騎士団長は奥さんの愛を取り戻したい。

たぶん一生

 フィリアの答えを聞いたグレンは、喉の奥を引き絞られるような痛みを耐えた。そうして力なく頷く。

「わかった」
「……わかったって……それじゃあ、別れてくれるの?」
「本当は嫌だけどね」

 重たい雰囲気が苦しすぎて、ごまかすように笑ってしまう。だから本気には見えなかったのかもしれない。

 フィリアは、素直に了承したグレンをやはり訝しむように見つめてきた。グレンはその視線から逃げるように「少し待ってて」と部屋を後にすると、準備していた書類を手に戻る。

「はい。離婚届と、財産分与の明細。こっちはエーリヒの養育費と君への慰謝料だ。相場を調べて、多く見積もってるけど、足りなかったら言ってくれ。君とエーリヒのためなら、いつでもいくらでも払うよ」
「ちょ、ちょっと待って」

 次々と現れる正式な書面を前に、フィリアは慌てた。

「こんなもの、いつの間に用意したの?」
「昨日だったかな。優秀な執事がついてくれててよかったよ」
「……本当に、別れてくれるの?」

 これでもまだ信じてくれないのか。フィリアは戸惑いながらグレンを見上げてくる。ああ、やっぱり可愛いな、と参りながらグレンは両目を細めた。

「うん」

 胸が痛かった。

「…………そう」

 フィリアは難しい顔をしたまま、書類に目を通し始めた。そうして、その額面を確認したのか、大仰に目を丸くする。

「ね、ねえグレン」
「ん?」
「あの、私、こんなにいらないわ。ふつうに生活できれば、それで。あと、この土地? とか……権利? とか。あっても、よくわからないし」
「ああ、それなら大丈夫。君は何もしなくて良いように手配してあるから。名義を書き換えただけだよ、定期収入だけ受け取れるように。ほら、病気とか天災とかさ、ないに越したことはないけど、何かはあるかもしれないだろ? そのための保険だと思って、受け取っておいて」
「……でも。養育費だってこんなに」
「エーリヒのためだ」

 グレンがこれだけは譲らないと強く言えば、フィリアは、困ったようにもう一度書類を見下ろした。それでも迷っている様子のフィリアに、グレンは、最後の一手を詰める。

「承諾してくれないなら、離縁も白紙に戻すよ」
「…………わかったわ」

 フィリアが頷き、とうとう離婚が決まってしまった。
 グレンはとたん泣き出したいような気分になった。我ながら未練たらしい男だった。すでに後悔しかけているなんて。

 けれど対面するフィリアはもう気持ちに区切りをつけたのか。さっさとテーブルの上で書類を整え、立ち上がった。

「荷物をまとめたいから、少しだけ時間をくれる? 屋敷の皆にも挨拶したいし」
「え? ……ああ、もちろん」

 寝癖もついて、おまけに寝巻き姿。最後がこれなんて、あまりにもカッコ悪すぎた。自分には、お似合いなのかもしれないけれど。

「……ねえ、グレン」
「ん?」

 チェストを開いて、中の物を取り出しながら、フィリアはこちらを見ずに言った。

「エーリヒの親権だけど」
「うん」
「本当に、私でよかったの?」
「え?」

 グレンは首を傾げた。

「だってエーリヒは君が好きだろう? 引き離すなんて出来ないよ」

 それはあまりにもかわいそうだ。グレンは、エーリヒとフィリアには、一緒にいて欲しかった。

 実を言うと、グレンには、母親がいなかった。
 物心ついた頃から、父と、厳格な祖父母のもとで厳しく育てられて──だから反発してこんな奔放な性格になってしまったのかもしれないけれど──昔から、母という存在に興味を持っていた。

 いったい、どんな人なのだろうと。

 母一筋だった父は、祖父母にいくら小言を言われても再婚はしなかったため、グレンは結局一人っ子のままだった。

 だからグレンは、母親というものを知らないままに育った。

 それを教えてくれたのは、フィリアとエーリヒだった。一年近くも身体の変化に耐え、命懸けで産み落とし、無条件の愛を注ぐフィリアを見て、グレンはやっと母親を知った。とても強くて、だけど自分が守らなければいけないと思った。

 貴族家では普通、子供の世話は乳母がするものだが、下町育ちのフィリアにそんな常識はもちろんなく。乳も自ら与え、寝ずの番も買ってでた。

 小さな手を母に伸ばすエーリヒを見て、どうしてか切なく羨ましい気持ちになったことを覚えている。

 フィリアはエーリヒを愛している。

 グレンには、二人を引き離すなんて選択、端からなかったのだ。

「……でも、エーリヒはあなたのことも好きだわ」

 片付けの手を止めてぽつりと言ったフィリアに、グレンは苦笑する。気を遣ってくれているのだろうか。

「ありがとう。僕もエーリヒが大好きだよ」
「……そうじゃなくて」
「?」

 どうしたのだろう。なにか言いたげに、フィリアがこちらを向く。

「なに?」
「……なんでも、ない」
「その顔はなんでもないことないだろ。どうしたの?」
「…………私には関係ないことだもの」
「僕のこと?」

 フィリアは怒ったように眉間に皺を寄せたまま、グレンを見つめた。そうしてやっぱり怒ったように、投げやりに、私はどうでもいいんだけど、という風に口を開く。

「ちょっと、跡取りのこととか、気になっただけよ」
「……え?」

 跡取り?

 思ってもいなかった単語に、グレンは一瞬ほうけてしまう。

「だって、大きな家は存続させなくちゃいけないでしょ。領地のことだってあるし」
「……もしかして、ずっと気にしてくれてたの?」

 グレンの妻として、フィリアは家のことも積極的に学んでくれていた。
 最低限の社交やマナーだけでいいとグレンが甘やかそうとしても、フィリアは「それでいいわけがない」と、家のことも知ろうとしてくれていた。──グレンとずっと生きてくれるつもりだったからだ。

 そうして今別れようとしている時でさえ、そんなこと気にかけてくれて。

 グレンは嬉しいのと悲しいのでどうしてか笑ってしまい、さらにフィリアに睨まれた。しまった、と慌てた。せっかく穏便に終わりそうだったのに。

 最後の思い出が喧嘩なんてごめんだと、グレンはあせって立ち上がる。

「ありがとう。心配してくれて。でも、そのことなら大丈夫だよ。遠縁の親戚もいるし、どうにだってなる。君からエーリヒを奪おうだなんて考えてないから、安心して」
「……そ。なら良かったわ」

 フィリアは心配して損したとばかりに、またくるりと背を向けてきた。ああ、僕はたぶんこの子が一生好きなんだろうなあ、と、グレンは亡き父が再婚しなかった理由を身をもって理解した。

「フィリア」
「……なに?」
「ありがとう。約束を守れなくて、ごめん」

 ──一生大切にする。

 そう言って彼女を抱き上げたあの日が、今は遠すぎた。
 同じ瞬間を思い浮かべてくれたのか、フィリアが、「嘘つき」と小さくつぶやく。

 その涙をぬぐうことすら出来ないのが、ひたすらに苦しかった。
 


 
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