その名前を、呼べたなら
第2話 呼ばれない名前
篠原由紀が市役所を訪れたのは、ひよりが窓口に来てから三日後のことだった。
総合病院の医療ソーシャルワーカーとして働く由紀は、患者やその家族が抱える生活上の問題を、医療と福祉の両面から支援する仕事をしている。病気そのものを治すことはできないが、その周辺にある「困りごと」を一緒に解決していく。それが由紀の役割だった。
この日、由紀は山本美和という患者の件で、市役所との連携が必要になり、福祉課を訪れていた。
午前十時。窓口は比較的空いている。
由紀は受付で用件を伝え、担当者が来るのを待合で待った。白いブラウスに紺のカーディガン、膝丈のスカート。病院での仕事着は、清潔感と柔らかさの両立を意識している。
しばらくすると、奥から男性職員が歩いてきた。
三十代半ば。黒縁の眼鏡。紺色のスーツ。少し猫背気味の姿勢。表情は穏やかだが、どこか遠い印象を受ける。
「篠原さんですね。福祉課の佐倉です」
男性──佐倉恒一は、軽く頭を下げた。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
由紀も会釈を返した。
「こちらこそ。お時間いただいて」
恒一は由紀を相談室へ案内した。パーテーションで区切られた小さな空間。テーブルと椅子が二脚ずつ。窓からは駐車場が見える。
二人は向かい合って座った。
恒一は手元の資料に目を落とし、静かに口を開いた。
「山本美和さんのケースですね」
「はい。美和さんは現在、当院で治療中なんですが、お子さんが一人いらっしゃって」
「山本ひよりちゃん、ですね」
恒一がそう言った瞬間、由紀は少し驚いた表情を見せた。
「ご存じなんですか?」
「数日前に、ひよりちゃんが一人で窓口に来ました。お母さんのことを心配していて」
恒一は淡々と説明した。ひよりが訪れたときの様子、彼女が口にした言葉、そして渡したパンフレットのこと。
由紀は静かに聞いていた。
「そうだったんですね……」
由紀は少しだけ目を伏せた。
「実は、美和さんご本人が、ひよりちゃんに病状を伝えられずにいるんです。まだ九歳ですし、どこまで話すべきか悩んでいて」
「病名は……」
「詳しくはお伝えできませんが、長期的な治療が必要な状態です」
恒一は頷いた。
「わかりました。では、ひとり親世帯への支援制度と、医療費助成の案内をお渡しします」
恒一は手際よく書類を揃え、由紀に手渡した。説明も的確で、無駄がない。
由紀は資料に目を通しながら、ふと恒一の横顔を見た。
丁寧で、正確で、優しい。
けれど──何かが、足りない気がした。
「佐倉さん」
由紀は資料から顔を上げた。
「ひよりちゃんが窓口に来たとき、どんな様子でしたか?」
恒一は少しだけ考えるように視線を落とした。
「……冷静でした。泣いているわけでもなく、ただ状況を整理して、必要な情報を得ようとしていた」
「九歳で?」
「はい」
由紀は小さく息をついた。
「それって、本当は無理をしてるってことですよね」
恒一は何も言わなかった。
由紀は続けた。
「子どもって、大人が思ってるよりずっと敏感です。親が何かを隠そうとしてることも、何かが終わりに近づいてることも、ちゃんとわかってる。でも、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです」
恒一はじっと由紀を見つめていた。
「篠原さんは、そういうお子さんをたくさん見てきたんですね」
「ええ。だから、できるだけ早く、ひよりちゃんにも適切なサポートを届けたくて」
由紀の声には、静かな強さがあった。
恒一は頷いた。
「わかりました。こちらでも、可能な範囲で協力します」
「ありがとうございます」
由紀は立ち上がり、資料をバッグにしまった。
恒一も立ち上がり、相談室の扉を開けた。
「何かあれば、またご連絡ください」
「はい。お世話になります」
由紀は会釈をして、廊下へ出た。
そして──ふと振り返った。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「もしよろしければ、ひよりちゃんが次に窓口に来たときのこと、私にも教えていただけますか? 連携が取れた方が、美和さんにとってもいいと思うので」
恒一は少しだけ迷うような表情を見せた。
それから、静かに答えた。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
由紀は笑顔を向けた。
恒一は、その笑顔をまっすぐ見つめることができなかった。
由紀が帰ったあと、恒一は相談室に残り、書類を整理していた。
山本美和、山本ひより。
母と娘。
そして、篠原由紀。
恒一は、由紀の言葉を反芻していた。
『子どもって、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです』
それは、大人も同じじゃないのか。
恒一は書類を閉じ、相談室を出た。
その日の夕方、恒一が窓口業務を終えて帰り支度をしていると、再びあの少女が現れた。
ひよりだった。
今日は黄色いジャンパーではなく、薄いピンクのパーカーを着ている。ランドセルはいつもと同じ紺色。
ひよりは恒一を見つけると、小さく手を振った。
恒一は少しだけ驚いたが、すぐにカウンターへ向かった。
「ひよりちゃん。また来てくれたんだね」
「はい」
ひよりは頷いた。
「あのね、お母さん、病院に行ってるの」
「うん」
「それで、病院の人が、市役所の人と話すって言ってた」
恒一は静かに頷いた。
「そうだね。今日、病院の篠原さんって人が来てくれたよ」
「篠原さん?」
「うん。お母さんのこと、ちゃんと考えてくれてる人」
ひよりは少しだけ安心したような顔をした。
「そっか」
それから、ひよりは少し考えるように視線を落とした。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「大人って、名前呼ぶの遅いよね」
恒一は、思わず息を止めた。
「……え?」
「お母さん、わたしのこと最近あんまり呼ばない。前は『ひより』って呼んでくれたのに、今は『ねえ』とか『ちょっと』とか、そういうのばっかり」
ひよりはまっすぐに恒一を見つめた。
「呼ばなくなるのって、何か理由があるの?」
恒一は、答えられなかった。
なぜなら、恒一自身が誰の名前も呼ばない人間だったから。
篠原由紀のことも「篠原さん」としか呼んでいない。
山本美和も、山本ひよりも、すべて「さん」「ちゃん」をつけて呼ぶ。
名前を、呼ばない。
それは恒一にとって、当たり前のことだった。
けれど──このまっすぐな瞳で問われると、それが「普通」ではないことに気づかされる。
「……わからない」
恒一は正直に答えた。
「でも、お母さんがひよりちゃんのこと大切に思ってるのは、変わらないと思うよ」
「うん」
ひよりは頷いた。
「それは、わかってる」
そして、ランドセルを背負い直した。
「ありがとう、佐倉さん。また来るね」
「うん。気をつけて」
ひよりは小さく手を振って、市役所を出ていった。
恒一はその背中を見送り、深く息をついた。
その夜。
恒一はアパートで、また一人で夕食を食べていた。
テレビはつけていない。
静かな部屋。
恒一はふと、スマホを手に取った。
連絡先のリストを開く。
母の名前が、まだ残っている。
佐倉 良子
恒一は、その名前をじっと見つめた。
そして──通話履歴を開いた。
最後の着信は、十年前。
再生ボタンは、すぐそこにある。
けれど、恒一は押せなかった。
母の声を聞けば、母の名前を呼び返さなかった自分を、もう一度思い出してしまう。
恒一はスマホを置き、目を閉じた。
『大人って、名前呼ぶの遅いよね』
ひよりの言葉が、耳に残っていた。
遅い、のではない。
呼べない、のだ。
恒一にとって、名前を呼ぶことは──誰かに近づくことであり、失うことを覚悟することだった。
だから、呼ばない。
それが、恒一の生き方だった。
総合病院の医療ソーシャルワーカーとして働く由紀は、患者やその家族が抱える生活上の問題を、医療と福祉の両面から支援する仕事をしている。病気そのものを治すことはできないが、その周辺にある「困りごと」を一緒に解決していく。それが由紀の役割だった。
この日、由紀は山本美和という患者の件で、市役所との連携が必要になり、福祉課を訪れていた。
午前十時。窓口は比較的空いている。
由紀は受付で用件を伝え、担当者が来るのを待合で待った。白いブラウスに紺のカーディガン、膝丈のスカート。病院での仕事着は、清潔感と柔らかさの両立を意識している。
しばらくすると、奥から男性職員が歩いてきた。
三十代半ば。黒縁の眼鏡。紺色のスーツ。少し猫背気味の姿勢。表情は穏やかだが、どこか遠い印象を受ける。
「篠原さんですね。福祉課の佐倉です」
男性──佐倉恒一は、軽く頭を下げた。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
由紀も会釈を返した。
「こちらこそ。お時間いただいて」
恒一は由紀を相談室へ案内した。パーテーションで区切られた小さな空間。テーブルと椅子が二脚ずつ。窓からは駐車場が見える。
二人は向かい合って座った。
恒一は手元の資料に目を落とし、静かに口を開いた。
「山本美和さんのケースですね」
「はい。美和さんは現在、当院で治療中なんですが、お子さんが一人いらっしゃって」
「山本ひよりちゃん、ですね」
恒一がそう言った瞬間、由紀は少し驚いた表情を見せた。
「ご存じなんですか?」
「数日前に、ひよりちゃんが一人で窓口に来ました。お母さんのことを心配していて」
恒一は淡々と説明した。ひよりが訪れたときの様子、彼女が口にした言葉、そして渡したパンフレットのこと。
由紀は静かに聞いていた。
「そうだったんですね……」
由紀は少しだけ目を伏せた。
「実は、美和さんご本人が、ひよりちゃんに病状を伝えられずにいるんです。まだ九歳ですし、どこまで話すべきか悩んでいて」
「病名は……」
「詳しくはお伝えできませんが、長期的な治療が必要な状態です」
恒一は頷いた。
「わかりました。では、ひとり親世帯への支援制度と、医療費助成の案内をお渡しします」
恒一は手際よく書類を揃え、由紀に手渡した。説明も的確で、無駄がない。
由紀は資料に目を通しながら、ふと恒一の横顔を見た。
丁寧で、正確で、優しい。
けれど──何かが、足りない気がした。
「佐倉さん」
由紀は資料から顔を上げた。
「ひよりちゃんが窓口に来たとき、どんな様子でしたか?」
恒一は少しだけ考えるように視線を落とした。
「……冷静でした。泣いているわけでもなく、ただ状況を整理して、必要な情報を得ようとしていた」
「九歳で?」
「はい」
由紀は小さく息をついた。
「それって、本当は無理をしてるってことですよね」
恒一は何も言わなかった。
由紀は続けた。
「子どもって、大人が思ってるよりずっと敏感です。親が何かを隠そうとしてることも、何かが終わりに近づいてることも、ちゃんとわかってる。でも、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです」
恒一はじっと由紀を見つめていた。
「篠原さんは、そういうお子さんをたくさん見てきたんですね」
「ええ。だから、できるだけ早く、ひよりちゃんにも適切なサポートを届けたくて」
由紀の声には、静かな強さがあった。
恒一は頷いた。
「わかりました。こちらでも、可能な範囲で協力します」
「ありがとうございます」
由紀は立ち上がり、資料をバッグにしまった。
恒一も立ち上がり、相談室の扉を開けた。
「何かあれば、またご連絡ください」
「はい。お世話になります」
由紀は会釈をして、廊下へ出た。
そして──ふと振り返った。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「もしよろしければ、ひよりちゃんが次に窓口に来たときのこと、私にも教えていただけますか? 連携が取れた方が、美和さんにとってもいいと思うので」
恒一は少しだけ迷うような表情を見せた。
それから、静かに答えた。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
由紀は笑顔を向けた。
恒一は、その笑顔をまっすぐ見つめることができなかった。
由紀が帰ったあと、恒一は相談室に残り、書類を整理していた。
山本美和、山本ひより。
母と娘。
そして、篠原由紀。
恒一は、由紀の言葉を反芻していた。
『子どもって、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです』
それは、大人も同じじゃないのか。
恒一は書類を閉じ、相談室を出た。
その日の夕方、恒一が窓口業務を終えて帰り支度をしていると、再びあの少女が現れた。
ひよりだった。
今日は黄色いジャンパーではなく、薄いピンクのパーカーを着ている。ランドセルはいつもと同じ紺色。
ひよりは恒一を見つけると、小さく手を振った。
恒一は少しだけ驚いたが、すぐにカウンターへ向かった。
「ひよりちゃん。また来てくれたんだね」
「はい」
ひよりは頷いた。
「あのね、お母さん、病院に行ってるの」
「うん」
「それで、病院の人が、市役所の人と話すって言ってた」
恒一は静かに頷いた。
「そうだね。今日、病院の篠原さんって人が来てくれたよ」
「篠原さん?」
「うん。お母さんのこと、ちゃんと考えてくれてる人」
ひよりは少しだけ安心したような顔をした。
「そっか」
それから、ひよりは少し考えるように視線を落とした。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「大人って、名前呼ぶの遅いよね」
恒一は、思わず息を止めた。
「……え?」
「お母さん、わたしのこと最近あんまり呼ばない。前は『ひより』って呼んでくれたのに、今は『ねえ』とか『ちょっと』とか、そういうのばっかり」
ひよりはまっすぐに恒一を見つめた。
「呼ばなくなるのって、何か理由があるの?」
恒一は、答えられなかった。
なぜなら、恒一自身が誰の名前も呼ばない人間だったから。
篠原由紀のことも「篠原さん」としか呼んでいない。
山本美和も、山本ひよりも、すべて「さん」「ちゃん」をつけて呼ぶ。
名前を、呼ばない。
それは恒一にとって、当たり前のことだった。
けれど──このまっすぐな瞳で問われると、それが「普通」ではないことに気づかされる。
「……わからない」
恒一は正直に答えた。
「でも、お母さんがひよりちゃんのこと大切に思ってるのは、変わらないと思うよ」
「うん」
ひよりは頷いた。
「それは、わかってる」
そして、ランドセルを背負い直した。
「ありがとう、佐倉さん。また来るね」
「うん。気をつけて」
ひよりは小さく手を振って、市役所を出ていった。
恒一はその背中を見送り、深く息をついた。
その夜。
恒一はアパートで、また一人で夕食を食べていた。
テレビはつけていない。
静かな部屋。
恒一はふと、スマホを手に取った。
連絡先のリストを開く。
母の名前が、まだ残っている。
佐倉 良子
恒一は、その名前をじっと見つめた。
そして──通話履歴を開いた。
最後の着信は、十年前。
再生ボタンは、すぐそこにある。
けれど、恒一は押せなかった。
母の声を聞けば、母の名前を呼び返さなかった自分を、もう一度思い出してしまう。
恒一はスマホを置き、目を閉じた。
『大人って、名前呼ぶの遅いよね』
ひよりの言葉が、耳に残っていた。
遅い、のではない。
呼べない、のだ。
恒一にとって、名前を呼ぶことは──誰かに近づくことであり、失うことを覚悟することだった。
だから、呼ばない。
それが、恒一の生き方だった。


