雨は嫌いですか、私は好きです
 改札の向こうで小さくなっていく背中を見送ってから、どれくらい経ったのだろう。
 雨音はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 手には、少し前に渡された傘。それを見上げて、ようやく我に返る。

(……帰らなきゃ)

 遠くの方で電車が走り出すアナウンスが流れた。きっと、走り出した電車に一晴は乗っているのだろう。
 ここから電車で一時間も掛かるのなら、あまり遅くなってはいけないはず。
 わざわざ遠回りなどしなければ、早い内に家に帰れたというのに。つくづく一晴の考えていることは分からない雨音だ。
 それからのことは、よく覚えていない。気がつけば玄関の前に立っていた。
 傘を閉じて玄関前に立て掛ける。また明日、学校に持って行くことを忘れないために。
 鞄の中から鍵を取り出し、玄関の鍵を開けて中に入る。

「ただいま」

 誰に聞かせるわけでもない小さな声が、静かな家の中に落ちた。
 濡れた靴を脱ぎ、鞄を置き、制服の袖を軽く払う。それだけの動作をするだけなのに、妙に時間が掛かった。
 ようやく部屋に入って、ベッドの端に腰を下ろす。
 小さく息を吐くと、今日の会話が急に頭の中に蘇った。

『小森さんの隣は落ち着く』

『もうちょっと一緒にいたかった』

『俺も、無理しなくていいから』

 ぽつん、と胸の奥で何かが跳ねた。

(……なんで)

 あんなふうに、当たり前みたいに言えるのか。
 あんなふうに、迷いなく笑えるのか。

「……意味、分からない」

 眼鏡を外しながら小さく呟く。目の前の光景が輪郭を失い曖昧になった。
 分からないはずなのに。
 胸の奥が、さっきから妙に落ち着かない。
 とくん。
 少し遅れて、心臓がまた大きく鳴った。

「……変な人」

 ぽつりと呟いたその声は、何処かさっきよりも弱かった。
 ベッドに倒れ込むように横になる。天井を見上げながら、ふと目を閉じた。
 そうすると、さっきの笑顔が浮かんできてしまう。
 傘を少し傾けていた横顔。
 クラスで見せるものとは違う笑顔。
 あの言葉。

『俺も、無理しなくていいから』

 クラスのムードメーカーのような存在で、皆の人気者である一晴。
 そんな一晴が一抹に見せた無理している表情が、やけに鮮明に蘇った。

「……だからって」

 小さく呟いた声は、途中で消えた。その先の言葉が見つからない。
 代わりに胸の奥で、とくん、とくん、と、さっきよりも少し速い心臓の音だけが鳴っていた。
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