愛に目覚めた冷徹孤高の心臓外科医は、政略結婚妻を離さない ――旦那様、この結婚は契約ですよね?
「血がでているじゃないか!」

 彼が見つめるのは、先ほど私が流し台で痛みを感じた中指の先だ。なぜか必死の形相をしている。

「先ほど洗ったカップのどれかが欠けていて、当たってしまったみたいです。このくらい、たいしたことないですから」

 そう言ったけれど、瑞樹さんは「待っていろ」と書斎に戻ってしまう。すぐに戻ってきた彼の手には、救急箱が握られていた。

「傷があるのに水仕事なんて、菌が入ってしまう。きちんと処置はしておくべきだ」

「すみません……」

 きっと、指先の傷すらも次期院長の妻としてはふさわしくないのだ。

 また、旦那様の手を煩わせてしまった。
 気持ちが落ち込んでゆくが、彼は私の指をガーゼで押さえ、丁寧に軟膏を塗ってゆく。その行動に、なぜだか心がそわそわと落ち着かない。

 このままでは妻失格だ。しっかりしろ。
 そういう意味の処置だとわかっているのに、どうしてだろう、嬉しいと思ってしまう自分もいる。

「他に怪我をしているところはないか?」

 キズテープを張り、処置を終えた彼がこちらを向く。私がこくりと頷くと、彼はやっと私の手首を開放した。

「今日は、ウェルネススペースのことはやらなくていい。早く休め」

 瑞樹さんは言いながら救急箱を片づけ、それを手に書斎に戻ってしまう。
 私は慌てて立ち上がり、彼の背中にぺこりと頭を下げた。

 傷口は、もう全然痛くない。だけど心の奥のほうが、なにかに掴まれたみたいにきゅっと痛み続けていた。

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