名前を呼ぶまで、春は来ない

第2話 写真部への誘い

 翌日の放課後、私は足早に教室を出た。

 昨日の写真部の勧誘が、まだ頭に残っていた。三島先輩の笑顔と、朝倉くんの穏やかな声。あの二人は、きっとまた勧誘に来る。そんな予感がした。

 だから今日は、誰にも捕まらないように、すぐに帰る。

 廊下を歩いていると、一年生らしいグループが部活動見学の案内板を見ていた。新入生は、まだ希望に満ちている。どの部活に入ろうか、誰と一緒に活動しようか、そんなことを楽しそうに話している。

 私にも、そんな時期があったのだろうか。

 いや、きっとあった。ただ、それがいつだったのか、もう思い出せない。

 下駄箱に着いて、靴を履き替える。

 外は晴れていて、桜の花びらが風に舞っていた。昨日よりも少し散っているような気がする。春は、いつもこうして少しずつ過ぎていく。

「澪ちゃん、今日も一人で帰るの?」

 背後から声がした。

 振り向くと、クラスメイトの女子が立っていた。確か、名前は……松田さん。去年も同じクラスだった。

「うん、用事があるから」

「そっか。じゃあまたね」

 彼女は笑顔で手を振り、友達のところへ戻っていった。

 用事なんて、ない。ただ、一人で帰りたいだけ。でも、それを正直に言ったら、きっと心配される。だから、嘘をつく。小さな、誰も傷つけない嘘。

 校門を出て、桜並木の道を歩く。

 昨日と同じ道。昨日と同じ景色。何も変わらない日常が、ここにある。

 それが、私にとっての安心だった。

 変化は、いつも不安を連れてくる。新しい出会いも、新しい関係も、いつか必ず終わりが来る。だったら、最初から何も始めない方がいい。

 そう思って、私はこの一年間を過ごしてきた。

 家に帰ると、母が台所で夕食の準備をしていた。

「おかえり、澪」

「ただいま」

 リビングを通り過ぎて、自分の部屋へ向かう。

「今日、何かあった?」

 母が、背中越しに聞いてきた。

「別に。普通だった」

「そう。夕飯、六時には出来るから」

「わかった」

 短い会話。これが、私たちの日常だった。

 母は、私のことを心配している。それはわかる。でも、どう心配すればいいのかわからないのだろう。私も、母にどう話せばいいのかわからない。

 だから、私たちはいつも、こうして表面的な会話だけを交わす。

 部屋に入り、制服を脱いで部屋着に着替える。

 机の上には、昨日もらった部活動のチラシがあった。写真部、演劇部、軽音部……。

 写真部のチラシを手に取る。

 そこには、カメラを持った生徒たちの笑顔と、「あなたの視点で、世界を切り取ろう」というキャッチコピーが書かれていた。

 視点で、世界を切り取る。

 私の視点は、きっと誰の役にも立たない。いつも斜めから、少し離れたところから、物事を見ている。誰かと同じ景色を見ることも、誰かと一緒に何かを作ることも、もう長いことしていない。

 チラシを、机の引き出しにしまった。

 夕食の時間。

 母と二人、テーブルを挟んで向かい合う。
 テレビがついていて、ニュース番組が流れている。今日のトップニュースは、桜の開花予想についてだった。

「今年は桜、早いわね」

 母が、何気なく言った。

「うん」

「学校の桜も、もう満開なんじゃない?」

「そうだね」

「写真、撮った?」

「……撮ってない」

 母は少し寂しそうな顔をした。

 中学生の頃、私は母とよく一緒に桜を見に行った。近所の公園や、川沿いの桜並木。母はスマホで写真を撮り、私は隣で笑っていた。

 でも、それはもう過去の話だ。

「そう。じゃあ、今度一緒に見に行く?」

「忙しいから」

「そう……」

 母は、それ以上何も言わなかった。

 夕食を終えて、部屋に戻る。

 宿題を済ませて、ベッドに横になる。スマホを開くと、クラスのグループLINEに通知が来ていた。

 『明日の時間割確認』『部活どこ入る?』『カラオケ行こうよ』

 色々なメッセージが流れている。私は、それを読むだけで返信はしない。

 通知をオフにして、スマホを置く。

 天井を見上げる。白い天井。何の変哲もない、ただの天井。

 ──このまま、何も変わらずに一年が過ぎればいい。

 そう思いながら、目を閉じた。

 次の日の昼休み。

 私はいつものように、一人で購買へ向かった。今日はおにぎりとお茶を買って、教室へ戻る。

 席に座ると、隣の朝倉くんがこちらを見ていた。

「桜井さん」

「……何?」

「昼休み、ちょっと時間ある?」
 彼は、真っ直ぐこちらを見て言った。

「……用事があるから」

「五分だけでいいんだ。写真部の部室、見てほしくて」

 私は、少し驚いた。

 昨日、三島先輩を止めてくれたのは彼だった。無理に誘わない、と言ったのも彼だった。なのに、今日は自分から誘ってくる。

「興味ないって、言ったよね」

「うん。でも、一回だけ見てほしい。無理に入部しろとは言わないから」

 彼の声は、穏やかだった。押しつけがましくもなく、でも真剣で。

「……なんで?」

「桜井さんの目、写真を撮る人の目をしてるから」

 意味がわからなかった。

 写真を撮る人の目? 私が?

「私、写真なんて撮ったことないけど」

「そうかもしれない。でも、窓の外を見てる時の桜井さんの目、何かを探してるみたいだった」

 彼は、私が窓の外を見ていたことに気づいていたのか。

 教室で、一人で、ただぼんやりと外を眺めていた時間。誰も気にしていないと思っていたのに。

「……五分だけ?」

「五分だけ」

 私は、少し迷ってから頷いた。

 昼休みの廊下は、人でごった返していた。

 購買へ向かう生徒、部活の見学に行く生徒、友達と教室を移動する生徒。

 朝倉くんは、その人混みをすり抜けるように歩いていた。私は、その後ろを少し離れてついていく。

「部室、三階なんだ」

 彼が振り返って言った。

「うん」

 階段を上る。三階の廊下は、二階よりも静かだった。美術室、音楽室、そして──写真部の部室。

 ドアの前で、朝倉くんが立ち止まった。
「ここ」

 ドアには、『写真部』と書かれたプレートがかかっていた。

 彼がドアを開けると、中から光が溢れてきた。

 部室は、思っていたよりも広かった。

 窓際には、大きな机が並んでいて、そこに何台ものパソコンが置かれている。壁には、写真が何枚も飾られていた。風景、人物、静物……色々な種類の写真が、まるでギャラリーのように並んでいる。

「すごい……」

 思わず、声が出た。

「でしょ? うちの部、結構本格的なんだ」
 朝倉くんが、少し誇らしげに言った。

「この写真、全部部員が撮ったの?」

「うん。去年の写真展で展示したやつ。毎年、文化祭で写真展やってるんだ」

 私は、壁の写真を一枚一枚見ていった。

 夕焼けに染まる校舎。笑顔で走る陸上部員。静かに佇む神社。

 どの写真にも、撮った人の「視点」があった。何を見て、何を感じて、何を切り取ったのか。それが、写真から伝わってくる。

「桜井さんも、撮ってみない?」

 朝倉くんが、カメラを差し出してきた。

 黒い、一眼レフカメラ。私は、恐る恐るそれを受け取った。

「重い……」

「初めてだとそう感じるよね。でも、すぐ慣れる」

 彼が、カメラの使い方を教えてくれた。

 ファインダーを覗く。シャッターを押す。ピントを合わせる。

「何でもいいから、撮りたいものを撮ってみて」

 私は、カメラを構えて部室の中を見回した。

 窓、机、壁の写真、朝倉くん──。

 ファインダー越しに見る世界は、いつもと少しだけ違って見えた。

 切り取られた景色。フレームの中だけの世界。

 私は、窓の外に見える桜の木にピントを合わせた。

 カシャ、とシャッターを切る音が響いた。

「見てみる?」

 朝倉くんが、カメラの液晶画面を見せてくれた。

 そこには、窓枠に切り取られた桜の木が映っていた。青い空と、ピンク色の花びら。風に揺れる枝。

「……綺麗」

「うん。桜井さんの最初の一枚」

 彼は、嬉しそうに笑った。

 私は、もう一度液晶画面を見た。

 これが、私の撮った写真。私の視点で切り取った世界。

 不思議な感覚だった。

 いつも斜めから見ていた景色が、ファインダーを通すと真っ直ぐに見えた。いつも距離を置いていた世界が、シャッターを切った瞬間、少しだけ近づいたような気がした。

「どう? 写真、面白そうでしょ」

 朝倉くんが聞いてきた。

「……わかんない」

 正直に答えた。

 面白いのか、面白くないのか、まだわからない。ただ、嫌いではなかった。

「そっか。じゃあ、また気が向いたら来てよ。いつでも歓迎するから」

 彼は、カメラを受け取って棚に戻した。



 部室を出て、廊下を歩く。

 朝倉くんは、何も言わずに隣を歩いていた。

「……ありがとう」

 私が小さく言うと、彼は少し驚いたような顔をした。

「何が?」

「連れてきてくれて」

「ああ。どういたしまして」

 彼は、また穏やかに笑った。

 教室に戻ると、昼休みはもう終わりかけていた。チャイムが鳴り、午後の授業が始まる。

 私は席に座り、窓の外を見た。

 桜の木が、風に揺れている。

 ファインダー越しに見た景色を、もう一度思い出す。

 ──写真を撮る人の目。

 朝倉くんは、そう言った。

 私の目が、本当にそうなのかはわからない。でも、もしそうだとしたら。

 もしかしたら、写真なら──。

 言葉にできないことを、伝えられるのかもしれない。



 放課後。

 私は、迷っていた。

 荷物をまとめながら、写真部のことを考える。

 また部室に行ってみようか。それとも、やっぱりやめておこうか。

 人と関わるのは、怖い。深く関わるほど、傷つく可能性が高くなる。

 でも──。

「桜井さん、今日も帰る?」
 朝倉くんが、隣から声をかけてきた。

「……うん」

「そっか。じゃあまた明日」

 彼は、それだけ言って自分の荷物をまとめ始めた。

 誘われなかった。

 ほっとしたような、少し寂しいような、複雑な気持ちだった。



 廊下を歩いていると、また三島先輩に呼び止められた。

「ねえねえ、昨日朝倉くんが部室連れてったでしょ? どうだった?」

「……別に」

「別にって、興味ないってこと?」

「わかんない」

 私が曖昧に答えると、三島先輩は少し考え込んだ。

「じゃあさ、今日もう一回来てみない? 今日は私が撮影のコツ教えてあげる」

「今日は……」

「用事あるの?」

 ない。でも、行きたくない。

 そう言いかけた時、廊下の向こうから朝倉くんが歩いてきた。

「三島先輩、また無理やり誘ってるんですか」

「無理やりじゃないわよ。提案してるだけ」

「桜井さん、嫌そうな顔してますよ」

 朝倉くんが、私の顔を見て言った。

 嫌そうな顔? 私、そんな顔してた?

「うーん、でも写真部、人手不足なのよね。せっかく才能ありそうな子見つけたのに」

 才能? 私に?

「才能なんて、ないと思うけど」

 私が言うと、三島先輩は首を振った。

「あるわよ。朝倉くんが連れてくる子、大体当たるから」

「先輩、プレッシャーかけないでください」

 朝倉くんが、困ったように笑った。

 二人のやり取りを見ていると、少しだけ心が緩んだ。

 この二人は、悪い人じゃない。ただ、写真が好きで、仲間を増やしたいだけ。

 でも、私は──。

「……考えとく」
 そう言って、私はその場を離れた。

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