筆を置き、穏やかにこちらを見た。

「きみら、入部希望者か?」

顧問の神吉先生は、思っていたよりずっと優しそうなお方だった。
年齢は五〇歳くらいだろうか?
少し白いものの混じった髪をきれいに整え、細い銀縁の眼鏡の奥には、穏やかな目がある。
目が合うと、ふわりと笑みがほどけた。

背は高くも低くもないけれど、立ち姿がやわらかい。
急ぐ様子もなく、声も静かで、
まるで教室ではなく図書館にいるような気持ちになる。
指先には、ほんのり墨のあと。
その手で将棋の駒を持つのが、なんだか不思議に思えた。

「ちょうど良かった。君たちに話がある」
先生が、少し困ったように言う。

そして、一瞬ためらってから、告げた。

「将棋部は、今年度いっぱいで廃部になる予定なんや」

「え? 将棋部、今年で廃部になるんですか?」
 私たちは思わず顔を見合わせた。
「そうなんや。部員がいなくてね」
 神吉先生は続けた。
「加古川にはな、将棋好きの間じゃ有名な高校が二つある」

 先生は黒板に白チョークでさらりと名前を書いた。

「金龍は本気組や。全国を目指す子、プロを目指す子らが集まる。宝成は、楽しむ将棋。強さより“好き”を大事にする学校や」

少し間を置いてから、先生は続けた。

「わしはな、その宝成で将棋部の顧問をしとった。去年の春、ここ――香陵に異動になってな。香陵の子らにも、宝成みたいに将棋を楽しんでほしい思うて、部を立ち上げたんや」
 先生は苦笑した。
「せやけど、去年の入部はゼロやった。でも、君たちが四人いれば、同好会として続けられるよ。将棋盤も駒もあるし、興味があるなら使ってみたらええ」

先生はそう言って、机の上の駒箱にそっと手をのせた。
木のふたが、かすかに鳴る。

私たちは、また顔を見合わせた。

「どうする?」
小さな声でさくらが問いかける。
陽菜はすぐに駒箱をのぞき込んだ。
「ちょっとやってみよっか。せっかくやし」
理沙は盤のほこりを指で払ってから、静かにうなずく。
「四人おるなら、なんとかなるやろ」
私は将棋のことをほとんど知らない。
でも、古い盤の木目が、なぜかあたたかく見えた。

神吉先生は、急かすこともなく、ただ優しく笑っている。
「勝ち負けやなくてええ。まずは、触ってみ」
その言葉に背中を押されるように、私たちは畳に座った。

駒箱のふたを開けると、
ころり、と小さな音がして、木の香りがふわりと広がる。

こうして、私たちの将棋同好会は、
本当にささやかに、思いがけない形でスタートした。
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