鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

第8話 甘さと苦さと香りと、ふたり

窓の外はまだ白っぽく、街が完全に目を覚ます前の静かな時間。

キッチンからダイニングへと、コーヒーの香ばしい匂いが立ち込める。
昨日買ってきた新しいエプロンの紐をキュッと結び直し、あたしは慎重にドリッパーへお湯を注ぐ。
 
キッチンの奥に眠っていたコーヒー道具。
「もらったけど使わん」と鷹宮先輩が言っていたそれを、今日は借りてみた。

まだ上手く淹れる自信はない。
それでも――飲んでほしいと思った。
 
​「おはようございます。今、淹れますね」
 
「ん……はよ……」
 
​寝癖のついた髪を気だるそうにかき上げながら、眼鏡姿の鷹宮先輩がやってくる。
シャツのボタンを二つほど外したラフな姿に、心臓がまた少し跳ねた。
 
昨夜の出来事が頭をよぎり、熱くなりそうな頬を隠すようにカップを差し出す。
 
​「はい、どうぞ。カフェオレで良かったですよね?」
 
「んー、ありがと……」

(もしかして……朝弱いのかな)

昨日は見せなかったとろんとして眠たげな素顔は、会社の時とは想像がつかない。
少しだけ幼く見えて、可愛さも感じられる。  
 
「……それ……ブラック?」
 
​あたしの手元にあるカップを見て、鷹宮先輩が欠伸をしながら尋ねた。
 
​「はい、飲みますか?」
 
​「……俺は無理、砂糖と牛乳ちょうだい、もうちょい足したい」
 
「えっ、あ、すみません!すぐに!」

朝食をのせたお皿を持っていたのを見た鷹宮先輩は、またもや欠伸をひとつ。
ゆっくりとした歩みで、あたしの隣にやってきた。  
 
「ええよ、自分でやる」
 
角砂糖を二つ、三つと落とす先輩の手元を見つめる。
スプーンを回す音が、規則正しく響く。 

「……本当に甘いの、好きなんですね」
 
「せやで」
 
即答だった。
少しだけ、拍子抜けするくらい。
 
「仕事がな、だいたい苦いから」
 
冗談みたいな口調。
けれどその一言に、胸が引っかかった。 
 
「口ん中くらい、甘くしとかんとやってられへん」
 
​その言葉の奥に、
見せない疲れや、積み重ねてきたものの重さが、ふっと覗いた気がした。
 
「あたし……」
 
気づけば、口にしていた。
 
「前は、お砂糖入れてたんです」
 
鷹宮先輩が、ちらりとこちらを見る。
 
「でも、仕事の時はブラックの方が、ちゃんとシャキッとできる気がして」
 
言いながら、少しだけ苦笑する。
 
「それに……憧れの先輩が、いつもブラックだったので」
 
「雪乃?」
 
小さく頷く。
 
「真似、してるだけかもですけど。強くカッコよくなりたくて」
 
「背伸びしとるなぁ。そのままの葵で充分ええで」 

やわらかく落ちてきたその言葉に、呼吸が一瞬止まった。

「まぁ、憧れの先輩たちが、順調に見えるかもしれんけど、中身は胃に穴が開きそうなことばっかりやで」
 
「……あたし、鷹宮先輩はなんでもスマートにこなせる天才なんだって思ってました」
 
「そんなわけないやろ」
 
軽く笑う。 

「俺かて、葵チャンに見せへんだけで、いろいろあんねんで」

その声は、少しだけ低かった。
あたしだけに落とされたみたいに。

(あたしが先輩の「甘い場所」だったらいいな……)

考えた瞬間、胸がじわりと熱くなる。
  
鷹宮先輩は、甘くなったコーヒーをごくりと飲み干してから、ふと思いついたように言った。
 
「それ、一口飲んでええか?」
 
「え、あ、はい。どうぞ……」
 
差し出したカップを、躊躇なく手に取る。
あたしが口をつけた場所を、わざと避けることもなく――そのままゆっくり飲んだ。
 
「……にがっ。ようこんなん飲めるな」

顔を子どもみたいにしかめる鷹宮先輩を見て、思わず笑いそうになる。
 
「でも、わかった気がするわ。葵が、なんで雪乃の真似してまで、これ飲んでるか」

「え……?」
 
「葵は、俺らが守らなあかん「可愛い後輩」のままでおるんが、嫌なんやろ」

ドクン、と心臓が跳ねる。 

「はよ隣まで来たいって、背伸びして……。ほんま、可愛くないくらい健気やな」

「……まぁ」
 
一瞬、視線が外れて。

「……もう放っとかれへんねんけどな」

「え?」

聞き返した時には、もう遅かった。

ただ、その直後に触れた手つきだけが、少し乱暴で、でも愛おしそうで。
鷹宮先輩の声の温度まで、やわらかく優しくなった気がした。
 
「仕事の苦さは、まだまだ俺ら先輩に頼ったらええねん。ほんで……ここにおる時くらいは、甘いもんでも食べてゆるんどき」

優しい朝の光に似た笑顔を向けられて、何も言えずにいた。
 
――仕事が、苦い。

完璧に見えていた人にも、甘さが必要な理由がある。
それを、自分だけが知ってしまった気がした。
 
カップから立ちのぼる香りが、
ふたりの間に、ふわりと満ちる。
 
ブラックと、カフェオレ。
違う味なのに、同じ空間で。
 
——この人を、
ただの「先輩」のままで見るのは、
もう無理かもしれない。
 
「……さて。そろそろ準備せんと、遅刻するわ。葵ー、洗面所先に使うな」
 
​「……え?」
  
​(今……呼び捨て……だったよね)
 
心臓が跳ねすぎて、耳の奥で自分の鼓動がうるさいくらいの甘い衝撃だ。
振り向くと、本人は何事もなかったかのようにカップを片付けている。​
 
​「……あの、鷹宮先輩」
 
「んー? 何や、ここ使う?」
 
​ひょい、と首を傾げてこちらを見る無防備な瞳。
聞けない。
確認するのが、怖い。
 
結局、あたしは「何でもないです!」と叫ぶようにしてキッチンへ逃げ込んだ。
今鏡を見たら、きっと顔は真っ赤だ。
 
​(「葵」、か……)
 
​たった三文字。
苗字を呼ばれるよりずっと短い響きなのに。
​名前を呼ばれた場所が、熱を持ったみたいにずっと、じわじわと痺れている。
 
――カフェオレより、ずっと甘い。
 
*** 

鷹宮先輩を見送った後、一通り家事を済ませて、リビングのソファで小休止していた。
今日は献立のリクエストを聞けたので、より一層気合いが入ってしまう。
とは言うものの、晩御飯の準備まで、まだもう少しゆっくりできる。  

あたしは、冬の陽射しに照らされている床を眺めていた。
 
キッチンには、乾かしたばかりのマグカップ。
ベランダでは洗濯物が揺れている。 
都会の喧騒とは無縁のような静かな室内。
 
自分のアパートにいる時と同じ一人なのに、ここはあたたかくて居心地がいい。

(誰かが帰ってきてくれるだけで、こんなにも違うんだ……)

手にしているマグカップから漂う香りが、朝の過ごした時間を幸せな記憶として反芻させる。  
 
いずれ元の家に帰らなければいけない。
なのに、その日が来なければいいのに...と願ってしまう自分がいる。

(まだ日が浅いのに、不思議……)      
  
それくらい、鷹宮先輩と過ごす時間は、優しくて柔らかな光が灯ったように満ち足りていた。
 
そんな夢の世界を切り裂いて、現実に引き戻す着信音。
大家さんからだった。

***
 
夕食を終えて、「お礼に」と鷹宮先輩が淹れてくれたコーヒーを受け取る。
昼間とは違って、少しだけ照明を落としたリビングは、静かだった。
ソファに並んで座り、カップを両手で包む。
湯気の向こうに、鷹宮先輩の整った横顔が揺れる。
言いたくないけど、話さなきゃいけない事がある。 
  
(……言うなら今、だよね)
 
昼間、大家さんから来た連絡。
頭の中で何度も反芻して、でも口に出せずにいた言葉。
 
「……あの」
 
声をかけると、鷹宮先輩がこちらを見る。 
 
「今日、大家さんから連絡あって」
 
一拍、置く。
 
​「土曜日なら……部屋、見に行けるみたいです」
  
​あたしは、精一杯の「迷惑をかけない後輩」を演じて、その言葉を口にした。
鷹宮先輩はすぐに答えず、カップを握る指が少しだけ強くなる。
一瞬だけ、何かを飲み込んだみたいに喉が動いた。
 
コーヒーを一口飲んでから、視線を落とした。
 
「……土曜、か」
 
短い相槌。
 
​「俺、その日仕事やねん」
 
​​静かな声。
いつもの「上司」に戻ったようなその声に、あたしは慌てて笑顔を貼り付けた。
 
​(……あ、そっか)
 
​「週明けに要る資料を、朝から作らなあかん。……悪いな」

鷹宮先輩は手元のカップをじっと見つめ、指先でその縁をなぞった。

「いえ、大丈夫です」
  
ちゃんと、いつもの後輩の顔で笑った。
 
――嘘じゃない、大丈夫。
でも。
  
(……一緒に来てくれたら、よかったのに)
 
そんな気持ちが、
自分の中にあったことに気づいてしまった。
 
言わなかった。
言えなかった。
 
それを口にしたら、
この居心地のいい距離が壊れてしまいそうで。

「……無理せんでええからな」
 
そう言って、鷹宮先輩は立ち上がる。
 
「明日も早いし、先に風呂入るわ」
 
「はい」
 
返事をしながら、胸の奥に残った小さな期待を、そっと押し込めた。
 
​昼間の温もりが嘘のように、心の中に冷たい風が吹き抜ける。
 
――ブラックと、カフェオレ。
 
混ざり合わない距離を突きつけられたような、少しだけ苦い夜。
 
土曜日は、
それぞれ別の場所へ行く。
そう決まっただけなのに、
なぜか、胸の奥が、じわじわと焦げるみたいに痛い。
​まだ少し時間がある。
 
それが、救いなのか。
それとも、終わりまでの猶予なのか。
 
あたしには、まだ分からなかった。

――分からないまま、進んでしまいそうで。
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