名前を呼ぶまで、春は来ない
第9話 声をかけられなかった日
翌日、土曜日。
私は、約束通り学校へ行った。正確には、学校ではなく駅前の図書館。朝倉くんから「一緒に撮影に行かない?」とメッセージが来ていたから。
午前十時、図書館の前で待っていると、朝倉くんが自転車でやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
彼は、いつも通りの穏やかな笑顔だった。
「今日は、どこ行くの?」
「川沿い。ちょうどいい被写体があるんだ」
二人で川沿いの遊歩道を歩いた。
土曜日の午前中、ジョギングをしている人や、犬の散歩をしている人がいた。川の水は緑色で、ゆっくりと流れている。
「ここ」
朝倉くんが、橋の下で立ち止まった。
橋の下には、ホームレスらしき人がいた。段ボールの上に座り、何かを食べている。
「あの人を撮るの?」
「いや、あの人じゃなくて」
朝倉くんが指差したのは、橋の影だった。
「橋の影と、日向の境界線。あと、あの人が影の中にいるのが、なんか象徴的だなと思って」
私も、カメラを構えた。
橋の下の影。そこに座る人。その向こうに広がる明るい日差し。
光と影の境界線。
そして、影の中で生きる人。
シャッターを切った。
「この写真、使う?」
「わからない。でも、撮っておきたかった」
朝倉くんも、シャッターを切った。
「境界線って、場所だけじゃなくて、人の立場にもあるよね」
「立場?」
「うん。光の中にいる人と、影の中にいる人。幸せな人と、そうじゃない人」
彼の言葉が、胸に響いた。
私も、影の中にいる人間だった。
美咲を見捨ててから、ずっと影の中にいる。
「朝倉くんは、光の中にいると思う?」
私が聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「どうだろう。半分は光で、半分は影、かな」
「半分?」
「うん。楽しい時もあるけど、辛い時もある。それって、みんな同じだと思う」
彼は、また歩き始めた。
川沿いをさらに歩いていくと、小さな公園があった。
ベンチに座って、二人でカメラの液晶画面を見る。
私が撮った橋の影。朝倉くんが撮った同じ構図。
でも、雰囲気が違った。
私の写真は、影が強調されていて、どこか冷たい印象。
朝倉くんの写真は、影の中にも温かみがあって、希望が感じられる。
「やっぱり、撮る人で変わるんだね」
朝倉くんが言った。
「同じものを撮っても、見え方が違う」
「朝倉くんの写真の方が、いいと思う」
「そんなことないよ。桜井さんの写真の方が、リアルだ」
リアル。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
私の見ている世界は、冷たくて、影が多い。
でも、それがリアルなら、嘘じゃない。
「桜井さん」
朝倉くんが、私を見た。
「昨日、話してくれたこと、俺も話したいことがあるんだ」
「……何?」
「俺の兄のこと」
兄。
そういえば、朝倉くんに兄がいたことは聞いていた。
数年前に亡くなった、と。
「聞いてくれる?」
「うん」
朝倉くんは、少し遠くを見つめてから、話し始めた。
「兄は、俺の五歳上だった。名前は、拓海」
拓海。
その名前を、朝倉くんは少し躊躇いながら口にした。
「兄は、すごく明るい人だった。誰とでも仲良くなれて、いつも笑ってた。俺とは真逆のタイプ」
朝倉くんは、小さく笑った。
「小学生の頃、俺がいじめられてた時も、兄が助けてくれた。『恒一、大丈夫か』って、いつも声をかけてくれた」
でも、高校生になった頃から、兄の様子が変わり始めた。
学校に行かなくなった。部屋に閉じこもるようになった。
家族が声をかけても、返事をしなくなった。
「最初は、思春期だからって、みんな思ってた。でも、だんだん深刻になっていった」
朝倉くんの声が、少し震えた。
「ある日、兄が『もう疲れた』って呟いてるのを聞いた。廊下で、独り言みたいに」
その時、朝倉くんは声をかけるべきだった。
でも、かけられなかった。
「なんて言えばいいのかわからなかった。『大丈夫?』って聞いても、兄は『大丈夫』って答えるだろうし。『どうしたの?』って聞いても、『別に』って言われるだろうし」
だから、朝倉くんは何も言わなかった。
ただ、通り過ぎた。
その三日後、兄は自殺した。
私は、息を呑んだ。
朝倉くんは、俯いたまま続けた。
「朝、兄の部屋のドアが開いてなかった。呼んでも返事がなくて。親が鍵を開けたら──」
彼は、そこで言葉を切った。
「最後まで、俺は兄の名前を呼べなかった」
沈黙が、流れた。
川の水音だけが、静かに響いている。
「拓海、って名前を、最後まで呼べなかった」
朝倉くんは、目を閉じた。
「あの日、廊下で声をかけていれば。『拓海、大丈夫?』って、名前を呼んでいれば。何か変わったかもしれない」
「……朝倉くん」
「でも、怖かったんだ。名前を呼ぶことが。踏み込むことが」
彼の言葉が、私の胸に突き刺さった。
名前を呼ぶことが怖い。
踏み込むことが怖い。
それは、私と同じだった。
朝倉くんも、声をかけられなかった。
大切な人に、最後まで。
「それから、ずっと後悔してる」
朝倉くんは、私を見た。
「もっと早く気づけばよかった。もっと踏み込めばよかった。名前を呼べばよかった」
私は、何も言えなかった。
ただ、朝倉くんの隣に座って、一緒に川を見ていた。
「だから、桜井さんの気持ちがわかる」
朝倉くんが、静かに言った。
「声をかけられなかった後悔。名前を呼べなかった後悔」
「……うん」
「でも、それは俺たちだけのせいじゃない」
彼は、真っ直ぐ前を見て言った。
「人には、踏み込めない時がある。どれだけ大切な人でも、どれだけ助けたくても、踏み込めない時がある」
その言葉を、私はゆっくりと噛みしめた。
踏み込めない時がある。
それは、弱さじゃない。
ただ、人間だから。
「でも」
朝倉くんが続けた。
「それを理由に、ずっと立ち止まってたらダメだと思う」
「……どういうこと?」
「兄が死んでから、俺はずっと自分を責めてた。写真も撮らなくなった。人とも関わらなくなった」
でも、中学三年生の時、写真部の顧問の先生に誘われた。
「先生が、『カメラ、また触ってみない?』って言ってくれた。最初は断ったけど、先生が何度も誘ってくれて」
それで、また写真を撮り始めた。
最初は、何も感じなかった。
シャッターを切っても、何も変わらない気がした。
「でも、ある日、夕焼けを撮ってた時に気づいたんだ」
朝倉くんは、空を見上げた。
「兄も、この夕焼けを見てたのかなって」
その瞬間、朝倉くんの中で何かが変わった。
写真を通して、兄とつながれる気がした。
兄が見ていた世界を、自分も切り取れる気がした。
「それから、人の写真を撮るようになった」
「人の写真?」
「うん。兄みたいに、苦しんでる人がいるかもしれない。でも、表面上は笑ってるかもしれない」
朝倉くんは、カメラを見つめた。
「だから、写真を通して、その人の本当の表情を捉えたい。言葉にできない気持ちを、写真で残したい」
私は、朝倉くんの横顔を見た。
彼の目は、遠くを見ているようで、でも確かに何かを見つめていた。
「桜井さんも、同じだと思う」
彼が、私を見た。
「写真を撮ることで、あの時言えなかったことを、今伝えようとしてる」
「……そうなのかな」
「うん。桜井さんの写真、いつも何か訴えかけてくる。『ここにいる』って、『見てほしい』って」
その言葉に、涙が溢れそうになった。
見てほしい。
そう、私はずっと見てほしかった。
美咲も、きっとそうだった。
『見てほしい』『ここにいる』って、叫んでいたのに。
私は、見なかった。
「でも、今からでも遅くないよ」
朝倉くんが、優しく言った。
「今から、ちゃんと見ればいい。写真を通して、人を見ればいい」
私は、カメラを取り出した。
朝倉くんの横顔を、ファインダー越しに見る。
彼の表情には、悲しみと、希望が混ざっていた。
過去を背負いながら、前を向いている顔。
「撮っていい?」
「うん」
シャッターを切った。
カシャ、という音が、公園に響いた。
液晶画面を見る。
そこには、川を見つめる朝倉くんの横顔があった。
遠くを見つめる目。少しだけ寂しそうな表情。でも、その目には光があった。
「いい写真」
朝倉くんが言った。
「これ、展示に使おうかな」
「え?」
「『境界線』でしょ。過去と未来の境界線に立ってる人の写真」
彼は、笑った。
「それ、俺だけじゃなくて、桜井さんもだよ」
その日、私たちは午後まで撮影を続けた。
川沿いの遊歩道。橋の下の影。公園のベンチ。
たくさんの境界線を撮った。
そして、たくさん話した。
過去のこと。後悔のこと。これからのこと。
帰り道、朝倉くんが言った。
「今日、話してくれてありがとう」
「こっちこそ。朝倉くんの話、聞けてよかった」
「俺たち、似てるのかもね」
「……そうかも」
二人とも、大切な人の名前を呼べなかった。
二人とも、それを後悔している。
でも、二人とも、前を向こうとしている。
駅で別れる時、朝倉くんが言った。
「月曜日、学校来れる?」
「……うん。頑張る」
「無理しないでね。でも、待ってるから」
「ありがとう」
電車に乗って、窓から朝倉くんを見た。
彼は、手を振ってくれた。
私も、小さく手を振り返した。
家に帰ってから、今日撮った朝倉くんの写真を見返した。
川を見つめる横顔。
過去と未来の境界線に立つ人。
それは、私の写真でもあった。
私も、境界線の上に立っている。
美咲を見捨てた過去と、これから築いていく未来の間に。
スマホを取り出して、久しぶりに美咲のSNSを見た。
彼女の最新の投稿。
友達と遊園地に行った写真。笑顔で写っている美咲。
コメント欄には、たくさんの「楽しそう!」「また行こうね!」という言葉。
美咲は、幸せそうだった。
私がいなくても、ちゃんと前を向いている。
私は、メッセージを書き始めた。
『美咲へ。久しぶり。元気にしてる?』
でも、送信ボタンを押す前に、消した。
まだ、早い。
今の私には、美咲に連絡する資格がない。
でも、いつか。
いつか、ちゃんと謝れる日が来たら。
その時は、美咲の名前を呼ぼう。
真っ直ぐに、「美咲」って。
ベッドに横になって、天井を見上げる。
朝倉くんの言葉を思い出す。
──名前を呼ぶことが怖い。
でも、呼ばなければ、何も始まらない。
私は、もう一度人の名前を呼べるようになるだろうか。
誰かの人生に、踏み込めるようになるだろうか。
答えは、まだわからない。
でも、少なくとも今日、朝倉くんの過去を聞いて、少しだけ勇気をもらった。
彼も、同じ後悔を抱えている。
でも、前を向いている。
なら、私も。
私は、約束通り学校へ行った。正確には、学校ではなく駅前の図書館。朝倉くんから「一緒に撮影に行かない?」とメッセージが来ていたから。
午前十時、図書館の前で待っていると、朝倉くんが自転車でやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
彼は、いつも通りの穏やかな笑顔だった。
「今日は、どこ行くの?」
「川沿い。ちょうどいい被写体があるんだ」
二人で川沿いの遊歩道を歩いた。
土曜日の午前中、ジョギングをしている人や、犬の散歩をしている人がいた。川の水は緑色で、ゆっくりと流れている。
「ここ」
朝倉くんが、橋の下で立ち止まった。
橋の下には、ホームレスらしき人がいた。段ボールの上に座り、何かを食べている。
「あの人を撮るの?」
「いや、あの人じゃなくて」
朝倉くんが指差したのは、橋の影だった。
「橋の影と、日向の境界線。あと、あの人が影の中にいるのが、なんか象徴的だなと思って」
私も、カメラを構えた。
橋の下の影。そこに座る人。その向こうに広がる明るい日差し。
光と影の境界線。
そして、影の中で生きる人。
シャッターを切った。
「この写真、使う?」
「わからない。でも、撮っておきたかった」
朝倉くんも、シャッターを切った。
「境界線って、場所だけじゃなくて、人の立場にもあるよね」
「立場?」
「うん。光の中にいる人と、影の中にいる人。幸せな人と、そうじゃない人」
彼の言葉が、胸に響いた。
私も、影の中にいる人間だった。
美咲を見捨ててから、ずっと影の中にいる。
「朝倉くんは、光の中にいると思う?」
私が聞くと、彼は少し考えてから答えた。
「どうだろう。半分は光で、半分は影、かな」
「半分?」
「うん。楽しい時もあるけど、辛い時もある。それって、みんな同じだと思う」
彼は、また歩き始めた。
川沿いをさらに歩いていくと、小さな公園があった。
ベンチに座って、二人でカメラの液晶画面を見る。
私が撮った橋の影。朝倉くんが撮った同じ構図。
でも、雰囲気が違った。
私の写真は、影が強調されていて、どこか冷たい印象。
朝倉くんの写真は、影の中にも温かみがあって、希望が感じられる。
「やっぱり、撮る人で変わるんだね」
朝倉くんが言った。
「同じものを撮っても、見え方が違う」
「朝倉くんの写真の方が、いいと思う」
「そんなことないよ。桜井さんの写真の方が、リアルだ」
リアル。
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
私の見ている世界は、冷たくて、影が多い。
でも、それがリアルなら、嘘じゃない。
「桜井さん」
朝倉くんが、私を見た。
「昨日、話してくれたこと、俺も話したいことがあるんだ」
「……何?」
「俺の兄のこと」
兄。
そういえば、朝倉くんに兄がいたことは聞いていた。
数年前に亡くなった、と。
「聞いてくれる?」
「うん」
朝倉くんは、少し遠くを見つめてから、話し始めた。
「兄は、俺の五歳上だった。名前は、拓海」
拓海。
その名前を、朝倉くんは少し躊躇いながら口にした。
「兄は、すごく明るい人だった。誰とでも仲良くなれて、いつも笑ってた。俺とは真逆のタイプ」
朝倉くんは、小さく笑った。
「小学生の頃、俺がいじめられてた時も、兄が助けてくれた。『恒一、大丈夫か』って、いつも声をかけてくれた」
でも、高校生になった頃から、兄の様子が変わり始めた。
学校に行かなくなった。部屋に閉じこもるようになった。
家族が声をかけても、返事をしなくなった。
「最初は、思春期だからって、みんな思ってた。でも、だんだん深刻になっていった」
朝倉くんの声が、少し震えた。
「ある日、兄が『もう疲れた』って呟いてるのを聞いた。廊下で、独り言みたいに」
その時、朝倉くんは声をかけるべきだった。
でも、かけられなかった。
「なんて言えばいいのかわからなかった。『大丈夫?』って聞いても、兄は『大丈夫』って答えるだろうし。『どうしたの?』って聞いても、『別に』って言われるだろうし」
だから、朝倉くんは何も言わなかった。
ただ、通り過ぎた。
その三日後、兄は自殺した。
私は、息を呑んだ。
朝倉くんは、俯いたまま続けた。
「朝、兄の部屋のドアが開いてなかった。呼んでも返事がなくて。親が鍵を開けたら──」
彼は、そこで言葉を切った。
「最後まで、俺は兄の名前を呼べなかった」
沈黙が、流れた。
川の水音だけが、静かに響いている。
「拓海、って名前を、最後まで呼べなかった」
朝倉くんは、目を閉じた。
「あの日、廊下で声をかけていれば。『拓海、大丈夫?』って、名前を呼んでいれば。何か変わったかもしれない」
「……朝倉くん」
「でも、怖かったんだ。名前を呼ぶことが。踏み込むことが」
彼の言葉が、私の胸に突き刺さった。
名前を呼ぶことが怖い。
踏み込むことが怖い。
それは、私と同じだった。
朝倉くんも、声をかけられなかった。
大切な人に、最後まで。
「それから、ずっと後悔してる」
朝倉くんは、私を見た。
「もっと早く気づけばよかった。もっと踏み込めばよかった。名前を呼べばよかった」
私は、何も言えなかった。
ただ、朝倉くんの隣に座って、一緒に川を見ていた。
「だから、桜井さんの気持ちがわかる」
朝倉くんが、静かに言った。
「声をかけられなかった後悔。名前を呼べなかった後悔」
「……うん」
「でも、それは俺たちだけのせいじゃない」
彼は、真っ直ぐ前を見て言った。
「人には、踏み込めない時がある。どれだけ大切な人でも、どれだけ助けたくても、踏み込めない時がある」
その言葉を、私はゆっくりと噛みしめた。
踏み込めない時がある。
それは、弱さじゃない。
ただ、人間だから。
「でも」
朝倉くんが続けた。
「それを理由に、ずっと立ち止まってたらダメだと思う」
「……どういうこと?」
「兄が死んでから、俺はずっと自分を責めてた。写真も撮らなくなった。人とも関わらなくなった」
でも、中学三年生の時、写真部の顧問の先生に誘われた。
「先生が、『カメラ、また触ってみない?』って言ってくれた。最初は断ったけど、先生が何度も誘ってくれて」
それで、また写真を撮り始めた。
最初は、何も感じなかった。
シャッターを切っても、何も変わらない気がした。
「でも、ある日、夕焼けを撮ってた時に気づいたんだ」
朝倉くんは、空を見上げた。
「兄も、この夕焼けを見てたのかなって」
その瞬間、朝倉くんの中で何かが変わった。
写真を通して、兄とつながれる気がした。
兄が見ていた世界を、自分も切り取れる気がした。
「それから、人の写真を撮るようになった」
「人の写真?」
「うん。兄みたいに、苦しんでる人がいるかもしれない。でも、表面上は笑ってるかもしれない」
朝倉くんは、カメラを見つめた。
「だから、写真を通して、その人の本当の表情を捉えたい。言葉にできない気持ちを、写真で残したい」
私は、朝倉くんの横顔を見た。
彼の目は、遠くを見ているようで、でも確かに何かを見つめていた。
「桜井さんも、同じだと思う」
彼が、私を見た。
「写真を撮ることで、あの時言えなかったことを、今伝えようとしてる」
「……そうなのかな」
「うん。桜井さんの写真、いつも何か訴えかけてくる。『ここにいる』って、『見てほしい』って」
その言葉に、涙が溢れそうになった。
見てほしい。
そう、私はずっと見てほしかった。
美咲も、きっとそうだった。
『見てほしい』『ここにいる』って、叫んでいたのに。
私は、見なかった。
「でも、今からでも遅くないよ」
朝倉くんが、優しく言った。
「今から、ちゃんと見ればいい。写真を通して、人を見ればいい」
私は、カメラを取り出した。
朝倉くんの横顔を、ファインダー越しに見る。
彼の表情には、悲しみと、希望が混ざっていた。
過去を背負いながら、前を向いている顔。
「撮っていい?」
「うん」
シャッターを切った。
カシャ、という音が、公園に響いた。
液晶画面を見る。
そこには、川を見つめる朝倉くんの横顔があった。
遠くを見つめる目。少しだけ寂しそうな表情。でも、その目には光があった。
「いい写真」
朝倉くんが言った。
「これ、展示に使おうかな」
「え?」
「『境界線』でしょ。過去と未来の境界線に立ってる人の写真」
彼は、笑った。
「それ、俺だけじゃなくて、桜井さんもだよ」
その日、私たちは午後まで撮影を続けた。
川沿いの遊歩道。橋の下の影。公園のベンチ。
たくさんの境界線を撮った。
そして、たくさん話した。
過去のこと。後悔のこと。これからのこと。
帰り道、朝倉くんが言った。
「今日、話してくれてありがとう」
「こっちこそ。朝倉くんの話、聞けてよかった」
「俺たち、似てるのかもね」
「……そうかも」
二人とも、大切な人の名前を呼べなかった。
二人とも、それを後悔している。
でも、二人とも、前を向こうとしている。
駅で別れる時、朝倉くんが言った。
「月曜日、学校来れる?」
「……うん。頑張る」
「無理しないでね。でも、待ってるから」
「ありがとう」
電車に乗って、窓から朝倉くんを見た。
彼は、手を振ってくれた。
私も、小さく手を振り返した。
家に帰ってから、今日撮った朝倉くんの写真を見返した。
川を見つめる横顔。
過去と未来の境界線に立つ人。
それは、私の写真でもあった。
私も、境界線の上に立っている。
美咲を見捨てた過去と、これから築いていく未来の間に。
スマホを取り出して、久しぶりに美咲のSNSを見た。
彼女の最新の投稿。
友達と遊園地に行った写真。笑顔で写っている美咲。
コメント欄には、たくさんの「楽しそう!」「また行こうね!」という言葉。
美咲は、幸せそうだった。
私がいなくても、ちゃんと前を向いている。
私は、メッセージを書き始めた。
『美咲へ。久しぶり。元気にしてる?』
でも、送信ボタンを押す前に、消した。
まだ、早い。
今の私には、美咲に連絡する資格がない。
でも、いつか。
いつか、ちゃんと謝れる日が来たら。
その時は、美咲の名前を呼ぼう。
真っ直ぐに、「美咲」って。
ベッドに横になって、天井を見上げる。
朝倉くんの言葉を思い出す。
──名前を呼ぶことが怖い。
でも、呼ばなければ、何も始まらない。
私は、もう一度人の名前を呼べるようになるだろうか。
誰かの人生に、踏み込めるようになるだろうか。
答えは、まだわからない。
でも、少なくとも今日、朝倉くんの過去を聞いて、少しだけ勇気をもらった。
彼も、同じ後悔を抱えている。
でも、前を向いている。
なら、私も。