亡者逃走中in現世
どれくらい眠っていたのだろう。
ぼんやりと意識が浮かび上がる。
最初に感じたのは、背中と腰に伝わる凍えるようなひんやりとした床の感触だった。頭の奥がガンガンと痺れるように痛む。
「……ここ、どこ……?」
ゆっくり目を開ける。
視界に入ってきたのは、どんよりとした薄暗い空間だった。
窓はあるようだが、分厚いカーテンが硬く閉め切られていて、外の光も様子もまるで分からない。部屋全体に、カビとホコリ、そしてどこか生臭い鉄の匂いが充満している。
嫌な汗が肌に張り付くのを感じながら、起き上がろうとして――。
「……あれ?」
身体が動かない。
両手を後ろに回され、何かで固定されている。
「え……?」
一気に眠気が吹き飛んだ。
「な、何これ……!」
周囲を見渡す。
どうやら私は、古い部屋の床に座らされているらしい。
ハッと横を見ると、美穂ちゃんがぐったりと床で倒れていた。
「み、美穂ちゃん!美穂ちゃん!」
後ろで手を縛られているから動きにくい。
それでも必死に美穂ちゃんの身体を揺さぶっていると―――
「……ん……」
ようやく目を覚ましてくれた!
「美穂ちゃん、大丈夫?」
「……うん。ここどこ?」
「分からない。何処かの部屋みたいだけど……」
私は改めて部屋を見渡す。
足の折れたベッド、破れたカーテン。壁には剥がれかけた案内板が残っている。
そして、その案内板に書かれていた文字を見て――。
「……え?」
思わず固まった。
「どうしたの?」
「ここ……」
案内板には、かすれてはいるものの確かに文字が残っていた。
『第二病棟』
その下には、何十年も前に廃墟となった病院名が書かれている。
「……どうしよう」
美穂ちゃんの声が震える。
「大丈夫だよ」
私はできるだけ落ち着いた声で答えた。
「絶対、みんなが助けに来てくれるから」
……とは言ったものの。
頭の奥では、別のことを考えていた。
みんなは今、どうしているんだろう。
私達が突然姿を消したことに、気づいてくれているだろうか。ここは街外れの廃病院だ。
自力で逃げ出すこともできないこの状況で、見つけてもらえる保証なんてどこにもない。
それに――さっきから、皮膚の表面がゾワゾワと泡立つような、気味の悪い気配が肌を刺している。
(近くに亡者がいる……!)
「真宵……」
「大丈夫。きっと何とかなるよ」
そう言いながら、美穂ちゃんに笑いかけた、その時だった。
「―――その心配なら、必要ありませんよ」
「!」
部屋の外から声が聞こえた。
カツン、カツン。
硬い靴音が、廊下から近づいてくる。
美穂ちゃんと顔を見合わせる。
やがて、扉の向こうで足音が止まった。
ガチャリ。
ゆっくりと扉が開く。
入ってきたのは――さっき私達を襲った、あの女性だった。
「目が覚めましたか」
「貴方……!」
思わず睨みつける。
しかし女性は、私の視線を受けても眉ひとつ動かさず、どこか他人事のような冷ややかな笑みを浮かべていた。
「そんな怖い顔をしないでください。せっかくのお客様なのですから」
「お客さんって……!」
「ここまで来てもらったのです。少しくらい楽しんでいってください」
女性はそう言って、さも親切であるかのように微笑む。
その機械的な笑顔に、ゾクッと背筋が凍りついた。言葉の通じない狂気を感じる。
「……何をするつもり?」
女性は答えなかった。
代わりに、廊下の奥へ向かって声をかける。
「お連れしました」
すると――。
「ご苦労だった」
別の声が返ってきた。
ゆっくりと、廊下の暗がりから一人の男が姿を現す。
男は、私達を見て笑った。
「ようこそ。俺の撮影スタジオへ」
その顔を見た瞬間、私は確信した。
―――この人だ。
私達が探していた、配信者の亡者。
「何でこんなとこに連れてきたの?」
「若い人間は金になる。健康ならなおさら。まして最近、配信で名前が売れ始めた君なら―――価値はもっと高い」
亡者は舐めるような視線で私を見つめながら言った。
「……それが何?」
嫌な予感が、背中を這い上がってくる。
「貴方を俺の配信に招待させてあげようと」
「配信?」
隣を見ると、美穂ちゃんも顔を青ざめさせていた。
そういえば、都市くんがこの亡者を囲っているのは人身売買や密輸を行っている犯罪組織だと言っていた。
なるほど、亡者は犯罪を警察の足がつかないダークウェブで流して人気を集め、犯罪組織はそれで利益を生む。
なんて、愚かなのだろう。
人の命を金に換えて。
誰かの恐怖や苦しみすら、娯楽として売り物にする。
そんなことをしてまで得た人気に、一体何の意味があるのだろう。
……いや、そもそもまともに話が通じる倫理観があるなら、地獄から現世に逃げてまで配信などしていないか。
男が一歩近づく。
その瞬間――。
ドンッ!!
廊下の向こうから、大きな音が響いた。
「……何だ?」
男が不快そうに振り返る。続いて、重い鉄の扉が吹き飛ぶような凄まじい破壊音。
そして―――。
「秦ーっ!!」
聞き慣れた声が響いた。
男の顔から笑みが消える。
「まさか……」
男の顔から余裕の笑みが消え去る。「まさか……」と絶句する男の視線の先、廊下の奥から複数の荒い足音が激しく近づいてくる。
バンッ!!と勢いよく蹴破られたドアの向こうには、少し乱れた制服姿の変成くんが立っていた。さらにその背後から、宋と都市くんが雪崩込んでくる!
「遅れてごめんね。場所の特定は転輪さんに頼んですぐ見つかったんだけど、警備が意外に強くて」
宋は一直線に私たちへ駆け寄ると、持っていた刃物で腕を縛っていた縄を切り落としてくれた。
「大丈夫?怪我してない?」
「うん……私は大丈夫。美穂ちゃんも」
「良かった〜!」
宋は全身の力を抜くようにホッと胸を撫で下ろす。
都市くんも素早く私たちの身体に異常がないかを確認すると、深く安堵の息を吐き出した。
「本当に良かったです。突然いなくなったと聞いた時は、どうなることかと……」
「みんな……」
急激にこみ上げてきた安心感に、視界がじんわりと滲む。目頭が熱い。
本当に来てくれた。命がけで駆けつけてくれた。ただそれだけで、今まで体中で張り詰めていた恐怖の糸が一気にほどけていくのが分かった。
「……おい」
低い声が響いた。
振り返る。
そこには、先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた亡者が立っていた。
「見張りは何をしている!あいつらはプロだぞ」
「あー、見張り?眠らせているよ」
変成くんが心底退屈そうに、自分の爪を眺めながらフッと息を吐いた。
亡者の顔から、血の気が引いていく。
「あの人数を……たった三人で?」
「まぁね」
その圧倒的な強者の余裕に、亡者が一歩後退った。
「変成王」
都市くんが静かに釘を刺す。
「分かってるよ。生きてる人間には手を出さない」
そう言いながら、変成くんは亡者から目を逸らさない。
―――次の瞬間。
ヒュッと風をきる音とともに、亡者が一歩、素早く後ろへ飛び退いた。
「……っ!」
ガシャンッ!と鋭い金属音が響き渡る。
亡者が立っていた場所へ一直線に振り下ろされた鉄パイプが床を激しく叩きつけ、砕けたタイルの破片が勢いよく周囲へ飛び散った。
「……避けられた?」
「ハッ、舐めるなよ!ブラック営業で鍛え上げられた会社員は体力と危機回避にだけは自信があるんだよ!」
暗闇からの攻撃を避けた亡者はそう吐き捨てると、正気を失ったかのように狂った甲高い声で笑い出した。
亡者はメキメキと体を変形させ、クモのような姿へと変わっていく。
顔は人間のまま、手足だけが八本に増えているその姿は、思わず目を逸らしたくなるほど不気味だった。
「何あれ……ちょっと無理なんだけど……」
変成くんがあからさまに不快そうな顔をしかめる。
「なんとでも言え!俺には沢山の視聴者がついている!視聴者はもっと刺激を求めているんだ!」
「刺激ねぇ……人間って迷惑な炎上動画に刺激求めるんだ。へぇ」
あ、まずい。変成くんがまた何かロクでもないことを企んでいる時の顔をしている。
(今、すごい人間に対しての風評被害が……)
それに、そういう刺激を求めるのは一部の人間だけだと思うけど。
変成くんは不敵な笑みを浮かべたまま、すっと亡者に向かって一歩踏み出した。
「自分の欲望のために人道を乱し、あまつさえ生きた人間にまで害を及ぼすとは……これじゃあ都市王に再審してもらっても良い結果にはならないよ」
「俺は注目されて死んだ!俺の動画だって、色んな人が見てた!」
閻魔帳の記録では、元は真面目で優秀な会社員だったらしい。
けれどネットでの承認欲求に狂い、過激な動画を投稿し続け、行動はエスカレート。最後には自らデパートに火を放ち、百人以上が死亡。
そのまま自分も炎に巻き込まれて絶命し、死後は当然のごとく大焦熱地獄へと叩き落とされた―――。
「視聴者、視聴者って……」
変成くんが可哀想なものを見る目で見下し、鼻で笑う。
「ここまで来ると勘違いもはなはだしいね」
「うるさいうるさい!」
そう亡者が叫んだ瞬間―――長い手足で美穂ちゃんを拘束した。
「あっ」
「きゃあっ!」
亡者は美穂ちゃんを乱暴に抱え込むと、頭上の腐食した天井を突き破り、そのまま夜空へと飛び上がった。
私達は慌てて破られた天井の穴から屋上へ駆け出し、亡者を追った。
「変成くん、追いつけそう?」
「少しだけこっちの方が足は早いよ。できるだけ距離を縮めてから審判に入ろう」
十王の中で一番足が早い変成くん。
もう少しで審判できる距離に入る時、追い詰められた亡者はあろうことか美穂ちゃんを空中で手放した。
「きゃぁぁぁ!」
「美穂ちゃんっ!!」
暗闇の空中へ投げ出され、重力に引かれて猛スピードで急落下していく美穂ちゃん。
頭が真っ白になった。考えるより先に身体が動いていた。
地面に衝突しそうになった刹那、庇うように自分を下敷きにしたお陰で、美穂ちゃんは無事だ。
「秦……っ!」
地上で倒れ込む私達を見て、変成くんの顔に焦りが走る。
だが、そのほんの一瞬の隙を亡者は見逃さなかった。背後の暗がりから亡者が姿を現す。
亡者は巨大化させた一本の腕で変成くんの首元を掴むと、そのまま力任せにアスファルトの地面へ叩きつけた!
ドゴォォンッ!!
「十王も大したことないな。これなら地獄に還らずに済みそうだ!」
破壊されたコンクリートの瓦礫の破片がパラパラと宙を舞う。
「楓くん!」
「変成くん!」
早く避難させないと!
美穂ちゃんを逃がすべく必死で立ち上がろうとしたけれど、落下時の衝撃で足首をくじいたらしく、力が入らない。
「なんて素晴らしい友情。では仲良く死にましょう!」
上空から亡者の容赦ない追撃が迫る。
恐怖で体が動かず、思わずぎゅっと目を瞑る。
ガシッ、と力強い手が私の服を掴み、猛スピードで引っ張った。
「!?」
「ほら、逃げるよ!」
宋が引きずるようにして立てない私と、恐怖で腰が抜けている美穂ちゃんを素早く抱え上げ、安全な建物の陰へと移動させてくれる。
そして直後、こちらへ迫ろうとしていた亡者の背後から、刀が深く突き刺さった。
その凄まじい衝撃に亡者はたじろぎ、体勢を大きく崩す。
「随分と手こずっているじゃないか、秦広王に宋帝王」
「しょーくん!」
見上げると、少し高くなった瓦礫の上にしょーくんがすっと立っていた。その足元には、最初に私達を襲ったあの女性が縄でガチガチに縛られて転がっている。
「早くアイツを地獄に還してよ〜」
「いや……私が裁いたんじゃ腹の虫が収まらん奴がいるようだ」
「「え?」」
私と宋は顔を見合わせ、亡者の方へと視線を戻す。
すると、亡者の背後の闇から何かが超スピードで飛来した。
ドカッ!という鈍い音とともに、太い鉄パイプが亡者の頭を直撃した。
「変成くん!」
「あー痛ってぇ……」
鉄パイプを振り下ろしていたのは、額から少量の血を流し、完全にブチ切れた表情の変成くんだった。
「あんま調子乗ってんじゃねぇよ、とっとと失せろ」
地を這うような、聞いたこともない低い声で言い放つ変成くんの瞳は、どんな殺人鬼よりも怖い目をしている。
彼は亡者の頭にめり込んでいた鉄パイプを容赦なく引き抜くと肩に担ぎ直し、ピクピクと震える亡者を冷たく見下ろした。
痛む足を押さえ、駆け寄ってくれた都市くんの肩を借りながら、私はゆっくりと立ち上がる。閻魔帳を開いて審判に入る。
「俺は視聴者から選ばれていた!だから、今度こそ―――」
「分かった」
「!?」
私は手元に開いた閻魔帳を力強く握り締め、言い渡した。
「貴方のくだらない言い分はよく分かった。……いいよ。そこまで刺激を望むなら、それに見合った地獄へ堕としてあげる。―――第八の地獄、阿鼻地獄!!」
阿鼻地獄―――別名は無間地獄。
そこは最も刑期の長い地獄だ。何万年……何億年……いや、それ以上長い無限に続く孤独と暗夜の中で、自分の愚かさと向き合い続けるといい。
「……さてと、無事に送り還せて良かったですね」
都市くんが眼鏡の位置を直し、静かに胸を撫で下ろす。
「まだ叩き足りなかったんだけど」
変成くんはつまらなさそうに吐き捨てると、肩に担いでいた鉄パイプをガラガラと地面に投げ捨てた。
「え、あんなにぶっ叩いてのに!?」
「あんなの叩いたに入らないよ」
「怖っ」
宋が本気で顔を青ざめさせる横で、私は都市くんに深く体重を預けながら、溜め込んでいた息を『はぁーっ』と深く吐き出した。
足首にズキズキとした痛みは残っているけれど、美穂ちゃんも無事で最悪の事態は免れたみたいだ。
「美穂ちゃん、怪我はない?怖い思いをさせてごめんね」
「ううん、真宵こそ足を痛めたのに私を庇ってくれて……本当にありがとう」
美穂ちゃんは涙を浮かべながら、私の手を強く握り返してくれた。
ぼんやりと意識が浮かび上がる。
最初に感じたのは、背中と腰に伝わる凍えるようなひんやりとした床の感触だった。頭の奥がガンガンと痺れるように痛む。
「……ここ、どこ……?」
ゆっくり目を開ける。
視界に入ってきたのは、どんよりとした薄暗い空間だった。
窓はあるようだが、分厚いカーテンが硬く閉め切られていて、外の光も様子もまるで分からない。部屋全体に、カビとホコリ、そしてどこか生臭い鉄の匂いが充満している。
嫌な汗が肌に張り付くのを感じながら、起き上がろうとして――。
「……あれ?」
身体が動かない。
両手を後ろに回され、何かで固定されている。
「え……?」
一気に眠気が吹き飛んだ。
「な、何これ……!」
周囲を見渡す。
どうやら私は、古い部屋の床に座らされているらしい。
ハッと横を見ると、美穂ちゃんがぐったりと床で倒れていた。
「み、美穂ちゃん!美穂ちゃん!」
後ろで手を縛られているから動きにくい。
それでも必死に美穂ちゃんの身体を揺さぶっていると―――
「……ん……」
ようやく目を覚ましてくれた!
「美穂ちゃん、大丈夫?」
「……うん。ここどこ?」
「分からない。何処かの部屋みたいだけど……」
私は改めて部屋を見渡す。
足の折れたベッド、破れたカーテン。壁には剥がれかけた案内板が残っている。
そして、その案内板に書かれていた文字を見て――。
「……え?」
思わず固まった。
「どうしたの?」
「ここ……」
案内板には、かすれてはいるものの確かに文字が残っていた。
『第二病棟』
その下には、何十年も前に廃墟となった病院名が書かれている。
「……どうしよう」
美穂ちゃんの声が震える。
「大丈夫だよ」
私はできるだけ落ち着いた声で答えた。
「絶対、みんなが助けに来てくれるから」
……とは言ったものの。
頭の奥では、別のことを考えていた。
みんなは今、どうしているんだろう。
私達が突然姿を消したことに、気づいてくれているだろうか。ここは街外れの廃病院だ。
自力で逃げ出すこともできないこの状況で、見つけてもらえる保証なんてどこにもない。
それに――さっきから、皮膚の表面がゾワゾワと泡立つような、気味の悪い気配が肌を刺している。
(近くに亡者がいる……!)
「真宵……」
「大丈夫。きっと何とかなるよ」
そう言いながら、美穂ちゃんに笑いかけた、その時だった。
「―――その心配なら、必要ありませんよ」
「!」
部屋の外から声が聞こえた。
カツン、カツン。
硬い靴音が、廊下から近づいてくる。
美穂ちゃんと顔を見合わせる。
やがて、扉の向こうで足音が止まった。
ガチャリ。
ゆっくりと扉が開く。
入ってきたのは――さっき私達を襲った、あの女性だった。
「目が覚めましたか」
「貴方……!」
思わず睨みつける。
しかし女性は、私の視線を受けても眉ひとつ動かさず、どこか他人事のような冷ややかな笑みを浮かべていた。
「そんな怖い顔をしないでください。せっかくのお客様なのですから」
「お客さんって……!」
「ここまで来てもらったのです。少しくらい楽しんでいってください」
女性はそう言って、さも親切であるかのように微笑む。
その機械的な笑顔に、ゾクッと背筋が凍りついた。言葉の通じない狂気を感じる。
「……何をするつもり?」
女性は答えなかった。
代わりに、廊下の奥へ向かって声をかける。
「お連れしました」
すると――。
「ご苦労だった」
別の声が返ってきた。
ゆっくりと、廊下の暗がりから一人の男が姿を現す。
男は、私達を見て笑った。
「ようこそ。俺の撮影スタジオへ」
その顔を見た瞬間、私は確信した。
―――この人だ。
私達が探していた、配信者の亡者。
「何でこんなとこに連れてきたの?」
「若い人間は金になる。健康ならなおさら。まして最近、配信で名前が売れ始めた君なら―――価値はもっと高い」
亡者は舐めるような視線で私を見つめながら言った。
「……それが何?」
嫌な予感が、背中を這い上がってくる。
「貴方を俺の配信に招待させてあげようと」
「配信?」
隣を見ると、美穂ちゃんも顔を青ざめさせていた。
そういえば、都市くんがこの亡者を囲っているのは人身売買や密輸を行っている犯罪組織だと言っていた。
なるほど、亡者は犯罪を警察の足がつかないダークウェブで流して人気を集め、犯罪組織はそれで利益を生む。
なんて、愚かなのだろう。
人の命を金に換えて。
誰かの恐怖や苦しみすら、娯楽として売り物にする。
そんなことをしてまで得た人気に、一体何の意味があるのだろう。
……いや、そもそもまともに話が通じる倫理観があるなら、地獄から現世に逃げてまで配信などしていないか。
男が一歩近づく。
その瞬間――。
ドンッ!!
廊下の向こうから、大きな音が響いた。
「……何だ?」
男が不快そうに振り返る。続いて、重い鉄の扉が吹き飛ぶような凄まじい破壊音。
そして―――。
「秦ーっ!!」
聞き慣れた声が響いた。
男の顔から笑みが消える。
「まさか……」
男の顔から余裕の笑みが消え去る。「まさか……」と絶句する男の視線の先、廊下の奥から複数の荒い足音が激しく近づいてくる。
バンッ!!と勢いよく蹴破られたドアの向こうには、少し乱れた制服姿の変成くんが立っていた。さらにその背後から、宋と都市くんが雪崩込んでくる!
「遅れてごめんね。場所の特定は転輪さんに頼んですぐ見つかったんだけど、警備が意外に強くて」
宋は一直線に私たちへ駆け寄ると、持っていた刃物で腕を縛っていた縄を切り落としてくれた。
「大丈夫?怪我してない?」
「うん……私は大丈夫。美穂ちゃんも」
「良かった〜!」
宋は全身の力を抜くようにホッと胸を撫で下ろす。
都市くんも素早く私たちの身体に異常がないかを確認すると、深く安堵の息を吐き出した。
「本当に良かったです。突然いなくなったと聞いた時は、どうなることかと……」
「みんな……」
急激にこみ上げてきた安心感に、視界がじんわりと滲む。目頭が熱い。
本当に来てくれた。命がけで駆けつけてくれた。ただそれだけで、今まで体中で張り詰めていた恐怖の糸が一気にほどけていくのが分かった。
「……おい」
低い声が響いた。
振り返る。
そこには、先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた亡者が立っていた。
「見張りは何をしている!あいつらはプロだぞ」
「あー、見張り?眠らせているよ」
変成くんが心底退屈そうに、自分の爪を眺めながらフッと息を吐いた。
亡者の顔から、血の気が引いていく。
「あの人数を……たった三人で?」
「まぁね」
その圧倒的な強者の余裕に、亡者が一歩後退った。
「変成王」
都市くんが静かに釘を刺す。
「分かってるよ。生きてる人間には手を出さない」
そう言いながら、変成くんは亡者から目を逸らさない。
―――次の瞬間。
ヒュッと風をきる音とともに、亡者が一歩、素早く後ろへ飛び退いた。
「……っ!」
ガシャンッ!と鋭い金属音が響き渡る。
亡者が立っていた場所へ一直線に振り下ろされた鉄パイプが床を激しく叩きつけ、砕けたタイルの破片が勢いよく周囲へ飛び散った。
「……避けられた?」
「ハッ、舐めるなよ!ブラック営業で鍛え上げられた会社員は体力と危機回避にだけは自信があるんだよ!」
暗闇からの攻撃を避けた亡者はそう吐き捨てると、正気を失ったかのように狂った甲高い声で笑い出した。
亡者はメキメキと体を変形させ、クモのような姿へと変わっていく。
顔は人間のまま、手足だけが八本に増えているその姿は、思わず目を逸らしたくなるほど不気味だった。
「何あれ……ちょっと無理なんだけど……」
変成くんがあからさまに不快そうな顔をしかめる。
「なんとでも言え!俺には沢山の視聴者がついている!視聴者はもっと刺激を求めているんだ!」
「刺激ねぇ……人間って迷惑な炎上動画に刺激求めるんだ。へぇ」
あ、まずい。変成くんがまた何かロクでもないことを企んでいる時の顔をしている。
(今、すごい人間に対しての風評被害が……)
それに、そういう刺激を求めるのは一部の人間だけだと思うけど。
変成くんは不敵な笑みを浮かべたまま、すっと亡者に向かって一歩踏み出した。
「自分の欲望のために人道を乱し、あまつさえ生きた人間にまで害を及ぼすとは……これじゃあ都市王に再審してもらっても良い結果にはならないよ」
「俺は注目されて死んだ!俺の動画だって、色んな人が見てた!」
閻魔帳の記録では、元は真面目で優秀な会社員だったらしい。
けれどネットでの承認欲求に狂い、過激な動画を投稿し続け、行動はエスカレート。最後には自らデパートに火を放ち、百人以上が死亡。
そのまま自分も炎に巻き込まれて絶命し、死後は当然のごとく大焦熱地獄へと叩き落とされた―――。
「視聴者、視聴者って……」
変成くんが可哀想なものを見る目で見下し、鼻で笑う。
「ここまで来ると勘違いもはなはだしいね」
「うるさいうるさい!」
そう亡者が叫んだ瞬間―――長い手足で美穂ちゃんを拘束した。
「あっ」
「きゃあっ!」
亡者は美穂ちゃんを乱暴に抱え込むと、頭上の腐食した天井を突き破り、そのまま夜空へと飛び上がった。
私達は慌てて破られた天井の穴から屋上へ駆け出し、亡者を追った。
「変成くん、追いつけそう?」
「少しだけこっちの方が足は早いよ。できるだけ距離を縮めてから審判に入ろう」
十王の中で一番足が早い変成くん。
もう少しで審判できる距離に入る時、追い詰められた亡者はあろうことか美穂ちゃんを空中で手放した。
「きゃぁぁぁ!」
「美穂ちゃんっ!!」
暗闇の空中へ投げ出され、重力に引かれて猛スピードで急落下していく美穂ちゃん。
頭が真っ白になった。考えるより先に身体が動いていた。
地面に衝突しそうになった刹那、庇うように自分を下敷きにしたお陰で、美穂ちゃんは無事だ。
「秦……っ!」
地上で倒れ込む私達を見て、変成くんの顔に焦りが走る。
だが、そのほんの一瞬の隙を亡者は見逃さなかった。背後の暗がりから亡者が姿を現す。
亡者は巨大化させた一本の腕で変成くんの首元を掴むと、そのまま力任せにアスファルトの地面へ叩きつけた!
ドゴォォンッ!!
「十王も大したことないな。これなら地獄に還らずに済みそうだ!」
破壊されたコンクリートの瓦礫の破片がパラパラと宙を舞う。
「楓くん!」
「変成くん!」
早く避難させないと!
美穂ちゃんを逃がすべく必死で立ち上がろうとしたけれど、落下時の衝撃で足首をくじいたらしく、力が入らない。
「なんて素晴らしい友情。では仲良く死にましょう!」
上空から亡者の容赦ない追撃が迫る。
恐怖で体が動かず、思わずぎゅっと目を瞑る。
ガシッ、と力強い手が私の服を掴み、猛スピードで引っ張った。
「!?」
「ほら、逃げるよ!」
宋が引きずるようにして立てない私と、恐怖で腰が抜けている美穂ちゃんを素早く抱え上げ、安全な建物の陰へと移動させてくれる。
そして直後、こちらへ迫ろうとしていた亡者の背後から、刀が深く突き刺さった。
その凄まじい衝撃に亡者はたじろぎ、体勢を大きく崩す。
「随分と手こずっているじゃないか、秦広王に宋帝王」
「しょーくん!」
見上げると、少し高くなった瓦礫の上にしょーくんがすっと立っていた。その足元には、最初に私達を襲ったあの女性が縄でガチガチに縛られて転がっている。
「早くアイツを地獄に還してよ〜」
「いや……私が裁いたんじゃ腹の虫が収まらん奴がいるようだ」
「「え?」」
私と宋は顔を見合わせ、亡者の方へと視線を戻す。
すると、亡者の背後の闇から何かが超スピードで飛来した。
ドカッ!という鈍い音とともに、太い鉄パイプが亡者の頭を直撃した。
「変成くん!」
「あー痛ってぇ……」
鉄パイプを振り下ろしていたのは、額から少量の血を流し、完全にブチ切れた表情の変成くんだった。
「あんま調子乗ってんじゃねぇよ、とっとと失せろ」
地を這うような、聞いたこともない低い声で言い放つ変成くんの瞳は、どんな殺人鬼よりも怖い目をしている。
彼は亡者の頭にめり込んでいた鉄パイプを容赦なく引き抜くと肩に担ぎ直し、ピクピクと震える亡者を冷たく見下ろした。
痛む足を押さえ、駆け寄ってくれた都市くんの肩を借りながら、私はゆっくりと立ち上がる。閻魔帳を開いて審判に入る。
「俺は視聴者から選ばれていた!だから、今度こそ―――」
「分かった」
「!?」
私は手元に開いた閻魔帳を力強く握り締め、言い渡した。
「貴方のくだらない言い分はよく分かった。……いいよ。そこまで刺激を望むなら、それに見合った地獄へ堕としてあげる。―――第八の地獄、阿鼻地獄!!」
阿鼻地獄―――別名は無間地獄。
そこは最も刑期の長い地獄だ。何万年……何億年……いや、それ以上長い無限に続く孤独と暗夜の中で、自分の愚かさと向き合い続けるといい。
「……さてと、無事に送り還せて良かったですね」
都市くんが眼鏡の位置を直し、静かに胸を撫で下ろす。
「まだ叩き足りなかったんだけど」
変成くんはつまらなさそうに吐き捨てると、肩に担いでいた鉄パイプをガラガラと地面に投げ捨てた。
「え、あんなにぶっ叩いてのに!?」
「あんなの叩いたに入らないよ」
「怖っ」
宋が本気で顔を青ざめさせる横で、私は都市くんに深く体重を預けながら、溜め込んでいた息を『はぁーっ』と深く吐き出した。
足首にズキズキとした痛みは残っているけれど、美穂ちゃんも無事で最悪の事態は免れたみたいだ。
「美穂ちゃん、怪我はない?怖い思いをさせてごめんね」
「ううん、真宵こそ足を痛めたのに私を庇ってくれて……本当にありがとう」
美穂ちゃんは涙を浮かべながら、私の手を強く握り返してくれた。