名前を呼ぶまで、春は来ない

第6話 少しずつ縮まる距離

 五月に入り、新緑が深くなった。
 写真部での活動も、日常の一部になっていた。火曜日と金曜日の放課後は必ず部室へ行き、週末も時々撮影に出かける。一ヶ月前の自分には想像できなかった日々が、今はもう当たり前になっていた。
 文化祭まで、あと一ヶ月半。
 部員たちは、それぞれのペースで「境界線」をテーマにした写真を撮り続けていた。
 三島先輩は、街中の様々な境界線──線路、フェンス、道路の白線などを撮っていた。水野くんは、時間の境界線──夕暮れ、夜明け、季節の変わり目を追いかけていた。伊藤さんは、自然の中の境界線──森と空、陸と海、光と影を丁寧に切り取っていた。
 そして朝倉くんは、人の表情の境界線を撮っていた。
 笑顔と涙の間。怒りと諦めの間。喜びと寂しさの間。
 彼のファインダーは、いつも人の感情の揺れ動きを捉えていた。



 火曜日の放課後、部室でパソコンに向かっていると、朝倉くんが隣に座った。
「桜井さん、今何枚撮った?」
「えっと……八枚」
「順調だね。俺まだ五枚しかない」
「朝倉くんの写真、撮るの時間かかりそうだもんね。人の表情って、タイミング難しいでしょ」
「そうなんだよ。一瞬を逃すと、もう撮れない」
 彼は、自分のカメラの液晶画面を見せてくれた。
 そこには、笑っている子供の顔があった。でも、その目は少しだけ寂しそうだった。
「これ、公園で撮ったんだけど。笑ってるのに、どこか遠くを見てる感じがして」
「……綺麗」
「ありがとう」



 朝倉くんと話していると、時間があっという間に過ぎた。
 写真の話だけじゃなく、学校のこと、授業のこと、好きな音楽のこと。何気ない会話が、自然に流れていく。
 こんなふうに誰かと話すのは、いつぶりだろう。
 中学生の頃以来かもしれない。
「桜井さんって、音楽聴く?」
 朝倉くんが聞いてきた。
「うん。たまに」
「どんなの?」
「静かなやつ。ピアノとか、アコースティックギターとか」
「ああ、わかる。俺も好き」
 彼は、スマホを取り出して、イヤホンを片方差し出してきた。
「これ、最近見つけた曲。桜井さん好きそう」
 恐る恐るイヤホンを受け取って、耳につける。
 流れてきたのは、静かなピアノの旋律だった。シンプルで、でも深みのある音。
「……いいね」
「でしょ? 俺、これ聴きながら写真見るの好きなんだ」



 二人でイヤホンを分け合って、同じ音楽を聴く。
 不思議な感覚だった。
 こんなに近くに誰かがいるのに、怖くない。緊張しない。ただ、音楽が流れている。
 朝倉くんは、何も言わずに画面を見ていた。
 私も、何も言わずに音楽に身を任せた。
 言葉がなくても、この空間は成立している。
 それが、心地よかった。



 曲が終わり、イヤホンを返す。
「ありがとう」
「曲名、送っとくね」
「うん」
 その日、帰り道で朝倉くんからメッセージが来た。
 曲のリンクと、『また他のもシェアするね』というメッセージ。
 私は、小さく笑った。
 スマホの画面に向かって、一人で笑う自分に驚いた。
 いつから、こんなふうに笑えるようになったんだろう。



 次の金曜日、部活の後。
 三島先輩が、みんなを集めた。
「はい、お疲れ様。ちょっと相談なんだけど、来週末に合同撮影会やらない?」
「合同撮影会?」
 水野くんが聞いた。
「そう。部員全員で同じ場所に行って、それぞれ自由に撮影する。去年もやったんだけど、結構楽しかったよ」
「どこ行くんですか?」
 伊藤さんが聞いた。
「海、とか? ちょうど天気も良さそうだし」
 海。
 私は、少し緊張した。
 みんなと一緒に、一日中行動する。それは、まだ少しハードルが高い。
「桜井さんも来れる?」
 三島先輩が、私を見た。
「……考えます」
「無理しなくていいからね。でも、来てくれたら嬉しいな」



 その夜、私は迷っていた。
 ベッドに横になって、天井を見上げる。
 海。みんなで撮影。一日中。
 楽しそうだと思う反面、やっぱり怖い。
 人と長時間一緒にいると、ボロが出る。うまく話せなくなる。空気が読めなくなる。
 そして──疲れる。
 でも、行かなかったら、また距離ができる。せっかく少しずつ近づいてきた距離が、また離れてしまう。
 スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
 『来週の撮影会、来る?』
 私は、少し考えてから返信した。
 『まだ決めてない』
 すぐに返事が来た。
 『俺も最初、こういうの苦手だったんだ。でも、みんな優しいから大丈夫だよ』
 朝倉くんも、苦手だった?
 あんなに自然に人と話せる彼が?
 『ほんとに?』
 『ほんとに。入部したばかりの頃、集団行動が嫌で、いつも一人で撮影してた』
 『今は平気なの?』
 『慣れた。というか、写真があると話しやすくなるんだよね。写真の話してれば、無理に会話考えなくていいから』



 その言葉に、少し救われた。
 写真の話をすればいい。
 無理に明るく振る舞わなくていい。ただ、カメラを持って、自分のペースで撮ればいい。
 私は、返信した。
 『行ってみる』
 『よかった。じゃあ、一緒に行こう』
 一緒に。
 その言葉が、心に残った。



 翌週の土曜日、朝九時。
 駅前に集合した。
 部員全員が揃うのは、初めてだった。三島先輩、朝倉くん、水野くん、伊藤さん、そして三年生の先輩二人。
「じゃあ、電車で一時間くらいだから、行こう!」
 三島先輩の掛け声で、みんなで電車に乗り込んだ。
 朝倉くんが、私の隣に座った。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「大丈夫。疲れたら、一人で撮影してても誰も気にしないから」
 彼の言葉に、少しだけ気が楽になった。



 海に着いた時、潮の匂いが鼻をついた。
 広い砂浜と、青い海。五月の海は、まだ泳げるほど暖かくないけれど、散歩するには気持ちいい。
「じゃあ、十二時にここに集合ね。それまで自由行動!」
 三島先輩の指示で、みんなが散っていった。
 私は、朝倉くんと一緒に波打ち際を歩いた。
「海、久しぶり?」
「うん。小学生の頃以来かも」
「俺も。家族で来たきりだな」
 波が、砂浜を撫でていく。
 その音が、心地よかった。



 私は、カメラを構えた。
 波と砂の境界線。
 寄せては返す波が、砂浜に新しい線を描いていく。その線は、すぐに消えて、また新しい線ができる。
 永遠に変わり続ける境界線。
 シャッターを切った。
「波の写真、撮ってるの?」
「うん。境界線がずっと動いてて、面白い」
「確かに。境界線って、固定されてるイメージあるけど、波は違うよね」
「そう。だから、撮るのが難しい」
 朝倉くんも、カメラを構えた。
「俺は、あの家族撮っていい?」
 彼が指差した先には、小さな子供を連れた家族がいた。
「うん」
 彼は、その家族に声をかけて、許可をもらってからシャッターを切った。
 笑顔の子供。優しく見守る両親。
 その光景が、彼のファインダーに収まった。



 それから二時間、私たちは海辺を歩き続けた。
 波の境界線。空と海の境界線。砂浜と岩場の境界線。
 たくさんの境界線が、そこにあった。
「桜井さん」
 朝倉くんが、私を呼んだ。
「ちょっと、そこに立ってもらえる?」
「え?」
「写真撮りたいんだ。波打ち際に立ってるところ」
 私は、少し戸惑った。
 人に撮られるのは、苦手だった。自分がどんな顔をしているのか、どう映っているのか、それを見るのが怖かった。
「……カメラ、見ない方がいい?」
「うん。海の方見てて」
 私は、波打ち際に立って、海を見た。
 遠くに、水平線が見える。空と海の境界が、曖昧に溶け合っている。
 シャッターの音が聞こえた。



「見る?」
 朝倉くんが、液晶画面を見せてくれた。
 そこには、波打ち際に立つ私がいた。
 でも、思っていたよりも、悪くなかった。
 遠くを見つめる横顔。風に揺れる髪。波に足を浸す影。
 私らしい、と思った。
「いい写真」
 朝倉くんが言った。
「『境界線に立つ人』って感じで」
 境界線に立つ人。
 そう、私はいつも境界線の上にいる。
 こちら側とも、向こう側ともつかない、曖昧な場所に。



 十二時、集合場所に戻ると、みんなが既に集まっていた。
 三島先輩が、コンビニで買ってきたお弁当を配ってくれた。
「はい、お疲れ様! みんな、どんなの撮れた?」
 砂浜に座って、お弁当を食べながら、それぞれが撮った写真を見せ合う。
 三年生の先輩は、岩と波のダイナミックな写真。水野くんは、砂浜に残された足跡。伊藤さんは、貝殻のクローズアップ。
 そして、私の番が来た。
「桜井さんは?」
 カメラを渡すと、みんなが液晶画面を覗き込んだ。
「すごい……波の瞬間、よく捉えたね」
「この写真、動きがあるのに静かな感じがする」
「やっぱり桜井さんらしい」
 みんなの言葉に、少しだけ自信が持てた。



 帰りの電車で、私は窓の外を見ていた。
 海が、遠ざかっていく。
 今日は、楽しかった。
 そう思えた自分に、驚いた。
 人と一緒に過ごすことが、こんなに楽しいなんて、忘れていた。
「疲れた?」
 隣の朝倉くんが聞いてきた。
「……ちょっと。でも、楽しかった」
「よかった」
 彼は、微笑んだ。
「また、こういうの参加してね」
「……うん」



 その夜、家に帰ってから、今日撮った写真を全部見返した。
 波の境界線。空と海。砂浜に立つ私。
 どの写真にも、今日の時間が刻まれていた。
 そして、朝倉くんが撮ってくれた私の写真を見る。
 波打ち際に立つ横顔。
 境界線に立つ私。
 でも、その写真の中の私は、寂しそうには見えなかった。
 ただ、何かを見つめているように見えた。
 向こう側を。
 まだ見ぬ、向こう側の世界を。



 月曜日、学校で朝倉くんと顔を合わせた。
「おはよう」
「おはよう」
 いつもの挨拶。でも、何かが少しだけ変わった気がした。
 距離が、縮まった。
 ほんの少しだけ。
 でも、確かに。



 昼休み、購買へ向かう途中で、クラスメイトの女子たちとすれ違った。
「ねえねえ、桜井さんって写真部入ったんだって?」
 一人が、声をかけてきた。
「……うん」
「へえ、意外。桜井さん、そういうの興味あるんだ」
「まあ、でも──」
 もう一人が、何か言いかけて、口をつぐんだ。
 その瞬間、空気が変わった。
 微妙な沈黙。視線の交錯。
 何か、言いたいことがあるのに、言えない空気。
 私は、その場を離れた。



 廊下を歩きながら、胸の奥が冷たくなっていくのを感じた。
 ──まあ、でも。
 あの「でも」の後には、何が続くはずだったのか。
 私は、知っている。
 きっと、中学の時のことだ。
 あの出来事が、また囁かれ始めている。
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