ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~
 彼女を初めて知ったのは、中学一年の初夏だった。

 入学当初から、「あのクラスに『モリヨシエ』という美少女がいる」という噂は、砂埃のように校内を舞っていた。
 野球のことしか頭になかった僕は、その話を、聞いているようで聞いていなかったのだけど。

 小学校入学と同時に、父が監督をしていた地元の少年野球チームに所属した。
 三年生の時にピッチャーとしての才能を見出され、そこからは白球を投げること以外に興味をまったく持てなくなるくらい、日々のめり込んでいった。
 練習は厳しかったが、マウンドという孤独な場所でバッターをねじ伏せ、チームの勝利を背負う感覚は、何物にも代えがたい高揚感があった。
 家では無口な父が、僕の成長を心から応援し、喜んでくれる姿が、誇らしく、嬉しくもあった。

 そんな野球少年が、初めてマウンド以外で足を止めた日。
 大事な試合を翌日に控え、いつもより早めに練習を切り上げて校舎へ向かっていた。

(人差し指を、もっと外側に置いてみたらどうだろう)

 マメや土汚れでカサカサした手のひらを眺めながら、ボールの握りについてあれこれ考えながら歩いていた時。
 ふと目に入った、グラウンドの隅。

 陸上部の高跳びエリアで、重力を忘れたようにひらりとバーを越える影があった。

 柔らかいマットの上に着地した彼女は、起き上がりざま、仲間と顔を見合わせて弾けるように笑った。

 ――その瞬間、僕の周りの音が遠のいた。

 夏の強い日差しも、セミの鳴き声も、彼女のその屈託のない笑顔の前では色褪せて見えた。

 名前を聞くまでもない。あんな笑顔を持つ人がいたら、誰だって噂をするに決まっている。
 それは「好き」という感情よりも、夜空の流れ星を見つけた「奇跡」に近いものだった。

 三年間で、同じクラスになることはなく、言葉を交わしたのはたったの二度。

 一度目は、キャッチボール中にボールが逸れて、トラックをランニングをしていた彼女の足元へ転がっていった時。

「……どうぞ!」

 拾い上げたボールを差し出す彼女の指先は、小さくて白く、少し照れたように細められた目は、直視できないほど眩しかった。

「あ……ありがとう」

 僕は帽子のつばを目深に下げながら一言だけお礼を伝え、逃げるようにマウンドへ戻ることしかできなかった。
 ボールに残った微かな熱だけが、いつまでも掌に残っていた。

 そして二度目は、中学三年の夏。
 ――中学生の僕の世界が終わった日。

 肩を壊してピッチャーを続けられなくなり、項垂れる僕に声をかけてくれた時だ。
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