雨は嫌いですか、私は好きです
 家に帰ってからも、それは消えないまま。
 玄関の扉を開けると、湿った空気が一緒に入り込む。

「ただいま」

 傘を畳みながら声を掛けると、奥から母の声が返ってきた。

「おかえり。雨すごかったでしょ——……って、ちょっと!」

 ぱたぱたと忙しない足音が近づく。
 奥のリビングから顔を出した母は、目を見開いて声を上げた。

「何それ、びしょびしょじゃない。傘持ってたんでしょ?」

 母の視線は左肩に固定されている。言われて初めて、雨音は自分の左肩を見た。
 シャツが肌に張り付いて、うっすらと肌色が透けている。

「あ……」

 一人の教室。一人の昇降口。屋根から滴る雨粒。小さな傘。貸出用の傘と、がらんとした傘立て。
 そういえば。下駄箱で靴を履き替えている間、誰かの気配を感じた気がする。
 振り返るほどではない、ほんの一瞬の違和感。
 雨の湿気のせいだと、その時は気に留めなかったけれど。
 今なら、分かる。
 多分。あの時、こちらを見ていたのは——一晴だったのだ。

(うわぁ………)

 傘を忘れたのは本当だったのだろう。
 ただ、声を掛ける相手は最初から決まっていたのだ。

「風邪引くわよ。タオル持ってきなさい」
「うん……」

 言われるがままに頷きながら、ぼんやりと思い出す。
 隣にいた人の右肩も、同じくらい濡れていたこと。精一杯身を縮めていたこと。世界が斜めだとか言って、変な顔をしていたこと。
 何処の誰かも分からなかった相手。いきなり話けてきたかと思えば、傘に入れてほしいとか言ってきた変な人。
 それなのに、何故か彼との帰り道はゆっくりと時間が過ぎていた。
 時間を忘れるくらい、楽しかったのだ。
 それらを思い出した瞬間、口元が緩んでしまう。

「何笑ってるの?」
「……別に」

 怪訝な顔をする母から目を逸らして、慌てて顔を伏せた。
 自分でも分からない。
 何故、口元が緩んでしまったのか。閉じた傘を握ったまま離せないのか。
 どうして、濡れたことよりもあの時間の方が強く心に残っているのか。

「お風呂沸かすから、早く入りなさいね」

 母がリビングに戻って行った後も、雨音は玄関に突っ立ったままだった。
 畳んだ傘を握り締めたまま、動けない。ぽたり、と先端から落ちた水滴が、床に小さな丸を作る。
 あの時間も、こんなふうに静かだった。
 たった十五分。それだけなのに。

(……明日も、雨かな)

 無意識にそう思ってしまった自分に、はっとする。
 濡れた肩よりも、胸の奥の方が熱い。
 玄関の向こうでは、まだ雨が降っていた。



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