あのころの風景
宿命
時差を超えての朝七時五十五分。エールフランス航空便は定刻通りにCDG空港に翼を降ろした。
小さなリュックひとつで来た私はバゲージエリアに寄ることもなく、入国と税関検査を早々に済ませてタクシーに乗り込んだ。
CDG空港からサクレ・クール寺院までは約三十分。到着するころには寺院もドームも営業している。
先ずはサクレ・クール寺院を彷徨い、次はモンマルトルの丘。そしてテルトル広場にモンマルトル美術館。もしかしたらお気に入りのムーラン・ド・ラ・ギャレットで遅い朝食を摂っているかもだ。
何となくだが、十何年かぶりに戻って来たパリの街を満喫しながら、あちこち歩きまわっていると思えた。戻って来てからまだ四日目。初日は生活拠点の確保と機材の片付けをしただろう。次の日は挨拶や連絡、身の回りを片付け、三日目からパリの街をうろつき始めたと推測した。
きっと生活拠点は私たちが過ごしたボンヌ・ヌーヴェル通りにあるボンヌ・ヌーヴェル駅近くのアパートメントだろう。夕方近くまで彼の姿を見つけることが出来なければ、取り敢えずボンヌ・ヌヴェル・ホテルに泊まることにしよう。翌朝から、私たちが過ごした二つのアパートメント近くも探したかったからだ。
懐かしいな……。ル・グラン・レックスで映画を見たり、少し先にあるZAZZAではピザを何枚食べれるかなんてこともした。
ノール高速道路から市街地へと降りて、十八区を目指して走るタクシーの車窓を見つめながら、ふとそんなことを思い出していた。
ほどなくしてタクシーはサン・ピエール広場通りで停車した。運転手のカルディナル・デュボア通りまで走らせるかい? と、言う問いにかぶりを振り、車を降りた。
サン・ピエール広場の前に立ち、サクレ・クール寺院を見上げる。たった七段の階段を登り、子どもたちの歓声が上がる回転木馬を横目に、辺りを見廻しながらゆっくりと歩き、サクレ・クール寺院に続く階段をひとつひとつ登っていく。相変わらず観光客でごった返してはいるが、訪れている人たちの笑顔を見ていると気分がいいものだ。
息を切らしながらも、私は柔らかな笑みを浮かべたままカルディナル・デュボア通りに辿り着いていた。ふぅ……と、息を弾ませながら周りの観光客と同じように後ろを振り向くと、視界一杯にパリの眺望が鮮やかに飛び込んできた。
色鮮やかな街に風が舞い、セプテンバーブルーの空が辺りを覆っている。散らばった写真のようにひとつひとつの記憶が脳裏に蘇ってくる。思わず歩道の柵に寄りかかり、物憂げに辺りを見廻した。
何故だかは分からないが、私には確信めいたものがあった。
それは……。どれほどの時間が経とうとも、どんなふうに彼が変わっていようとも、私には分かる。何千、何万という人混みの中でも彼を見つけることは必ず出来るはず。何の根拠もないことだけど、それが宿命だと感じていた。
そんな想いを察したのか、心の何処かで密やかな声が呟いた。
ここには居ないと……。きっと別の場所だよと第六感が教えてくれた。
だとしたら、このままサクレ・クール寺院に行っても意味がない。時間が勿体ないだけだ。きっとモンマルトル美術館界隈にも居ないだろう。と、なるとテルトル広場からトロワ・フレール通りから下へ、ジュテームの壁からアベス駅辺りに行ってみよう。
そんなふうに頭の中を整理しながらぼおっとしていると、観光客のカモだと思われたのだろう。いきなり目の前に花が差し出された。
「Cela te va très bien」
無理矢理ミサンガを手首に巻き付けてぼったくる観光客相手の商売と同じで、言葉巧みに似合っていますよ、キレイだと言って花を売りつけてくる輩から花束を押し付けられそうになった。相変わらず詐欺商売にスリなどは横行しているのだと思いながら、努めて冷静に花束を押し返した。
「pas un touriste。Résidents」
十何年前のね……と、心の中で呟きその場を後にした。
さて、第六感に従うなら次に行く場所はテルトル広場だ。サン・テルトル通りからサン・ピエール教会を右手に、石畳と白い壁が続く坂道を歩く。距離的には百五十メートルくらいだ。ノル・ヴァン通りとテルトル広場が交わる路地に来て閉口した。
十年前とは比べ物にならないほどの人、人、人。ひしめき合う熱気とうねる波のような喧騒の広場は、もはや私と彼がのんびり散歩に訪れていた場所ではなかった。
私も彼も人混みや騒がしい場所が好きではなかった。何より心が落ち着かない。
風が舞う音や囁き合う葉擦れの音。木漏れ日の溜息に水のせせらぎ。耳を澄ませば、自然の声が聞こえてくる。そんな静寂に身を置ける場所が二人とも好きだった。
この喧騒の中に彼が身を置くことはないと感じた。ひとつひとつ、彼との距離が縮まってきている気がする。こうしたしらみつぶしでもいい。あてもなく彷徨うより、可能性のある場所をひとつずつ潰していく方が効率的だと思えた。
踵を返し、ジュテームの壁のあるアベス駅近辺の街を歩いてみた。幸いなことにアベス駅周辺は細い路地に行き止まりの道も多く、歩きにくい点もあって人通りはまばらだった。
あちこち見廻しながら、そして懐かしさを感じながら歩いていると、何時の間にかピガール広場へと辿り着いていた。
少し歩き疲れた私は噴水の縁に腰掛ける。と、同時に鳩が寄ってきた。ちょうど目の前にマーケットがあったので、そこでミネラルウォーターと小さなパンを買い、再び噴水の縁に腰を下ろす。喉を鳴らし、渇きをいやす。パンも細かく千切りながら鳩と一緒に食べながら束の間の休息を楽しんだ。
大きく手足を伸ばし、鳩に彼が何処に居るか知らない? と、冗談交じりに問いかけると、鳩は首を何度も傾げたあと、こっちだよ、ついておいでと言わんばかりにグレヴァン美術館とショコラ博物館方面へと羽ばたいた。
え? そっちは彼が住んでいたグラン・ブールヴァール駅の方向よ……。思わず息を呑み、鳩が青い空を何度も旋回しセーヌ川へと続く彼方へ飛び去る姿を見送った。
もしかしたら……まだ生活拠点が見つかっておらず、ホテルに泊まりながら二区界隈でアパートメントを探しているとか? だとしたら、私が住んでいたサンティエ通り。もしくは彼のアパートメントがあったクロワッサン通りのどちらかだ。
ここまでくると自分の第六感と鳩の行動を信じるほかない。きっとそうだ。二人で歩いた街、それは私たちの幾つもの想い出の断片。辿って行けば、きっと彼はそこにいる。宿命で結ばれた記憶の場所の何処かに……。
記憶に紡がれた場所。向かう途中、何処で擦れ違うかも知れない。それが偶然であれ、必然であれ、宿命となる再会になるのだ。地下鉄やバスを使うより、歩いたほうがいいと感じた私はボンヌ・ヌーヴェル通りへと向かい歩き始めた。
そうだ、彼は地下鉄の雰囲気が好きだったな。待ち合わせをしている人たちの様子や出会えたときの喜ぶ笑顔を見るのが好きだと言っていた。
誰もいない地下鉄のホームの独特の雰囲気を写真に収めていたときもあった。駅も場所によっては危険なところもあるから、行って欲しくないと口喧嘩もした。
きっと今でもパリの地下鉄は治安が良いとは言えないだろう。でも今は日中だ。明るいうちならジャンキーもいない。
地下鉄の改札辺りを探してみても大丈夫だろう。ひょんなところにいるかも知れないから。
ピガール広場からボンヌ・ヌーヴェル駅やサンティエ通り、クロワッサン通りまでは約二キロ。ゆっくり歩いても三十分だ。サン・ジョルジュ広場に向かい、そこからシャトーダン通りを抜けてフォーブール・モンマルトル通りを突っ切って歩いていく。
近くにあるノートルダム・ロ・ロレット駅を覗いて見ようかと考えたが、観光客の多い駅にはいないだろう。
九月のパリの気温は二十二、三度だが、さすがに歩き詰めだと汗が額に浮かんでくる。小さなリュックも今となっては邪魔に思えてきた。
それでも何とかポワッソニエール通りまでくると、グラン・ブールヴァール駅の入口が見えた。何気なく腕時計を見遣ると針はちょうど十二時を指していた。地下鉄入り口前にあるカフェが目に留まったので一旦、ランチにしようとお店にふらりと立ち寄った。
内装と照明が素敵と思えるお店だったが、ゆっくりと食事を楽しむ余裕がなかった私はチーズリゾットと生ハムのサラダにシトロンディアボロを流し込むように食した。
そんな私を怪訝そうに見ていた男性スタッフにJe suis presséと、ウィンクして早々に会計を済ませてお店を後にした。
カフェを出ると、はす向かいにグラン・ブールヴァール駅の四番出入口がある。彼がもともと住んでいたクロワッサン通りはこの駅の、この出入口がいちばん近い。私のアパートメントは一駅先のボンヌ・ヌーヴェル駅からすぐのサンティエ通り。
地下鉄の治安的には圧倒的にグラン・ブールヴァール駅のほうが良好だ。でも彼は、私が利用するボンヌ・ヌーヴェル駅は危ないからと、日が暮れてからは一緒にボンヌ・ヌーヴェル駅で降り、私をアパートメントまで送り届けてからクロワッサン通りのアパートメントまで帰っていた。今更ながら大切に見守ってくれていたのだと思える。
そんな思い出を振り返りながら、グラン・ブールヴァール駅の階段を少し早足で駆け下りていく。思っていた通り、ジャンキーや酔っぱらいの姿はなかった。ただ、相変わらずの異臭がする。それでもボンヌ・ヌーヴェル駅よりは遥かにマシだ。観光客の姿もそこそこあり、以前に比べて清潔感があった。
改札口近くに立ち、辺りを見渡す。変わっていない……と、思った。低い天井に薄汚れたタイルに落書き。ノスタルジックさえ感じるパリの地下鉄は、一昔前の東京都内の地下鉄みたいなものだ。地上は洗練された佇まいと仏蘭西の歴史を物語ることのできる古き良き街並みなのに、地下鉄だけはどうにもいただけない。
改札口の壁に寄りかかり、しばらく発着する電車から乗降を繰り返す人々の波を眺めていると、ふいに涙が滲んできた。
ねぇ、いったい何処に居るの?
私はあなたに会いに来たのよ。
私は今、ここであなたを待っているの。
待ち合わせをしていたあのときみたいに……。
耳に届く地下鉄の轟音が更にノスタルジーな思いに拍車を掛けてくる。滲んでいた涙は堰を切ったようにポロポロと溢れ出てきた。
バカ……。私ったら何、少女みたいなことしているのよ……。涙を手で拭い、もう一度前を向くと視界がセピア色に染まっていた。
歩き詰めだったから貧血でも起こしたのかなと思ったが、気分が悪いとか冷汗が出るとかの感覚はない。ただ、コンコースを歩く人たちや周りの流れが何故だかスローモーションのように思えた。
電車の轟音も人々の喧騒も聞こえてこない。切り取られたような空間に一人取り残されたような感じがする。
そんな不思議な感覚に戸惑っていると、到着した電車から吐き出された人の群れが改札口に押し寄せて来た。
相変わらず視界はセピア色のまま。スローモーションのように改札口を出てくる人々を片隅に映していた私の瞳に、一人だけ鮮やかな天然色で映る人が現れた。
その瞬間、周りの喧騒が耳に届き、全てが鮮明な輪郭を持った色付く構内となっていた。
人々の喧騒の中に、焦がれていた人が今、目の前を歩いて来ている。
柔らかく、少しだけくせのある栗毛色の髪。
あの頃と何ら変わることのない穏やかで優しげな瞳。
なんとなく、年齢相応になった端正な顔立ち。
そしてあの細く長い指が髪を掻き上げていた。
高鳴る自分の胸の鼓動を聞きながら、私は改札口を出た彼に向かって真っ直ぐに駆け出す。彼の瞳の中に私が映っているのが分かった。
「je t'aime」
その言葉と同時に彼の胸に飛び込んだ。
「moi aussi」
躊躇うことなく耳元でそう囁かれる。と、同時に折れるくらいに抱きしめられた。
あのときの別離とはもう違うのだ。
私は腕の中でもがくように彼の唇を探し、その唇に自分の唇を重ねた。宿命という歯車を嚙み合わせることが出来た二度目のキスは、他に紛れもない、確かなものに感じられた。
過ぎていった時間を紡ぐように、懐かしむかのように重ねられた私と彼の唇は、何度も何度も重ね合わされ離れようとはしなかった。
「Soyez heureuse」
「Bonne chance」
囃し立てるような声と口笛、そして少しばかりの拍手が辺りを包んだ。
我に返ったように、慌てて唇を離す。彼の腕に包まれたままで。肩越しの目に映ったのは十数人のパリジャン、パリジェンヌが微笑みを浮かべながら手を叩き、彼と私を見守ってくれていた。
恥ずかしい思いだったが、ここは素直にお礼をしよう。彼と二人で……。私と彼は見つめ合い、二人口を揃えて人々に伝えた。
「Merci beaucoup」と。
彼はやはりクロワッサン通りにあるホテルに泊まっていた。ホテルは昔、彼が住んでいたアパートメントの二軒先だ。やはり知っている場所に拠点を置きたかったに違いない。が、アパートメントに空き部屋はなく、仕方なくホテル暮らしをしていたようだ。
彼は宿泊していたシングルの部屋をキャンセルし、新たにダブルの部屋を取ってくれた。私と一緒に泊まるために。
荷物を新たな部屋に移動し終えると、二人きりになった私たちは初めて肌を重ねて確かめ合った。何度も唇を重ね合い、何度も何度も抱き合った。狂おしいほど互いを求めあったのだった。
翌日、朝早くに私と彼はモンマルトルの丘に向かった。
朝の煌めくような陽射しが木々の緑に反射して辺りに溢れる。木漏れ日が乱反射する石畳を二人で歩く。眩しすぎる鮮明な九月の青空が目に眩しい。
サクレ・クール寺院の階段からパリの街を見下ろした。九月の風が変われば、取りまくものすべてが動き出す。風向きが指し示す方角には青い空と彼方にある地平線。いつもの風景が、街が、全てのものが眩しく見える。
こうして彼が隣にいるだけで時間が止まったかのように思える。
ここで再会した日がまるで昨日のように。
私と彼は見つめ合い、微笑みあう。その瞬間、私たちはお互いの瞳の中にいた。
この時間を忘れないよう、心に焼き付けておこう。
この色とお互いの眩しいほどの笑顔を忘れないよう、瞳に焼き付けておこう。
この九月という青い風の中にいる私たちを。
天然色に溢れる、今ここにあるこの風景を心に仕舞っておこう。
了