アンケート ― 選ばないという選択 ―
第3話 消せない痕跡
カフェのシフトは十四時から十九時だった。
美佳が働いているのは、藍都の中心街から少し外れた小さな店で、席数は十二、カウンターに四つ、テーブルに八つ。常連客が多く、騒がしくない。オーナーは五十代の女性で、美佳のことを「三枝さん」と呼ぶ。それ以上のことは聞かない。美佳はその距離感が、今の自分にはちょうどよかった。
午後の店内は静かだった。窓際の席で文庫本を読んでいる老人。奥のテーブルでノートパソコンを開いている若い女性。カウンターに一人、コーヒーを飲みながらぼんやりと外を見ている男性。
美佳はカウンターを拭きながら、何気なく客たちを見渡した。
この人たちも、ログが残っているんだろうか。
朝倉の言葉が、頭の中にぶり返してきた。LAPISのシステムに接続したことのある個人端末に、選択のログが残っている。藍都でアンケートを受け取った人間は、美佳だけではないはずだ。あの老人も、パソコンを開いている女性も、コーヒーを飲んでいる男性も——どこかのタイミングで、あの白い画面を見ていたかもしれない。
でも彼らは今、何事もなかったように午後を過ごしている。
美佳だけが、こんなにも引きずっている。
それとも、みんな同じなんだろうか。表に出していないだけで。
「三枝さん、アイスラテ一つ」
オーナーの声で、美佳は我に返った。「はい」と答えて、手を動かし始める。ミルクを量って、エスプレッソを落として、氷を入れて。一つ一つの工程に、選択はほとんどない。決まった手順があって、それをなぞるだけでいい。
美佳はその単純さが、今日は少し心地よかった。
シフトが終わって、美佳はアパートへ戻った。
部屋に入って、鍵を閉めて、バッグを床に置く。ソファに腰を下ろしてから、スマートフォンを取り出した。
画面を開く。メッセージの通知が二件。一件は母親からで、「元気?」とだけ書いてある。もう一件は番号非通知のショートメッセージで、本文は空白だった。
美佳は首を傾げて、空白のメッセージをもう一度開いた。本当に何も書かれていない。送信時刻は十六時三十二分、美佳がカフェでアイスラテを作っていた頃だ。
間違い送信だろうか。それとも──
考えすぎだ。
美佳はそのメッセージを閉じて、母親に「元気だよ」と返信した。それからスマートフォンを画面が下になるようにソファの上に伏せて、天井を見た。
消せないログのことを考えた。
自分のスマートフォンの、どこかに眠っているデータ。あのアンケートを最初に開いたのはいつだったか。メールに添付されていたリンクをタップして、白い画面が開いて──最初の問いは何だったか。もう覚えていない。ただ、答えたことは覚えている。一つ一つ、真剣に考えながら、答え続けた。
その全部が、記録されている。
美佳はスマートフォンを手に取り、設定アプリを開いた。ストレージの項目を探して、タップする。写真、音楽、アプリ、キャッシュ──それらしい項目は見当たらない。当然だ。翔が言っていたのは「深層」の話で、通常の操作で確認できる場所にあるわけがない。
それでも美佳は画面をスクロールし続けた。
何かを確かめたかった。あるいは、消せるなら消したかった。でも見つからない。見つけられない。ただ、そこにある、と翔は言っていた。
美佳はアプリを閉じて、スマートフォンを置いた。
窓の外が暗くなり始めていた。藍都の夕暮れは早い。街灯がぽつぽつと灯り始めて、道を行く人の輪郭がぼんやりとしてくる。
あの人たちも、データを持ち歩いているのだろうか。
夕食を作りながら、美佳はずっと考えていた。
消せないということの意味を。
記憶なら、薄れる。時間が経てば輪郭がぼやけて、細部が抜け落ちて、最後には「そういうことがあった」という感触だけが残る。人間の記憶はそういうふうにできている。都合のいいものは残り、辛いものは薄れ、それでもたまに不意打ちのように蘇る。
でもデータは違う。データは薄れない。あの時、あの問いを、何秒考えて、どちらを選んだか。完璧な精度で、ずっとそこにある。
美佳は炒め物を皿に盛りながら、ふと思った。
消えないから、怖いんじゃないかもしれない。
消せないことよりも──それが「使えない」という状態にある、ということの方が、実は不気味なのかもしれない。翔はそう言っていた。使えもしない。サーバーが止まっている以上、そのデータを読み取るシステムがない。
つまり、今は。
今は、読み取るシステムがない。
美佳は箸を持ったまま、動きが止まった。
今は、という言葉が頭の中で反響した。翔も朝倉も、そこまでは言っていなかった。でも「今は使えない」ということは、将来使えるようになる可能性がある、ということでもある。あるいは──すでに、誰かが読み取ろうとしている可能性が。
食欲が少し落ちた。
美佳は炒め物を半分ほど食べて、箸を置いた。
スマートフォンを見た。伏せたまま、画面は暗いままのスマートフォン。その奥底に眠っているデータのことを考えながら、美佳はしばらくそれを眺めた。
手を伸ばして、持ち上げて、ロックを解除する。
新しい通知はなかった。さっきの空白のメッセージは、まだそこにあった。
美佳はもう一度それを開いた。本文は空白。送信者は非通知。
でも今度は、削除せずにそのまま閉じた。
何かの気がして。根拠はない。ただの間違い送信かもしれない。でも今の美佳には、それを「何でもない」と断言できるほどの確信が、もうなかった。
夜が深くなっていく。
美佳はソファに横になって、天井を見た。消えないデータのことを考えながら、いつの間にか眠っていた。夢は見なかった、と思う。少なくとも、目が覚めたときには何も残っていなかった。
人間の記憶は、そういうふうにできている。
美佳が働いているのは、藍都の中心街から少し外れた小さな店で、席数は十二、カウンターに四つ、テーブルに八つ。常連客が多く、騒がしくない。オーナーは五十代の女性で、美佳のことを「三枝さん」と呼ぶ。それ以上のことは聞かない。美佳はその距離感が、今の自分にはちょうどよかった。
午後の店内は静かだった。窓際の席で文庫本を読んでいる老人。奥のテーブルでノートパソコンを開いている若い女性。カウンターに一人、コーヒーを飲みながらぼんやりと外を見ている男性。
美佳はカウンターを拭きながら、何気なく客たちを見渡した。
この人たちも、ログが残っているんだろうか。
朝倉の言葉が、頭の中にぶり返してきた。LAPISのシステムに接続したことのある個人端末に、選択のログが残っている。藍都でアンケートを受け取った人間は、美佳だけではないはずだ。あの老人も、パソコンを開いている女性も、コーヒーを飲んでいる男性も——どこかのタイミングで、あの白い画面を見ていたかもしれない。
でも彼らは今、何事もなかったように午後を過ごしている。
美佳だけが、こんなにも引きずっている。
それとも、みんな同じなんだろうか。表に出していないだけで。
「三枝さん、アイスラテ一つ」
オーナーの声で、美佳は我に返った。「はい」と答えて、手を動かし始める。ミルクを量って、エスプレッソを落として、氷を入れて。一つ一つの工程に、選択はほとんどない。決まった手順があって、それをなぞるだけでいい。
美佳はその単純さが、今日は少し心地よかった。
シフトが終わって、美佳はアパートへ戻った。
部屋に入って、鍵を閉めて、バッグを床に置く。ソファに腰を下ろしてから、スマートフォンを取り出した。
画面を開く。メッセージの通知が二件。一件は母親からで、「元気?」とだけ書いてある。もう一件は番号非通知のショートメッセージで、本文は空白だった。
美佳は首を傾げて、空白のメッセージをもう一度開いた。本当に何も書かれていない。送信時刻は十六時三十二分、美佳がカフェでアイスラテを作っていた頃だ。
間違い送信だろうか。それとも──
考えすぎだ。
美佳はそのメッセージを閉じて、母親に「元気だよ」と返信した。それからスマートフォンを画面が下になるようにソファの上に伏せて、天井を見た。
消せないログのことを考えた。
自分のスマートフォンの、どこかに眠っているデータ。あのアンケートを最初に開いたのはいつだったか。メールに添付されていたリンクをタップして、白い画面が開いて──最初の問いは何だったか。もう覚えていない。ただ、答えたことは覚えている。一つ一つ、真剣に考えながら、答え続けた。
その全部が、記録されている。
美佳はスマートフォンを手に取り、設定アプリを開いた。ストレージの項目を探して、タップする。写真、音楽、アプリ、キャッシュ──それらしい項目は見当たらない。当然だ。翔が言っていたのは「深層」の話で、通常の操作で確認できる場所にあるわけがない。
それでも美佳は画面をスクロールし続けた。
何かを確かめたかった。あるいは、消せるなら消したかった。でも見つからない。見つけられない。ただ、そこにある、と翔は言っていた。
美佳はアプリを閉じて、スマートフォンを置いた。
窓の外が暗くなり始めていた。藍都の夕暮れは早い。街灯がぽつぽつと灯り始めて、道を行く人の輪郭がぼんやりとしてくる。
あの人たちも、データを持ち歩いているのだろうか。
夕食を作りながら、美佳はずっと考えていた。
消せないということの意味を。
記憶なら、薄れる。時間が経てば輪郭がぼやけて、細部が抜け落ちて、最後には「そういうことがあった」という感触だけが残る。人間の記憶はそういうふうにできている。都合のいいものは残り、辛いものは薄れ、それでもたまに不意打ちのように蘇る。
でもデータは違う。データは薄れない。あの時、あの問いを、何秒考えて、どちらを選んだか。完璧な精度で、ずっとそこにある。
美佳は炒め物を皿に盛りながら、ふと思った。
消えないから、怖いんじゃないかもしれない。
消せないことよりも──それが「使えない」という状態にある、ということの方が、実は不気味なのかもしれない。翔はそう言っていた。使えもしない。サーバーが止まっている以上、そのデータを読み取るシステムがない。
つまり、今は。
今は、読み取るシステムがない。
美佳は箸を持ったまま、動きが止まった。
今は、という言葉が頭の中で反響した。翔も朝倉も、そこまでは言っていなかった。でも「今は使えない」ということは、将来使えるようになる可能性がある、ということでもある。あるいは──すでに、誰かが読み取ろうとしている可能性が。
食欲が少し落ちた。
美佳は炒め物を半分ほど食べて、箸を置いた。
スマートフォンを見た。伏せたまま、画面は暗いままのスマートフォン。その奥底に眠っているデータのことを考えながら、美佳はしばらくそれを眺めた。
手を伸ばして、持ち上げて、ロックを解除する。
新しい通知はなかった。さっきの空白のメッセージは、まだそこにあった。
美佳はもう一度それを開いた。本文は空白。送信者は非通知。
でも今度は、削除せずにそのまま閉じた。
何かの気がして。根拠はない。ただの間違い送信かもしれない。でも今の美佳には、それを「何でもない」と断言できるほどの確信が、もうなかった。
夜が深くなっていく。
美佳はソファに横になって、天井を見た。消えないデータのことを考えながら、いつの間にか眠っていた。夢は見なかった、と思う。少なくとも、目が覚めたときには何も残っていなかった。
人間の記憶は、そういうふうにできている。


