騎士団長は奥さんの愛を取り戻したい。

家族

 ◇ ◇ ◇

 どうしてこんなに涙が止まらないのだろう。荷物の整理をしながら、フィリアは、次から次にあふれてくる涙を手の甲や平でぬぐった。

 やっと離婚を承諾してもらえたというのに、胸は苦しく、悲しくて仕方がない。ほっとしたのか、それとも悔しいのか、自分の気持ちがわからないまま、堰を切ったように流れてくる涙をひたすらにぬぐう。

(グレンの馬鹿)

 腹立たしさと安堵したのと、これからの不安と。──いろんな気持ちがせめぎ合って胸が詰まる。それもこれも全ては彼のせいだ。だからどうしたってモヤモヤは晴れない。その上()()あの夜を思い出してしまって、フィリアは両目をきつく閉じた。その端から、また新たな涙がこぼれる。どうして──

 ──どうして浮気なんてしたの。

 あんなに拒んでいたのに。グレンは今日突然、すんなりと離婚を受け入れてくれた。過ちを認めたということだ。あの美しい女性と一緒になるつもりなのかもしれない。だから後継のことだって気にしなかったのかもしれない。──でも、どうでもいい。フィリアは歯を食いしばる。あんな人、もうどうだっていい。

(好きにすればいいのよ)

 大嫌い。

 慰謝料なんて要らなかった。ただ、裏切らないでいてくれれば、それでよかったのに。

 片付けの手が止まる。

(……私じゃだめだった? 私には知識も教養もないから……グレンは物足りなく思っていたの?)

 だからあの女の人がよかったの?

 家でも、家族で出かける時も、あんなに楽しそうにしてくれていたのに。全ては、義務からくる演技だったのだろうか。

 フィリアはとうとうしゃがみ込んで、両手で顔を覆ってしまう。しゃんとしたいと思うのに、今はどうしたって無理だった。くぐもった声で嗚咽を漏らす。

 グレンは先刻、エーリヒを見てくると言って部屋を出ていった。フィリアが泣いているのに気付いたからかもしれない。気まずそうに静かに部屋を出たグレンは、今頃エーリヒと別れの挨拶でもしているのだろうか。──聡い子だけれど、エーリヒは、理解出来るだろうか、なんと思うだろうか。フィリアは鼻を啜って涙を押しとどめた。

「そうよ、私は母親なんだから」

 悲劇のヒロインみたいに泣いている場合じゃない。そんな役割は願い下げだ。

 フィリアがこの家に嫁ぐ前から親身になってくれていた執事も、家政婦長も、今朝戻った自分とエーリヒの無事を喜んでくれていた。そうして──事情を知っているからだろう──「ゆっくりお考えください」と、家政婦長は、離婚を勧めも止めもせず、温かい紅茶とフィリアの好きだったお菓子をそっと用意してくれた。美味しくて、涙が出た。

 優しくて明るい人たちに囲まれた楽しかった結婚生活。

 それを壊したグレンが許せない。

「……だいきらい」

 もう一度だけ呟いたフィリアは、目元をぐしぐしと擦って、片付けを再開した。



 ◇



「……いやです」

 眼前で両膝をついた父に、エーリヒはきっぱりと言い放った。

 息子の思いがけない反応に、グレンはうろたえる。

「嫌って、エーリヒ、でも、あの」
「ぜったいいやです。おとうさまは、おかあさまを好きじゃないんですか、ぼくはいやです」

 頭を振り、後退り、エーリヒは全身でグレンを拒絶した。細く薄い眉を、わずかに寄せる。

「おとうさまもおかあさまも、仲直りのお話をしてたんじゃないんですか?」
「してたよ。でも、ダメになったんだ。だから」
「いやです!」

 エーリヒのいつにない癇癪に、グレンは驚いた。
 これまでにも、食事の好き嫌いや就寝時間を過ぎても眠ろうとしないなど、多少のわがままはあったけれど──ここまで激しいものは初めてだった。

「エーリヒ、落ち着いて。僕の話を聞いて」
「聞いたら仲直りしてくれるんですか?」
「……もうお話し合い終わったんだよ」

 グレンが言えば、エーリヒはキュッと唇を引き結んだ。グレンに似た黒い瞳が、わずかに滲み始める。

(どうしよう)

 息子の思わぬ抵抗に、グレンは頭をかいた。この調子では、フィリアが言い聞かせても同じことだろう。

 先刻──グレンはフィリアの部屋を後にした。泣いている彼女を見るのが辛かったのもあるし、何よりフィリアは自分にそばにいて欲しくはないだろうと思ったからだ。
 
 そうしてエーリヒの部屋を訪れ、乳母には席を外してもらい、グレンは、エーリヒと離れていた間のことをそれとなく話していた。エーリヒの日常のことも聞いた。マリさんとはどうだとか、友達は出来たかだとか。(あの青年のことは怖くて聞けなかったが)

 そうして、これからは別々に暮らすことになったとようやく伝えたところだった──のだが。


「いやです!」
「エーリヒ……」

 滅多に会えなくなるけれど、困ったことがあればいつでも自分を頼るように、自分の名前を出すようにと、そう教えた矢先──グレンは、まだ幼い我が子に言葉を遮られたのだった。

「ぼく、おかあさまと話してきます」

 意を決したように言ったエーリヒが、脱兎の如く部屋を飛び出していく。
 グレンは慌てて追いかけた。

「待ってエーリヒ!」

 長い廊下を駆けるエーリヒの足は早かった。もともと運動神経がいいとは思っていたが、舌を巻きながら、グレンはエーリヒを追う。

「エーリヒ!」

 階段を駆け上がるエーリヒを、グレンは段飛ばしで捕まえた。細い肩に手を掛けて、後ろから抱き込む。

「エーリヒ、お母さまは今、片付けで忙しいから」
「いやです、はなしてください……!」

 グレンに肩を掴まれたエーリヒが叫ぶ。と、困り果てたグレンの耳に、慌ただしく扉が開く音が聞こえた。

「エーリヒ! どうしたの?」

 上階の部屋から、フィリアが出てきたのだ。階段の途中でグレンに抱きかかえられて暴れている息子を見て、悲鳴をあげる。

「二人とも、なにしてるの!」
「なにって」
「おかあさま!」

 グレンが手を緩めたとたん、エーリヒは母の胸に駆け込んだ。フィリアがしっかりと抱きとめるのを見届けながら、グレンの胸は罪悪感に傷んだ。──フィリアがまだ、泣いていたからだ。
 目の端に残る涙の跡を見つめながら、グレンはフィリアと息子に向き直った。

「……フィリア」
「なにがあったの?」
「おかあさま、お別れするってほんとうですか?」
「え?」

 必死に母にしがみついて言ったエーリヒに、フィリアが目を瞬かせる。そうして、グレン同様困ったように息子を見つめた。

「エーリヒ、あのね」
「嘘ですよね。だって……だって、おとうさまはおとうさまだから、えっと、一緒にいないと」

 自分の気持ちを表す言葉をまだいくらも持たないエーリヒは、代わりに大粒の涙をこぼした。ほろほろ流れる透明の雫が、エーリヒの柔らかな頬を伝う。

 立ちすくむことしか出来ないグレンとは裏腹に、フィリアは場にしゃがむと、安心させるようにエーリヒを覗き込んだ。優しい手つきでその涙をぬぐってやる。 

「あのねエーリヒ、一緒に暮らさなくたって、お父さまがお父さまであることに変わりはないの。お父さまはずっとあなたを愛してるんですって」
「でも、一緒に眠ったり、遊んだり、出来なくなります」
「その分お母さまがそばにいるわ」
「……おかあさまは寂しくないんですか」
「ええ。エーリヒがいてくれるもの」
「……でも、じゃあどうしておかあさまも泣いているの、いやだからじゃないの?」

 フィリアは言葉に詰まり、けれどすぐに言った。

「違うわ。さっき片付けをしてたらこけちゃったのよ。エーリヒも怪我したら痛くて泣いちゃうでしょ?」
「……うん」
「ね。お母さまは大丈夫」

 フィリアは言いながらエーリヒの頭を撫でた。

「お屋敷の皆にお礼を言いましょう。また会いたくなったら遊びにきたらいいんだから」
「……でも」
「マリさんやアレフさんも、エーリヒが帰ってくるの待ってるわよ。ほら、新しくお友達になったあの可愛い子も」
「……わかりました」

 フィリアは息子をよしよしと抱きしめた。
 グレンはやっぱり、そんな二人に近づくことが出来なかった。


 そのまま二人は荷造りに入った。それぞれに必要なものをまとめ出し、使用人たちも手伝い始めて屋敷はにわかに騒がしくなる。

 グレンはそんな喧騒を耳にしながらのろのろと身支度を整えた。まるで現実のこととは思えず、荷を詰め終えたトランクが屋敷から運び出されるのを、バルコニーからぼんやりと眺める。時刻は正午を過ぎようとしていた。

 と、一台の馬車が通りの向こうからこちらに近づいていた。紋章こそないが、いやにしっかりした馬車だ。
 高級住宅街の敷地は一戸一戸が極端に広い。──その通りを走ってくるということは、目的地はグレンの屋敷だ。けれど今日は訪問の予定はない。

(こんな日に誰だ?)

 訝しんだグレンは急いで階下へ降りると、執事を呼んだ。

「誰か来る予定はあったか?」
「それが、私どもも聞いておりませんで」

 戸惑う執事を遮るように、エントランスが叩かれる。
 フィリアたちを送る馬車を出す用意をしていたため、正面扉も、門扉も開いていたのが仇となった──。

「御機嫌よう、私のグレンさま」

 扉が開き、聞き覚えのありすぎる声が響いて、グレンは怒りでどうにかなりそうになった。そこに立つ着飾った女、エリザベトとは視線すら合わせず、フィリアたちの荷を運んでいた男性使用人に指示を出す。

「不法侵入者だ。追い出せ」
「まあひどい。あなたに素敵な情報を持ってきたのに」

 聞く価値もない。
 グレンは「早くしろ」と使用人に一瞥をくれて、フィリアたちに会わせないようにしなければ、と二人を探した。
 けれどエリザベトもしつこかった。

「ねえ、この人誰だと思う?」

 連れていた従者らしき黒髪の男を見せつけるように前に出す。やけに顔の整った男は、こんにちは、と場違いなほどの笑顔を向けてきた。

 グレンはそれを無視して、階段を上がろうとした。その背に、エリザベトの挑発的な、大きな声がかかる。

「彼、街の劇団で俳優をしているの。エーリヒ君の本当の父親よ」

「……」

 ──理解が出来なかった。
 どうしてこの女は、そうまでして自分に執着をしてくるのだろう。
 グレンは無表情で振り返る。

 こうなった以上、ルノア共々社会的制裁を与えようとしていたが──それだけではグレンの気はすまなくなった。子供まで巻き込むなんて。

「エリ──」
「嘘よ!」

 と、タイミング悪く。エリザベトの発言を耳にしてしまったらしいフィリアが階段の途中で叫んだ。グレンははっとして振り返る。フィリアがまた泣き出しそうな顔で、そこに立っていた。 


 
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