ふたつの弧が、重なるとき ~元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく~【完結】
秋風の中、抑えきれなかった衝動と戸惑い
第34話
朝夕はわずかに秋の気配を感じられるようになったものの、日中の太陽はまだ夏の未練を残している。
網戸越しに吹き込んでくる風が、金木犀の香りを運んできた。
僕は薄いタオルケットを畳み、扇風機の首振りをぼんやりと目で追っていた。
今日は久しぶりに、本当に何の予定も入れていない完全な休日だ。
七月の終わりにバイトを詰め込みすぎて、図書館で倒れかけた――そして美絵に看病させてしまった――あの高熱の反省から、月に二、三度は意図的に身体を休める日を作ることにしたのだ。
静かな部屋にいると、遠くの道路を走る車の走行音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
――ブブッ。
ローテーブルの上にあるスマートフォンが、短い振動音を立てた。
正人からのメッセージだった。
『今日予定ある?』
『ないよ』と返すと、スタンプとともに次の吹き出しが飛んできた。
『コーヒー飲みたくね?』
よくわからない誘いだったが、狭い部屋に籠もっているよりはマシかもしれない。
指定された待ち合わせ場所は、大学から二つ隣の駅の改札前だった。
そこに呼び出される理由がわからなかったが、とりあえず薄手のシャツを羽織り、部屋を出た。
◇
駅の改札を抜けると、午後の日差しを避けるように日陰に立つ正人と、その隣にいるいずみが見えた。
「おっ、祥太郎! 来た来た」
「おー、いずみもいる。ていうか、なんでこの駅?」
不思議に思って尋ねると、正人はニヤリと笑って親指を後ろの商店街の方へ向けた。
「ヨッシーのバイト先のカフェ、行こうぜ!」
「……え?」
美絵の、バイト先?
「美絵、少し前からバイト始めたんだよ〜」
いずみが、丸い目を瞬かせて言う。
「ああ……全然、知らなかった」
「俺もいずみんから聞いてさー。いずみんが今日、ヨッシーのバイト先に遊びに行く約束してるって言うから、俺もコーヒー飲みたくなって誘ったわ!」
あっけらかんと笑う正人。
心臓が途端にトクトクと音を立て始めた。
彼女がカフェで働いている。その事実を知らなかったことに少しだけ胸がチクリとしたけれど。
今から「働く彼女」に会えるという予期せぬ展開に、足取りが勝手に速くなるのを感じた。
◇
連れて行かれたのは、駅前のロータリーから少し歩いた先にある、入ったことはないが見覚えのある全国チェーンのカフェだった。
ガラス張りの外観に、ダークブラウンの木目を基調とした落ち着いたデザイン。
いずみが重たい扉の取っ手を、ゆっくりと引く。
カラン、とドアの上につけられたカウベルが、控えめで心地よい音を立てた。
その瞬間、深く焙煎されたコーヒー豆と、焦がされたキャラメルのような甘い香りが、店内から溢れ出てきた。
「いらっしゃいませ」
エスプレッソマシンのプシューという抽出音や、ボサノバのBGMを縫って、鈴を転がしたような澄んだ声が耳に届いた。
間違いなく――彼女の声だ。
「美絵〜! 来たよ〜」
いずみが嬉しそうに小さく手を振る。
レジカウンターに立っていた美絵は、彼女の姿を認めて顔を綻ばせたが、後ろに続く正人と僕の姿に気づくと、目を丸くして動きを止めた。
「えっ。二人も……来てくれたの?」
ダークグリーンのエプロンをきゅっと腰に巻き、髪は後ろで一つにスッキリとまとめている。
その姿は、いつもの雰囲気とは違い、とても大人びて見えた。
「よっ! ヨッシー、様になってんなあ!」
正人は冗談めかして笑いながら、レジへと近づく。
いずみ、正人、そして僕の順で列に並んだ。
ふとカウンターの奥へ視線をやると、ドリンクを作るポジションに、僕たちと同い年くらいの男の店員が立っていた。
「どれどれ。何をいただこうかねえ」
いずみが注文を終えたあと、正人はメニューボードを覗き込みながら、大げさな身振りでふざけている。
やがて、僕の番が回ってきた。
レジ越しに向かい合うと、いつもの彼女の香りがした。
「……お疲れさま」
声を潜めて言うと、美絵は表情を緩めた。
「ありがと……来てくれて」
少し照れたような笑顔。
あまりにも可愛くて直視できず、慌てて手元のメニューボードへ視線を落とす。
「えっと……アイスコーヒーのレギュラー、お願いします」
「……かしこまりましたっ」
背筋を伸ばし、ハキハキと応えてくれた。
普段の柔らかい話し方も好きだが、この一生懸命な仕事モードの敬語も、たまらなく愛おしい。
会計を済ませると美絵は振り返り、店員同士が使う略語で、僕たちの注文内容を奥の男に伝えた。
「はーい」
彼は慣れた手つきで、プラスチックのカップに氷を入れ、エスプレッソマシンとミルクを魔法のように操る。
あっという間に三人分のドリンクをカウンターに並べた。
「森のお友達ですか? ごゆっくりどうぞ」
そうスマートに声をかけてきた彼は、いかにも「東京の大学生」といった風貌の、爽やかな男子だった。
流れる長さの髪を、ワックスで無造作かつ上手にまとめている。
「あ、どうも……」
やや気圧されながら会釈をしてドリンクを手に取り、窓際のテーブル席へと向かった。
椅子に腰掛け、ストローの紙を剥がしながら、無意識のうちにレジの方へ視線を泳がせていた。
客足が少し落ち着いたのか、先ほどの彼がレジの美絵に歩み寄り、何か軽口を叩いているのが見える。
眉を下げて笑いながら、それをあしらう彼女。
「…………」
グラスの表面に結露した水滴が、指先を冷たく濡らす。
氷がカラン、と溶けて崩れる音が、やけに耳に響いた。
「カウンターの人も、年同じくらいかな? 美絵、人見知りだけど……バイト先でうまくやってそうでよかった」
アイスカフェラテのストローを咥えながら、いずみが安堵したように言った。
「……だな」
感情を隠す余裕もなく、ただ短く返した。
顔から一切の表情が抜け落ち、声が低くなっているのが自分でもわかった。
その不自然な空気に気づいたいずみが、ハッとして言葉を止める。
僕をまじまじと見つめながら瞬きをしたあと、何かを察したように笑いを堪えていた。
(…………?)
その表情の意味はわからなかったが、今は追求する気力がなかった。
「せっかく集まったし、文化祭の出し物の話、進めとかねえ?」
正人はアイスティーを一気に半分までゴクゴクと飲んだあと、そう提案してきた。
「一年の担当になってる、屋台の屋根のデザインづくりさ。もう締め切りまであんまり時間ないし」
「あっ、それいいね! じゃあ、デザインのアイディアいくつか考えて、一年のグループチャットに送るのはどうかな?」
いずみがトートバッグからノートとペンを取り出しながら言う。
サークル内の同期は、全部で十二人だ。
全員で集まるのは難しいから、この場で案を練って共有するのは効率がいい。
「いいと思う」
「賛成」
僕と正人が賛同し、三人でアイディアを出し合い始めた。
「クラスの方も進めないとだよなー。今週集まりあるけど」
正人がペンを回しながら続ける。
「女子が先導してくれてるっぽいけど、頼りっぱなしは悪いから、俺たちもやらんとなー」
「ああ。だな……」
適当に相槌を打つものの、右から左へと素通りしていく。
僕の意識は、目の前のノートではなく、どうしても数メートル先のカウンターへと引き寄せられてしまっていた。
網戸越しに吹き込んでくる風が、金木犀の香りを運んできた。
僕は薄いタオルケットを畳み、扇風機の首振りをぼんやりと目で追っていた。
今日は久しぶりに、本当に何の予定も入れていない完全な休日だ。
七月の終わりにバイトを詰め込みすぎて、図書館で倒れかけた――そして美絵に看病させてしまった――あの高熱の反省から、月に二、三度は意図的に身体を休める日を作ることにしたのだ。
静かな部屋にいると、遠くの道路を走る車の走行音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
――ブブッ。
ローテーブルの上にあるスマートフォンが、短い振動音を立てた。
正人からのメッセージだった。
『今日予定ある?』
『ないよ』と返すと、スタンプとともに次の吹き出しが飛んできた。
『コーヒー飲みたくね?』
よくわからない誘いだったが、狭い部屋に籠もっているよりはマシかもしれない。
指定された待ち合わせ場所は、大学から二つ隣の駅の改札前だった。
そこに呼び出される理由がわからなかったが、とりあえず薄手のシャツを羽織り、部屋を出た。
◇
駅の改札を抜けると、午後の日差しを避けるように日陰に立つ正人と、その隣にいるいずみが見えた。
「おっ、祥太郎! 来た来た」
「おー、いずみもいる。ていうか、なんでこの駅?」
不思議に思って尋ねると、正人はニヤリと笑って親指を後ろの商店街の方へ向けた。
「ヨッシーのバイト先のカフェ、行こうぜ!」
「……え?」
美絵の、バイト先?
「美絵、少し前からバイト始めたんだよ〜」
いずみが、丸い目を瞬かせて言う。
「ああ……全然、知らなかった」
「俺もいずみんから聞いてさー。いずみんが今日、ヨッシーのバイト先に遊びに行く約束してるって言うから、俺もコーヒー飲みたくなって誘ったわ!」
あっけらかんと笑う正人。
心臓が途端にトクトクと音を立て始めた。
彼女がカフェで働いている。その事実を知らなかったことに少しだけ胸がチクリとしたけれど。
今から「働く彼女」に会えるという予期せぬ展開に、足取りが勝手に速くなるのを感じた。
◇
連れて行かれたのは、駅前のロータリーから少し歩いた先にある、入ったことはないが見覚えのある全国チェーンのカフェだった。
ガラス張りの外観に、ダークブラウンの木目を基調とした落ち着いたデザイン。
いずみが重たい扉の取っ手を、ゆっくりと引く。
カラン、とドアの上につけられたカウベルが、控えめで心地よい音を立てた。
その瞬間、深く焙煎されたコーヒー豆と、焦がされたキャラメルのような甘い香りが、店内から溢れ出てきた。
「いらっしゃいませ」
エスプレッソマシンのプシューという抽出音や、ボサノバのBGMを縫って、鈴を転がしたような澄んだ声が耳に届いた。
間違いなく――彼女の声だ。
「美絵〜! 来たよ〜」
いずみが嬉しそうに小さく手を振る。
レジカウンターに立っていた美絵は、彼女の姿を認めて顔を綻ばせたが、後ろに続く正人と僕の姿に気づくと、目を丸くして動きを止めた。
「えっ。二人も……来てくれたの?」
ダークグリーンのエプロンをきゅっと腰に巻き、髪は後ろで一つにスッキリとまとめている。
その姿は、いつもの雰囲気とは違い、とても大人びて見えた。
「よっ! ヨッシー、様になってんなあ!」
正人は冗談めかして笑いながら、レジへと近づく。
いずみ、正人、そして僕の順で列に並んだ。
ふとカウンターの奥へ視線をやると、ドリンクを作るポジションに、僕たちと同い年くらいの男の店員が立っていた。
「どれどれ。何をいただこうかねえ」
いずみが注文を終えたあと、正人はメニューボードを覗き込みながら、大げさな身振りでふざけている。
やがて、僕の番が回ってきた。
レジ越しに向かい合うと、いつもの彼女の香りがした。
「……お疲れさま」
声を潜めて言うと、美絵は表情を緩めた。
「ありがと……来てくれて」
少し照れたような笑顔。
あまりにも可愛くて直視できず、慌てて手元のメニューボードへ視線を落とす。
「えっと……アイスコーヒーのレギュラー、お願いします」
「……かしこまりましたっ」
背筋を伸ばし、ハキハキと応えてくれた。
普段の柔らかい話し方も好きだが、この一生懸命な仕事モードの敬語も、たまらなく愛おしい。
会計を済ませると美絵は振り返り、店員同士が使う略語で、僕たちの注文内容を奥の男に伝えた。
「はーい」
彼は慣れた手つきで、プラスチックのカップに氷を入れ、エスプレッソマシンとミルクを魔法のように操る。
あっという間に三人分のドリンクをカウンターに並べた。
「森のお友達ですか? ごゆっくりどうぞ」
そうスマートに声をかけてきた彼は、いかにも「東京の大学生」といった風貌の、爽やかな男子だった。
流れる長さの髪を、ワックスで無造作かつ上手にまとめている。
「あ、どうも……」
やや気圧されながら会釈をしてドリンクを手に取り、窓際のテーブル席へと向かった。
椅子に腰掛け、ストローの紙を剥がしながら、無意識のうちにレジの方へ視線を泳がせていた。
客足が少し落ち着いたのか、先ほどの彼がレジの美絵に歩み寄り、何か軽口を叩いているのが見える。
眉を下げて笑いながら、それをあしらう彼女。
「…………」
グラスの表面に結露した水滴が、指先を冷たく濡らす。
氷がカラン、と溶けて崩れる音が、やけに耳に響いた。
「カウンターの人も、年同じくらいかな? 美絵、人見知りだけど……バイト先でうまくやってそうでよかった」
アイスカフェラテのストローを咥えながら、いずみが安堵したように言った。
「……だな」
感情を隠す余裕もなく、ただ短く返した。
顔から一切の表情が抜け落ち、声が低くなっているのが自分でもわかった。
その不自然な空気に気づいたいずみが、ハッとして言葉を止める。
僕をまじまじと見つめながら瞬きをしたあと、何かを察したように笑いを堪えていた。
(…………?)
その表情の意味はわからなかったが、今は追求する気力がなかった。
「せっかく集まったし、文化祭の出し物の話、進めとかねえ?」
正人はアイスティーを一気に半分までゴクゴクと飲んだあと、そう提案してきた。
「一年の担当になってる、屋台の屋根のデザインづくりさ。もう締め切りまであんまり時間ないし」
「あっ、それいいね! じゃあ、デザインのアイディアいくつか考えて、一年のグループチャットに送るのはどうかな?」
いずみがトートバッグからノートとペンを取り出しながら言う。
サークル内の同期は、全部で十二人だ。
全員で集まるのは難しいから、この場で案を練って共有するのは効率がいい。
「いいと思う」
「賛成」
僕と正人が賛同し、三人でアイディアを出し合い始めた。
「クラスの方も進めないとだよなー。今週集まりあるけど」
正人がペンを回しながら続ける。
「女子が先導してくれてるっぽいけど、頼りっぱなしは悪いから、俺たちもやらんとなー」
「ああ。だな……」
適当に相槌を打つものの、右から左へと素通りしていく。
僕の意識は、目の前のノートではなく、どうしても数メートル先のカウンターへと引き寄せられてしまっていた。