名前を呼ぶまで、春は来ない

第7話 過去の影

 その日から、クラスの空気が少しずつ変わった。
 目に見えるほど大きな変化ではない。ただ、すれ違う時の視線。私の席の前を通る時の、微妙な間。誰かが私の方を見て、小声で何かを囁く。
 教室にいると、肌が粟立つような感覚があった。
 何か言われているわけじゃない。でも、何も言われていないからこそ、余計に怖かった。
 見えない噂が、教室のどこかで呼吸をしている。



 火曜日の昼休み、私は一人で屋上へ行った。
 教室にいると息が詰まる。購買も、図書室も、人がいる場所は全部避けたかった。
 屋上のフェンスに寄りかかって、空を見上げる。
 五月の空は高く、雲が流れていく。
 カメラを取り出して、ファインダーを覗いた。
 空と、ビルの屋上の境界線。
 シャッターを切る。
 その音だけが、今の私を落ち着かせてくれた。



「桜井さん?」
 背後から声がして、振り向いた。
 朝倉くんが、屋上のドアから出てきた。
「こんなところにいたんだ」
「……うん」
「昼休み、教室にいなかったから探した」
 探した、という言葉に、少しだけ驚いた。
「どうしたの?」
「別に。ただ、ちょっと一人になりたくて」
 朝倉くんは、私の隣に来て、同じようにフェンスに寄りかかった。
「何かあった?」
「……別に」
「嘘」
 彼は、真っ直ぐこちらを見た。
「桜井さん、最近元気ない。写真部でも、あまり話さなくなった」



 私は、何も言えなかった。
 元気がないのは、自分でもわかっていた。でも、それを言葉にするのは難しかった。
 何をどう説明すればいいのか。
 クラスの視線が怖い、なんて言ったら、大げさだと思われるかもしれない。気にしすぎだと言われるかもしれない。
「……クラスで、何か言われてる気がして」
 小さく、そう言った。
「言われてる?」
「はっきりとは言われてない。でも、視線とか、空気とか」
 朝倉くんは、少し考えてから言った。
「何か、過去にあったの?」



 過去。
 その言葉に、胸が締め付けられた。
 中学時代のこと。
 親友だった子のこと。
 私が、声をかけられなかったこと。
「……中学の時に、ちょっと」
「話したくないなら、無理しなくていいよ」
「ありがとう」
 朝倉くんは、それ以上何も聞かなかった。
 ただ、隣にいてくれた。
 その存在が、少しだけ心を軽くしてくれた。



 放課後、写真部の部室へ行くと、三島先輩が心配そうな顔で迎えてくれた。
「桜井さん、大丈夫? 最近元気ないみたいだけど」
「……大丈夫です」
「無理してない?」
「してないです」
 嘘だった。
 無理している。たくさん無理している。
 でも、それを認めたら、全部が崩れてしまいそうで怖かった。
「もし、部活が負担なら、休んでもいいからね」
「……はい」
 部室に入って、いつもの席に座る。
 パソコンの画面を開いて、写真を見る。
 でも、集中できなかった。



 帰り道、朝倉くんが一緒に歩いてくれた。
 最近、よく一緒に帰るようになった。最初は偶然だったけれど、今は暗黙の了解みたいになっている。
「桜井さん」
「……何?」
「俺も、昔いじめられたことある」
 その言葉に、足が止まった。
「朝倉くんが?」
「うん。小学校の時。転校してきて、最初の一年くらい」
 彼は、少し遠い目をして言った。
「理由はよくわからない。ただ、新入りで、大人しくて、目立たなかったから。それだけで、ターゲットにされた」
「……そうなんだ」
「だから、わかるんだ。クラスの空気が変わる感じ。視線が怖い感じ」



 朝倉くんが、そんな経験をしていたなんて知らなかった。
 今の彼からは、想像もできない。
「どうやって、乗り越えたの?」
「乗り越えたっていうか……写真に出会った」
「写真?」
「うん。親が買ってくれたカメラで、いろんなもの撮ってるうちに、現実から少し離れられた。ファインダー越しに世界を見ると、少しだけ楽になった」
 彼の言葉が、胸に響いた。
 私も、同じだった。
 写真があれば、少しだけ楽になる。言葉がなくても、何かを伝えられる。
「だから、桜井さんにも写真を続けてほしい」
 朝倉くんが、私を見て言った。
「辛い時こそ、撮ってほしい。逃げるためじゃなくて、自分を守るために」



 その夜、私は一人で近所を歩いた。
 カメラを首にかけて、夜の街を撮影する。
 街灯の光。窓から漏れる明かり。暗闇との境界線。
 シャッターを切る。何度も、何度も。
 朝倉くんの言葉を思い出しながら。
 ──自分を守るために。
 写真は、私の盾だった。
 言葉を失った時、写真が代わりに語ってくれる。
 人と関われない時、写真が橋になってくれる。



 次の日、水曜日。
 授業中、後ろの席から紙が回ってきた。
 開くと、そこには一行だけ書かれていた。
 『桜井さんって、中学の時に友達見捨てたんだって?』
 心臓が、凍った。
 手が震える。
 紙を握りつぶして、ポケットにしまう。
 授業の内容が、全く頭に入ってこなかった。



 昼休み、また屋上に逃げた。
 フェンスに寄りかかって、深呼吸する。
 見捨てた。
 その言葉が、頭の中で繰り返される。
 ──私は、見捨てたのか。
 中学二年生の時。
 親友だった美咲が、クラスで孤立した。
 理由はよくわからない。些細なことから始まった。誰かとの小さな諍い。それが、いつの間にかクラス全体に広がった。
 美咲は、毎日一人で過ごすようになった。
 教室の隅で、誰とも話さず、俯いていた。



 私は、声をかけられなかった。
 かけようと思った。何度も、何度も。
 でも、できなかった。
 美咲に近づけば、私も孤立するかもしれない。
 そう思った瞬間、足が動かなくなった。
 そして、三ヶ月後。
 美咲は、転校した。
 最後まで、私は一言も声をかけられなかった。



 それから、私は変わった。
 人と深く関わるのが怖くなった。
 誰かの名前を呼ぶのが怖くなった。
 名前を呼ぶことは、その人の人生に踏み込むこと。
 でも、私はそれができなかった。
 だから、もう誰の名前も呼ばないと決めた。
 誰にも踏み込まず、誰にも踏み込まれず、ただ透明に生きる。
 それが、私の選んだ道だった。



「桜井さん」
 また、朝倉くんの声がした。
 彼は、また私を探してくれたらしい。
「……なんで、いつも私を探すの?」
 私は、振り向かずに聞いた。
「なんでだろう。気になるから、かな」
「気になる?」
「うん。桜井さんが一人でいると、放っておけない」
 彼は、隣に来た。
「でも、無理に話さなくていいよ。ただ、一人にしたくないだけ」



 一人にしたくない。
 その言葉が、胸に染みた。
 中学の時、美咲を一人にしてしまった。
 私は、一人にされる側じゃなくて、一人にする側だった。
「……私、昔、友達を見捨てたことがある」
 小さく、そう言った。
 朝倉くんは、何も言わずに聞いていた。
「その子が孤立してた時、私は何もできなかった。声をかけることもできなかった。怖くて」
「怖かった?」
「うん。自分も孤立するのが怖かった。だから、見て見ぬふりをした」



 それを口にした瞬間、涙が溢れてきた。
 ずっと、胸の中にしまっていた言葉。
 誰にも言えなかった後悔。
「その子、転校しちゃった。最後まで、私は何も言えなかった」
 朝倉くんは、静かに私の話を聞いていた。
「それから、人と関わるのが怖くなった。また同じことが起きたら、また誰かを傷つけたら──」
「桜井さん」
 彼が、私の名前を呼んだ。
「それは、桜井さんのせいじゃない」
「でも──」
「中学生の桜井さんが、どれだけ怖かったか、俺にはわかる。声をかけられなかったことを、責める資格は誰にもない」



 彼の言葉に、少しだけ救われた。
 でも、同時に思った。
 ──私は、許されていいのだろうか。
「それに」
 朝倉くんが続けた。
「今の桜井さんは、写真部にいる。みんなと一緒に活動してる。それって、もう一歩踏み出してるってことだよ」
「……一歩?」
「うん。また誰かと関わろうとしてる。それって、すごく勇気がいることだから」



 その夜、家に帰ってから、久しぶりに昔のアルバムを開いた。
 中学時代の写真。
 修学旅行、文化祭、体育祭。
 その中に、美咲の笑顔があった。
 隣にいる私も、笑っていた。
 あの頃は、まだ笑えていた。
 美咲と一緒に、他愛もない話をして、笑い合っていた。
 でも、それは全部、過去のことだ。



 私は、スマホを取り出して、美咲の名前を検索した。
 SNSのアカウントが出てきた。
 転校先の学校での写真。新しい友達と笑っている美咲。
 彼女は、幸せそうだった。
 私がいなくても、ちゃんと生きている。
 それが、少しだけ安心させてくれた。
 同時に、少しだけ寂しかった。



 次の日、木曜日。
 朝、教室に入ると、黒板に落書きがあった。
 『桜井、友達裏切るの得意だよね』
 心臓が、止まりそうになった。
 教室にいた数人の生徒が、私を見て小声で笑っていた。
 私は、何も言わずに黒板を消した。
 手が震えていた。



 授業が始まっても、集中できなかった。
 放課後、写真部に行く気力もなかった。
 そのまま、学校を出た。
 家に帰る途中、朝倉くんから電話がかかってきた。
「桜井さん、今日部活来なかったね。大丈夫?」
「……ごめん。ちょっと、無理だった」
「そっか。何かあった?」
 黒板のことを話そうかと思ったけれど、やめた。
 これ以上、誰かに心配をかけたくなかった。
「大丈夫。ただ疲れてただけ」
「……そう。無理しないでね」
 電話を切って、一人で歩いた。
 桜の花びらは、もう全部散ってしまった。
 代わりに、新緑が深くなっていた。
 季節は、容赦なく進んでいく。

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