名前を呼ぶまで、春は来ない
第10話 恒一の告白
月曜日、私は学校へ行った。
教室に入ると、何人かの視線を感じた。でも、以前ほど怖くなかった。朝倉くんの話を聞いて、少しだけ強くなれた気がした。
私だけじゃない。朝倉くんも、同じ痛みを抱えている。
それだけで、心が軽くなった。
席に座ると、朝倉くんが隣から声をかけてくれた。
「おはよう。来れたんだ」
「うん。約束したから」
「偉い」
彼は、少しだけ嬉しそうに笑った。
昼休み、私はいつものように購買へ向かった。
廊下を歩いていると、クラスメイトの女子とすれ違った。
彼女たちは、私を見て小声で何か囁いた。でも、私は気にしないようにした。
何を言われても、もう大丈夫。
朝倉くんが、待っていてくれるから。
写真部という居場所があるから。
放課後、写真部の部室へ行った。
三島先輩が、大きな紙を広げて何かを書いていた。
「あ、桜井さん! 金曜日は来れなかったね。大丈夫だった?」
「……すみません。体調が悪くて」
「無理しないでね。それより、文化祭の展示の配置、考えてたんだけど、見てくれる?」
紙には、展示会場の見取り図が描かれていた。壁に沿って、各部員の写真を展示するスペースが割り振られている。
「桜井さんは、ここがいいかなと思って」
三島先輩が指差したのは、入り口から少し入った、静かな場所だった。
「ここなら、じっくり見てもらえるから」
「……ありがとうございます」
部室の隅に座って、自分の撮った写真を見返した。
境界線をテーマにした写真が、今十枚ある。
波の境界線、光と影、ガラス越しの風景、川の両岸、そして──朝倉くんの横顔。
どの写真も、私の心の一部が写っている。
でも、これを人に見せていいのだろうか。
不安が、胸の中で膨らんでいった。
しばらくして、朝倉くんが部室に入ってきた。
「遅れてごめん。ちょっと先生に呼ばれてて」
「大丈夫」
彼は、私の隣に座った。
「写真、見てるの?」
「うん。でも、なんか不安で」
「不安?」
「……これを、本当に展示していいのかなって」
朝倉くんは、私の画面を覗き込んだ。
「どうして?」
「だって、私の写真、暗いから。みんなが見たら、変だと思われるかもしれない」
「変じゃないよ」
彼は、真っ直ぐ私を見た。
「桜井さんの写真は、正直なんだ。飾ってない。だから、いい」
「でも──」
「桜井さん、自分の写真を信じて」
朝倉くんの言葉に、少しだけ勇気をもらった。
その日の帰り道、また二人で歩いた。
最近、これが日課になっていた。学校から駅まで、十五分ほどの道のり。
「桜井さん、文化祭当日は来れる?」
「……わからない」
正直に答えた。
「自分の写真を、人に見られるのが怖い」
「そっか」
朝倉くんは、何も言わずに歩き続けた。
少しして、彼が口を開いた。
「俺も、最初はそうだった」
「初めて写真展に出した時、怖くて会場に行けなかった」
朝倉くんは、遠くを見つめて言った。
「自分の撮った写真を、人がどう見るか。批判されるんじゃないか。そう思ったら、足が動かなくなった」
「……それで?」
「でも、先輩が無理やり連れて行ってくれた。そしたら、思ったより悪くなかった」
会場では、何人かの人が朝倉くんの写真を見て、「いいね」と言ってくれたらしい。
「全員が褒めてくれるわけじゃない。でも、一人でも『いい』って言ってくれる人がいれば、それで十分だと思った」
その言葉が、胸に響いた。
一人でも、いいと言ってくれる人がいれば。
それで、十分。
「朝倉くん」
「ん?」
「ありがとう。いつも、励ましてくれて」
「いや、俺こそ」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「桜井さんがいてくれて、俺も楽になった」
「え?」
「兄のこと、誰にも話してなかったんだ。でも、桜井さんには話せた」
朝倉くんは、立ち止まって私を見た。
「同じ痛みを持ってる人には、話しやすいのかもしれない」
同じ痛み。
私たちは、同じ後悔を抱えている。
大切な人の名前を呼べなかった後悔。
その痛みが、私たちをつないでいる。
「桜井さん」
朝倉くんが、私の名前を呼んだ。
「俺、桜井さんのこと──」
彼が何か言いかけた時、スマホが鳴った。
朝倉くんが、スマホを見る。
「あ、親から。ごめん、ちょっと出るね」
彼は、少し離れた場所で電話に出た。
私は、その場で待っていた。
──俺、桜井さんのこと。
何を言おうとしたんだろう。
気になったけれど、聞けなかった。
電話を終えて、朝倉くんが戻ってきた。
「ごめん。夕飯の買い物頼まれた」
「そっか」
「じゃあ、ここで」
「うん。また明日」
朝倉くんは、手を振って駅の方へ歩いていった。
私は、その背中を見送った。
さっきの言葉が、気になって仕方なかった。
その夜、ベッドに横になりながら考えた。
朝倉くんは、何を言おうとしたのか。
『俺、桜井さんのこと——』
その続きは、何だったのか。
友達だと思ってる?
大切に思ってる?
それとも──。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
『今日はありがとう。また明日ね』
私は、返信した。
『こちらこそ。おやすみ』
送信してから、もう一通送ろうか迷った。
『さっき、何を言おうとしたの?』
でも、送れなかった。
聞くのが、怖かった。
次の日、火曜日。
写真部の活動日だった。
部室で、三島先輩が文化祭のスケジュールを説明していた。
「展示は二日間。土曜日と日曜日。搬入は金曜日の放課後にやるから、みんな手伝ってね」
「はい」
みんなが返事をする。
「それと、当日は部員全員で会場にいること。来場者から質問されるかもしれないし」
私は、少し不安になった。
やっぱり、当日会場にいなければいけないのか。
活動が終わって、帰る準備をしていると、朝倉くんが声をかけてきた。
「桜井さん、ちょっといい?」
「うん」
「屋上、行かない? 話したいことがある」
話したいこと。
もしかして、昨日の続き?
緊張しながら、朝倉くんについていった。
屋上は、誰もいなかった。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
朝倉くんは、フェンスに寄りかかって、空を見上げた。
「昨日、言いかけたこと」
彼が、口を開いた。
「覚えてる?」
「……うん」
私の心臓が、早く鳴り始めた。
「俺、桜井さんのこと、大切だと思ってる」
大切。
その言葉に、胸が熱くなった。
「友達として、じゃなくて」
朝倉くんが、私を見た。
「もっと、特別な存在として」
特別。
私は、何も言えなかった。
「これって、恋なのかもしれない。でも、よくわからない」
彼は、少し困ったように笑った。
「ただ、桜井さんと一緒にいると安心する。話すと楽しい。笑顔が見たいって思う」
私は、ただ朝倉くんを見つめていた。
言葉が出てこなかった。
「返事は、今じゃなくていい。ただ、伝えたかった」
朝倉くんは、また空を見上げた。
「桜井さんにとって、俺がどういう存在なのかわからない。でも、俺にとって桜井さんは、特別なんだ」
夕焼けの空が、私たちを包んでいた。
オレンジと紫の境界線。
昼と夜の境界線。
そして、友情と恋の境界線。
私たちは今、その境界線の上に立っている。
「……ありがとう」
ようやく、そう言えた。
「言ってくれて、ありがとう」
朝倉くんは、少しだけ安心したような顔をした。
「俺も、よくわからないんだ」
私は、正直に言った。
「朝倉くんが、どういう存在なのか。友達なのか、それとも──」
「いいよ。今は、わからなくても」
彼は、優しく笑った。
「ただ、一緒にいてくれるだけでいい」
一緒にいる。
それだけで、いい。
その言葉に、少しだけ救われた。
屋上を出て、廊下を歩く。
二人とも、何も話さなかった。
でも、沈黙は気まずくなかった。
むしろ、心地よかった。
校門で別れる時、朝倉くんが言った。
「また明日」
「うん。また明日」
家に帰る道、私は何度も今日のことを反芻した。
朝倉くんの告白。
『大切だと思ってる』『特別な存在』
その言葉が、胸の中で温かく響いている。
私は、朝倉くんをどう思っているのか。
友達? それとも──。
答えは、まだわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
朝倉くんと一緒にいると、心が落ち着く。
話すのが楽しい。
笑顔が見たいと思う。
それは、もしかしたら──。
恋、なのかもしれない。
でも、恋がどういうものなのか、私にはわからない。
中学生の頃、好きな人はいた。でも、それは憧れに近かった。
朝倉くんへの気持ちは、それとは違う。
もっと深くて、もっと複雑で、もっと──大切。
その夜、ベッドに横になりながら、朝倉くんの横顔を思い浮かべた。
川を見つめる彼の目。
過去と未来の境界線に立つ彼。
私と同じように、後悔を抱えている彼。
でも、前を向こうとしている彼。
そんな朝倉くんが、私のことを『特別』だと言ってくれた。
それだけで、少しだけ自分を肯定できた気がした。
私は、特別な存在でいいのかもしれない。
美咲を見捨てた私でも。
人と深く関われない私でも。
朝倉くんにとって、特別でいられるなら。
それは、きっと──。
私が、前に進むための、小さな光なのかもしれない。
教室に入ると、何人かの視線を感じた。でも、以前ほど怖くなかった。朝倉くんの話を聞いて、少しだけ強くなれた気がした。
私だけじゃない。朝倉くんも、同じ痛みを抱えている。
それだけで、心が軽くなった。
席に座ると、朝倉くんが隣から声をかけてくれた。
「おはよう。来れたんだ」
「うん。約束したから」
「偉い」
彼は、少しだけ嬉しそうに笑った。
昼休み、私はいつものように購買へ向かった。
廊下を歩いていると、クラスメイトの女子とすれ違った。
彼女たちは、私を見て小声で何か囁いた。でも、私は気にしないようにした。
何を言われても、もう大丈夫。
朝倉くんが、待っていてくれるから。
写真部という居場所があるから。
放課後、写真部の部室へ行った。
三島先輩が、大きな紙を広げて何かを書いていた。
「あ、桜井さん! 金曜日は来れなかったね。大丈夫だった?」
「……すみません。体調が悪くて」
「無理しないでね。それより、文化祭の展示の配置、考えてたんだけど、見てくれる?」
紙には、展示会場の見取り図が描かれていた。壁に沿って、各部員の写真を展示するスペースが割り振られている。
「桜井さんは、ここがいいかなと思って」
三島先輩が指差したのは、入り口から少し入った、静かな場所だった。
「ここなら、じっくり見てもらえるから」
「……ありがとうございます」
部室の隅に座って、自分の撮った写真を見返した。
境界線をテーマにした写真が、今十枚ある。
波の境界線、光と影、ガラス越しの風景、川の両岸、そして──朝倉くんの横顔。
どの写真も、私の心の一部が写っている。
でも、これを人に見せていいのだろうか。
不安が、胸の中で膨らんでいった。
しばらくして、朝倉くんが部室に入ってきた。
「遅れてごめん。ちょっと先生に呼ばれてて」
「大丈夫」
彼は、私の隣に座った。
「写真、見てるの?」
「うん。でも、なんか不安で」
「不安?」
「……これを、本当に展示していいのかなって」
朝倉くんは、私の画面を覗き込んだ。
「どうして?」
「だって、私の写真、暗いから。みんなが見たら、変だと思われるかもしれない」
「変じゃないよ」
彼は、真っ直ぐ私を見た。
「桜井さんの写真は、正直なんだ。飾ってない。だから、いい」
「でも──」
「桜井さん、自分の写真を信じて」
朝倉くんの言葉に、少しだけ勇気をもらった。
その日の帰り道、また二人で歩いた。
最近、これが日課になっていた。学校から駅まで、十五分ほどの道のり。
「桜井さん、文化祭当日は来れる?」
「……わからない」
正直に答えた。
「自分の写真を、人に見られるのが怖い」
「そっか」
朝倉くんは、何も言わずに歩き続けた。
少しして、彼が口を開いた。
「俺も、最初はそうだった」
「初めて写真展に出した時、怖くて会場に行けなかった」
朝倉くんは、遠くを見つめて言った。
「自分の撮った写真を、人がどう見るか。批判されるんじゃないか。そう思ったら、足が動かなくなった」
「……それで?」
「でも、先輩が無理やり連れて行ってくれた。そしたら、思ったより悪くなかった」
会場では、何人かの人が朝倉くんの写真を見て、「いいね」と言ってくれたらしい。
「全員が褒めてくれるわけじゃない。でも、一人でも『いい』って言ってくれる人がいれば、それで十分だと思った」
その言葉が、胸に響いた。
一人でも、いいと言ってくれる人がいれば。
それで、十分。
「朝倉くん」
「ん?」
「ありがとう。いつも、励ましてくれて」
「いや、俺こそ」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「桜井さんがいてくれて、俺も楽になった」
「え?」
「兄のこと、誰にも話してなかったんだ。でも、桜井さんには話せた」
朝倉くんは、立ち止まって私を見た。
「同じ痛みを持ってる人には、話しやすいのかもしれない」
同じ痛み。
私たちは、同じ後悔を抱えている。
大切な人の名前を呼べなかった後悔。
その痛みが、私たちをつないでいる。
「桜井さん」
朝倉くんが、私の名前を呼んだ。
「俺、桜井さんのこと──」
彼が何か言いかけた時、スマホが鳴った。
朝倉くんが、スマホを見る。
「あ、親から。ごめん、ちょっと出るね」
彼は、少し離れた場所で電話に出た。
私は、その場で待っていた。
──俺、桜井さんのこと。
何を言おうとしたんだろう。
気になったけれど、聞けなかった。
電話を終えて、朝倉くんが戻ってきた。
「ごめん。夕飯の買い物頼まれた」
「そっか」
「じゃあ、ここで」
「うん。また明日」
朝倉くんは、手を振って駅の方へ歩いていった。
私は、その背中を見送った。
さっきの言葉が、気になって仕方なかった。
その夜、ベッドに横になりながら考えた。
朝倉くんは、何を言おうとしたのか。
『俺、桜井さんのこと——』
その続きは、何だったのか。
友達だと思ってる?
大切に思ってる?
それとも──。
考えれば考えるほど、わからなくなった。
スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
『今日はありがとう。また明日ね』
私は、返信した。
『こちらこそ。おやすみ』
送信してから、もう一通送ろうか迷った。
『さっき、何を言おうとしたの?』
でも、送れなかった。
聞くのが、怖かった。
次の日、火曜日。
写真部の活動日だった。
部室で、三島先輩が文化祭のスケジュールを説明していた。
「展示は二日間。土曜日と日曜日。搬入は金曜日の放課後にやるから、みんな手伝ってね」
「はい」
みんなが返事をする。
「それと、当日は部員全員で会場にいること。来場者から質問されるかもしれないし」
私は、少し不安になった。
やっぱり、当日会場にいなければいけないのか。
活動が終わって、帰る準備をしていると、朝倉くんが声をかけてきた。
「桜井さん、ちょっといい?」
「うん」
「屋上、行かない? 話したいことがある」
話したいこと。
もしかして、昨日の続き?
緊張しながら、朝倉くんについていった。
屋上は、誰もいなかった。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
朝倉くんは、フェンスに寄りかかって、空を見上げた。
「昨日、言いかけたこと」
彼が、口を開いた。
「覚えてる?」
「……うん」
私の心臓が、早く鳴り始めた。
「俺、桜井さんのこと、大切だと思ってる」
大切。
その言葉に、胸が熱くなった。
「友達として、じゃなくて」
朝倉くんが、私を見た。
「もっと、特別な存在として」
特別。
私は、何も言えなかった。
「これって、恋なのかもしれない。でも、よくわからない」
彼は、少し困ったように笑った。
「ただ、桜井さんと一緒にいると安心する。話すと楽しい。笑顔が見たいって思う」
私は、ただ朝倉くんを見つめていた。
言葉が出てこなかった。
「返事は、今じゃなくていい。ただ、伝えたかった」
朝倉くんは、また空を見上げた。
「桜井さんにとって、俺がどういう存在なのかわからない。でも、俺にとって桜井さんは、特別なんだ」
夕焼けの空が、私たちを包んでいた。
オレンジと紫の境界線。
昼と夜の境界線。
そして、友情と恋の境界線。
私たちは今、その境界線の上に立っている。
「……ありがとう」
ようやく、そう言えた。
「言ってくれて、ありがとう」
朝倉くんは、少しだけ安心したような顔をした。
「俺も、よくわからないんだ」
私は、正直に言った。
「朝倉くんが、どういう存在なのか。友達なのか、それとも──」
「いいよ。今は、わからなくても」
彼は、優しく笑った。
「ただ、一緒にいてくれるだけでいい」
一緒にいる。
それだけで、いい。
その言葉に、少しだけ救われた。
屋上を出て、廊下を歩く。
二人とも、何も話さなかった。
でも、沈黙は気まずくなかった。
むしろ、心地よかった。
校門で別れる時、朝倉くんが言った。
「また明日」
「うん。また明日」
家に帰る道、私は何度も今日のことを反芻した。
朝倉くんの告白。
『大切だと思ってる』『特別な存在』
その言葉が、胸の中で温かく響いている。
私は、朝倉くんをどう思っているのか。
友達? それとも──。
答えは、まだわからない。
でも、一つだけ確かなことがある。
朝倉くんと一緒にいると、心が落ち着く。
話すのが楽しい。
笑顔が見たいと思う。
それは、もしかしたら──。
恋、なのかもしれない。
でも、恋がどういうものなのか、私にはわからない。
中学生の頃、好きな人はいた。でも、それは憧れに近かった。
朝倉くんへの気持ちは、それとは違う。
もっと深くて、もっと複雑で、もっと──大切。
その夜、ベッドに横になりながら、朝倉くんの横顔を思い浮かべた。
川を見つめる彼の目。
過去と未来の境界線に立つ彼。
私と同じように、後悔を抱えている彼。
でも、前を向こうとしている彼。
そんな朝倉くんが、私のことを『特別』だと言ってくれた。
それだけで、少しだけ自分を肯定できた気がした。
私は、特別な存在でいいのかもしれない。
美咲を見捨てた私でも。
人と深く関われない私でも。
朝倉くんにとって、特別でいられるなら。
それは、きっと──。
私が、前に進むための、小さな光なのかもしれない。