あのころの風景
運命
季節はまた巡り行く。うつろうように静かに、足音さえ立てずに。
ギャラリーのオーナーから何ら連絡はなく、また夏がやって来ていた。
忘れられない景色を、あのころの風景を幾度も彷徨う。そしていつまで彷徨えばいいのだろう。彼の顔も声も体温も、もう薄れてきている。
記憶に残るのはあのころの風景だけだ。でも、その風景さえ色彩が薄れて見える。
このまま想い出になるのかな……。想い出にしたくはないし、想い出なんて欲しくもない。
私が欲しているものは、天然色に彩られた彼とあの風景なのだと改めて気付いていた。
そんな季節の狭間の中、アトリエに電話の着信音が響いた。開け放していたバルコニーから流れゆく雲の形を追っていた私は鳴り響き、点滅する幾つかの色を見つめながら受話器を上げた。受話器の向こうから聞こえて来たのは、聞き覚えのない男性の声だった。しかし、その男性が自分の名とギャラリー名を名乗ったとき、私の心拍数は跳ね上がった。
「ご無沙汰して申し訳ございませんでした。あの風景寫眞のカメラマンの居場所がやっと分かりましたので、貴女に伝えたくて……」
オーナーの口調も興奮していた。そして私も驚きと嬉しさを隠すことなく、もどかしい思いをオーナーに伝えていた。
「彼は何処に? 何処に居るのですか? 今すぐにでも会いに行きたい」
「……。仏蘭西、二日前にパリの街に十何年かぶりに戻って来たと、知人から連絡が入りました。その前は北極やグリーンランドでアイスブルーの写真を撮り続けていたそうです。通りで連絡が取れなかったはずです」
連絡さえ取れていたなら、北極でも南極でも何処にでも私は向かっていただろう。私のそんな気持ちを見透かしたように、オーナーは受話器の向こうでクスリと声を立てていた。
「パリの何処に居るかは分からなかった。けど、貴女なら分かるはずだと思っています。さぁ、会いに行きなさい。運命は変えられるものです」
「はい……。ほんとうにありがとうございます。飛行機のチケットが取れれば今夜にでも立ちます」
きっと彼は私たちが過ごしたあの二つのアパートメント、モンマルトルの丘、サクレ・クール寺院の階段辺りを彷徨っているだろう。
そう。あの人もきっとあのころの風景を、あの頃のクレパスで色付けたような色彩を取り戻したいと思い、仏蘭西に戻って来たのだ。
そんなふうに思いを巡らせていると、オーナーが伝え忘れていたように慌てて呟いた。
「そうそう。あの作品のタイトルが知人を通じて分かりました。伝えなければと思っていたのに……」
「あの写真の作品名ですか……」
「はい。作品名は『宿命』とのことでした。私はますます興味が湧いたのですよ。あの写真が何故『宿命』と云うタイトルなのかと」
オーナーは一度、言葉を区切り躊躇うように尋ねてきた。
「貴女にその答えが分かるのでしたら教えていただけませんか」
「……」
束の間の沈黙を必要とした私は、自分なりの考えを纏める。
魂の半分を共有した彼の想いも絡めるように。
「……先程、オーナーが呟いた言葉にヒントをいただきました」
「え? 私は何か言ったかな」
「はい、運命は変えられるものと……。運命ってその人の願望、熱望によってもたらされる巡り合いだと思います。芥川 龍之介の言葉でも、運命は偶然よりも必然であると。そう、人の意思で運命は変わり定められていくものだと。でも、でも……宿命は変えられないもの」
ね、そうだよね。きっと私とあなたは宿命として出逢い、魂を分け合ったと感じているのよね。
「私と彼は宿命で結ばれているのです。パリで再会した私と彼は偶然ではなく必然だった。そして運命を自分たちで手繰り寄せるのも宿命だった……。だから、そんな想いであの風景寫眞を『宿命』というタイトルにしたのだと思いました。私はオーナー様や知人の方のお力添えに感謝しています。運命を変えてくれたこと、宿命に導いてくれたことを」
「……宿命か。きっと貴女の彼は、いつか別離があったとしてもこうなることが分かっていたと……。いやいや、なんともロマネスクな物語を聞いた気分になったよ」
「あの写真が様々な人を巡ってオーナー様のところにやって来た。そして私が懇意にしている画廊のオーナーからチケットを渡され、作品を見ることが出来た。すべてが必然だったのですね……。そして運命の輪が、止まっていた歯車が動き出し、運命を変えていく。これが宿命だったと私は信じます」
「ああ、その通りだね。私が貴女に声を掛けたのもそうだ。いつもならやり過ごす小さな出来事なのに、あのときは何故だが貴女の後姿に声を掛けずにいられなかった。人生とは不思議なものだな……」
ギャラリーのオーナーは日本に帰るときが来たなら、是非、私のところへ二人で来て欲しいと言った。そのときは二人の出逢いから今までのことを酒でも飲みながら聞かせて欲しいと笑い、電話をそっと切った。
ツーツーツーという不通音は、何故かしら私の胸に心地良く響く。
気を取り直し、深呼吸を幾度かして受話器を置いた。
さぁ、善は急げだ。成田空港発でも羽田空港発でもどちらでも構わない。兎に角、今日のうちに日本を出て翌朝までにはCDG空港に着きたいと思っていた私は、ネットを駆使して空いている便を探した。彼のことだもの。何時何処かにフラリと出ていくやもだ。
あった!! 見つけた!!
深夜一時の羽田空港発、七時五十五分CDG空港着のエールフランス航空便が。
すぐにお財布からクレジットカードを取り出し、カード番号を入力する。唯一空いていたファーストクラスを何の躊躇いもなく予約し、暗証番号を叩き込んだ。
ふと時計を見遣ると、針は十四時を指していた。仏蘭西との時差は八時間。
ギャラリーのオーナーの知人は、早朝にも関わらず連絡をしてくれたのだと思うと感謝の念が沸いてきた。空に向かい、ありがとうと心の中で呟いた私はすっくと立ち上がった。
私の自宅マンションから羽田空港まではタクシーで三十分。準備する時間は余裕だったが、あえて着替えなどだけをリュックに詰め込む。かさばる日用品などは現地調達で構わない。ホテルも着いてから探せばいい。身軽な形で行きたい。
だって……、目的は彼に逢うことだけだから。
私は画廊のオーナーや友人、知人に「私事でパリに向かいます。帰国は未定です」と、メール連絡をしてから準備に取り掛かった。
深夜零時、私は羽田空港に到着していた。
タクシーの中から見上げた夜の月は柔らかな幻のようだった。
私は何処に向かうのだろう? 彼と再会して、それからは……? どうしたいの、何がしたいの? と、少しの不安が脳裏を掠めていた。
でも空港に着くと、そんな不安は何処かに消し飛んでいた。
夜の空港はどこかしら物憂げで、それでいて希望に溢れたような乗客が集まっていた。光の密度に溶け込むように。
暗闇の中に点滅する飛行機のランプ。数え切れない滑走路の誘導灯ライトは宝石のようだ。その散りばめられた宝石の光の中を飛行機が行き交い、光が混じりあう。
飛び立つ場所は違っても、降りるのは同じところ……。そう、同じように明日の朝の光の中で私は彼と再会している。
それからなんて考えなくていい。きっと私と彼の到着点は同じなのだから。流れに任せればいい。時の流れも、水の流れも風の流れも行き着くところは同じなのだから……。