鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

第25話 優しい涙で壊れる恋

昼下がりのカフェは、いつも通り穏やかだった。
窓際の席に差し込む光が、ゆっくりとテーブルをなぞっていく。
 
なのに――
 
(……落ち着かない)

カップに口をつけても、味がよく分からない。
胸の奥だけが、ずっと薄くざわついたままだ。
  
ランチから戻る途中、声をかけられた。
 
『――堀川葵様で、お間違いありませんか』

そこに立っていたのは、年配の男性だった。
整えられたスーツ、無駄のない所作。
左胸の社章に、一目で“こちら側ではない”と分かる空気。
 
(……四ノ宮の人だ)
 
『少し、お時間をいただけますか』 
  
気づけば、断る理由も見つからないまま。
あたしは、その人と向かい合って座っていた。 
男性は静かに名刺を差し出した。
 
「四ノ宮家顧問弁護士の、神崎と申します」
 
(……弁護士)
 
その肩書きだけで、息が詰まりそうになる。
 
「単刀直入に申し上げます」
 
逃げ場のない声だった。
 
「四ノ宮家に関わる以上、“個人の感情”だけでは済まされません」
 
言葉は穏やかで、けれど容赦がない。
 
「璋様は、次代を担うお方です」
 
視線が、まっすぐにあたしを射抜く。
 
「あなた様との関係が、その未来にどのような影響を及ぼすか――お考えになったことはございますか」
 
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
 
(……分かってる)
 
そんなこと、言われなくても。
 
「……あります」
 
声が、少しだけ掠れた。
 
「ですが、それでも――」
 
「"それでも"では、済まされないのです」

静かに遮られる。  
 
「四ノ宮の名は、一人の人生で背負えるものではありません」
 
その一言が、重く落ちた。
 
「あなた様一人の問題ではないのです」
 
(……ああ)
  
感情じゃなくて、理屈で分かってしまう。
 
「……璋様は、優しい方です」
 
その言葉に、思わず顔を上げた。
 
「あなた様を選ぶでしょう」
 
そう言い切られた瞬間、逃げ道まで塞がれた気がした。
 
「ですが、それが“正しい選択”とは限りません」
 
胸が、強く締めつけられる。
 
「どうか――お考えください」
 
それだけ言って、神崎さんは席を立った。
 
残されたのは、冷めかけたコーヒーと。
どうしようもない現実だけだった。
 
***
 
帰り道の感覚は、ひどく曖昧だった。
 
(……決めなきゃ)
 
分かっている。
 
璋さんが、どんなふうに笑うのか。
どんなふうに、あたしを大事にしてくれていたのか。
 
その優しさの先に、何があるのかも。
 
全部、知ってる。
 
だから――
 
「……璋さんの未来を、壊したくない」
 
ぽつりと、零れた言葉と涙は、驚くほど静かだった。
 
優しいから。
大切だから。
好きだから。
 
(……だからこそ)
 
選ばなきゃいけない。
あたしが。
 
***
 
次の日。
「相談したいことがある」と伝えて、璋さんに小ブースへ来てもらった。
扉の向こうに現れたのは、鷹宮主任の顔。 
  
「どうした?」
 
会社なのに、優しい声。
それだけで、全部が崩れそうになる。
 
(……だめ)
 
ここで泣いたら、終わる。
 
「……あの、家では会えないから」
 
声を整える。
 
「……私用の話があります」
 
空気が、わずかに張り詰める。
 
「……なに?」
 
いつも通りの声に、ほんの少しだけ混じる警戒。
 
(……気づいてる)
 
この人は、きっともう分かってる。
それでも、あたしが口にするのを待ってる。
  
「……あたし」
 
言葉が喉に引っかかるも、逃げない。
 
「……璋さんと、一緒にいられません」
 
静かに、言い切った。
数秒、何も音がしなかった。
 
「……は?」
 
低く落ちた声は、信じていない響き。
 
「どういう意味?」
 
まっすぐ向けられる視線から、逃げたくなる。
 
でも――
 
「……そのままの意味です」
 
あたしは震えを、必死に押さ込む。
 
「もう、会わないほうがいいと思います」
 
決めたことなのに、心が軋む。
 
「……理由は?」
 
優しくない声が、こんなにも痛くて苦しい。
 
(……当然だ)
 
それでも。
 
「……あたしには、無理です」
 
それ以上は言わない。
言ったら、全部壊れる。
 
「何が」
 
一歩、距離が詰まる。
 
「何が無理なん」
 
低く抑えた声に、逃げ場がなくなる。
 
(……言わない)
 
ここで理由を言えば、
この人はきっと――全部、背負ってしまうから。
 
「……すみません」
 
それだけしか、言えなかった。
どんな言葉を紡いでも、それはただの足枷にしかならない。
  
沈黙が、重く落ちる。
 
「……葵」
 
名前を呼ばれるだけで、足が止まりそうになる。
 
「……それで終わり?」
 
かすかに震えた声。
 
(……やめて)
 
そんな声、知らない。
 
「……はい」
 
嘘。
 
全部、嘘って叫びたい。
 
でも――
 
「もう、決めました」
 
迷いを隠すよう、言い切る。
それが、あたしの選択だから。
 
「……そうか」
 
そう言うまでに、ほんの一拍、間があった。 
それ以上、何も言わない。
 
引き止めないし、責めない。 
この人は、最後まで優しい。
だからこそ。
 
(……これでいい)
 
振り返らず、ドアに手をかける。
 
「……葵」
 
もう一度、今度はいつもと同じ。
その声に、堪え切れなくなる。 
 
「……幸せになれよ」
 
それが、最後の優しさみたいで。
優しいくせに、もう二度と戻れない場所へ押し出す言葉みたいで。
その一言で、世界が静かに壊れた。
  
(……むり) 
 
それでも、ちゃんと笑わないとだめだから。
せめて、最後くらいは困らせたくなかった。
  
「……ありがとう、ございます……」
  
震えながらも、声はちゃんと出た。
ドアを開ける。
閉まる音が、やけに大きく響いた。 
 
***
 
外に出た瞬間、息ができなくなった。 
足はうまく歩けないのに、涙はうまく止まらない。 
 
「……っ、……っふ……」
  
声にならない呼吸が、漏れる。
それでも、振り返らなかった。
  
(……だって)
  
振り返ったら、全部、終わるから。 

(……璋さんなら、きっと気づく)
   
優しさで選んだはずなのに。
どうしようもなく、痛かった。

***

――優しさなんかじゃ、守られへん。
 
ドアが閉まる音が、やけに長く残った。 
静まり返った室内。
 
さっきまでそこにいたはずの温度が、もうない。

「……はぁ」
  
(……葵)
 
イスに腰を下ろして、天井を見上げる。 
頭は、妙に冷静だった。
 
(……『無理です』、か)

あの瞬間より、今のほうが、ずっと痛い。
 
「……嘘やな」
  
あいつは、あんな顔で、
あんな言い方で、
本音を言えるやつちゃう。
 
(理由、言わへんかったな)
 
それが答えや。
 
「……ほんま、アホやな俺」
 
分かってたのに。
それでも、葵に選ばせてもうた。
あいつが一人で抱えるには、重すぎたのに。
 
「……そら、逃げるわ」
 
でも。
 
「それ、優しさちゃうやろ」
 
「勝手に、俺の人生軽くすんな」 
 
胸の奥が、じわじわと熱を持っていく。 
 
「守るために離す、やと?」 
 
(そんなもんで守れるくらい軽い人生ちゃうわ)

(全部背負うって決めたん、俺やろ)

勝手に家でて、葵を置き去りにしたくせに。   
なんでお前が、勝手に降りんねん。
 
「……ふざけんな」 
 
「葵」
 
届かない距離で、名前を呼ぶ。
それでも。
  
「絶対、逃がさへん」
 
「逃げてもええ……でも戻る先は俺」 
   
「――俺が選んだんは、お前や」
 
もう、迷いはなかった。
 
葵を追う前に、俺が片づけなあかんもんがある。
四ノ宮の名前も、見合いも、全部。
逃げずに、俺の口で終わらせる。
 
そうせな、今度こそまた、優しさのふりして葵に身を引かせてまう。
 
「……待ってろ、葵」
 
俺は、迷いなく茉白に電話をかけた。  
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