鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

第9話 帰る場所の温度が、あなたに変わった日

朝の空気は、昨日より少し冷たかった。
吐く息は白くならないのに、指先だけがかじかむ。
 
玄関で靴を履きながら、あたしは無意識に振り返っていた。
誰もいないリビング。
昨夜、並んで座っていたソファも、今はすっかり冷えきって、静まり返っている。
 
「……いってきます」
 
小さく呟いた声は、誰に聞かれることもなく静かにとけていった。
 
***
 
エレベーターを降りて、外に出る。
電話がかかってきたので先に降りていた鷹宮先輩と、合流して並んで歩き出した。
同じ方向へ向かっているのに、
今日は、行き先が違う。
 
「俺、先に曲がるわ」
 
駅へ向かう道の角で、足が止まる。
スーツ姿の背中が、朝の光を受けて少しだけ眩しい。
 
「はい。……行ってらっしゃい」
 
言葉は、ちゃんと出た。
笑顔も、たぶん大丈夫。
 
「気ぃつけてな」
 
短い一言。
それだけ言って、鷹宮先輩は振り返らず歩き出す。
突き放されたわけじゃないのに、胸の奥がひやりとした。
背中が、遠ざかる。

――今日は、一緒じゃない。
 
ただ、その事実を改めて突きつけられた気がして、胸の奥がわずかに心細かった。

***
 
電車を降りて、見慣れた路地に入る。
暫く歩くと、立ち入り禁止のテープが外されたアパートが見えてきた。
 
濡れたままの外壁。
嗅いだことの無い焦げた匂いが、まだ微かに残っている。
 
「……ただいま」
 
誰に向けたのか分からない言葉が、喉から落ちた。
鍵を開けて中に入ると、冬特有のひんやりとした空気が、足元から這い上がってくる。
水に濡れた床。
少し色味が変わった壁。
煤けたベランダ。

目に映るものすべてが、冷たかった。

(……片付けよう)
 
使えるもの、使えないものとに分けていく。
暖房の効かない部屋で、一人黙々と作業する。 
手は動かしているのに、
 
――心だけが、ここに追いついてこない。

(早く終わらせて、帰らなきゃ……あそこに)

――帰る?どこに帰る?

鼻の奥がツンとする。
   
(この部屋が、あたしの家でしょ……)
   
そう思った瞬間だった。
 
「……手、止まってるで」
 
背後から聞こえた声に、肩が小さく跳ねる。
振り返るより先に、見慣れた気配とあの香りが近づいてきた。
 
「無理せんと、甘えといでって言うたやろ」
 
スーツ姿なのに、ネクタイは緩んだまま。
第一ボタンを外したシャツの襟元が、呼吸に合わせて僅かに上下している。
かっちり羽織っていたジャケットも、腕に掛けていた。
 
肩で一度息をしてから、視線があたしを捉える。
何も言わないのに、
――急いできたんだって、わかってしまった。

低くて、静かな声。
責めるでもなく、急かすでもない。
その一言で、胸の奥に溜めていたものが、決壊しそうになるのをギリギリ耐える。
 
「……っ」
 
声にすらならず、口をパクパクさせるのが精一杯。
 
「……間に合ったな」
 
小さな吐息と一緒に、あたしの頭に手が置かれる。
 
「帰ったらな、目一杯、甘やかしたるから」
 
言うと同時に、そっと引き寄せられる。
 
「おいで、やる気チャージしたろ。……あともうちょい頑張るで」
 
背中をポンポンと優しく叩く。
シトラスの香りに、ほんの少し汗の匂いが混じる。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
 
「……はい、ありがとうございます……」 

少しだけ離れがたくなったものの、あたしは一度だけ、強くしがみついた。
  
片付けの目処も付き、「今日はここまで」と荷物を持って玄関ドアに向かう。

すると鷹宮先輩の視線が、壁に貼られた写真のうちの一枚に、ほんの一瞬だけ留まった。
 
「あ……」

思わず漏れた声。
元カレとあたしが、クリスマスイルミネーションをバックに笑顔で寄り添った写真だった。
 
いつも柔らかな熱を帯びていた鷹宮先輩の瞳が、今は凍りついたように冷たい。
その視線は、写真じゃなくて 
そこに写る“男”を消すみたいだった。
 
一切の感情がのっていないまま、見つめている。 
 
「……あの時は精一杯でした」

少し震える手で押しピンから、写真を取り外す。
 
「でも……もう、戻りたいとは思わないです」    
  
本心からそう言えるようになったのは、鷹宮先輩のおかげだ。
 
(…………うん、もう大丈夫。バイバイ) 
 
もう二度と、この写真を見ることはない。  
裏返しにして、湿っぽいテーブルの上に置いた。
 
「……ここ寒いわ」

短い溜め息と共に沈黙を破った鷹宮先輩が、腕を肩に回してくる。
 
「長居する場所ちゃうな」
 
最初から決まっていたみたいな、自然な一言だった。
 
――帰る場所は、もう、ここじゃない。
そう、思ってしまった。 
 
外に出ると、夕方の空気は思ったより冷たかった。
さっきまでの部屋の湿気と臭いが、まだ肌に残っている。
鷹宮先輩は何も言わず、自然な動きであたしの荷物を持って歩き出した。
断る隙も、考える余地もなく、後ろをついていく。
 
​アパートから少し離れたところで、夜の闇に溶け込むような、マットブラックの重厚なSUVが停まっていた。

(……知らない車、ご近所さんかな?) 

都会の街並みには不釣り合いなほど威圧感を放つその車が、鷹宮先輩が近づくと素早く反応してライトを明滅させた。
 
ドアを開けられて促されるまま助手席に乗り込むと、本革の香りと静寂に包まれる。
外の焦げ臭さが、嘘みたいに消えた。
 
鷹宮先輩がシートを横切って、包囲するように両手を伸ばしてきた。
あたしは背中を座席に押し付けて、固まることしかできない。
 
​「……っ、自分で、できます」
 
​「ええから」
 
​短い拒絶。
彼の指先が、あたしの胸元を横切ってベルトを引いていく。
指先がほんの少し、服の上からあたしの肌をなぞるように触れた。
璋先輩の熱が、そのままあたしの奥深くまで溶け込んでいくような錯覚に、息が止まった。

​「行くで」
 
鷹宮先輩がアクセルを軽く踏むと、低く唸るようなエンジン音が心地よく体に響く。
車の揺れと、膝にかけてくれたコートから香るシトラスの匂い。

(鷹宮先輩の匂い……安心する……)
  
「寒ないか?」
 
前を見たまま、ぽつり。
 
「……大丈夫です」
 
嘘じゃない。
同じように暖房がまだ効いてない空間なのに、
さっきより、ずっとあたたかかった。
 
信号で停まったとき、ハンドルを握る鷹宮先輩の指に、少しだけ力が入るのが見えた。
 
「今日は、よう頑張ったな」
 
それだけ。
慰めでも、励ましでもない。
評価みたいで、でも、仕事のそれとは違う。
 
「帰ったら、あったかいもん飲も」 

そう言って、視線だけ一瞬こちらに向く。
当たり前みたいな口調。
“二人で”が省略されているのに、
最初から含まれている言い方。 
すぐ前に戻るのに、鼓動が早打ちの鐘みたいにうるさくなる。
 
「……はい」
 
それしか言えなかった。

*** 
 
マンションが見えてきた頃、
さっきまでの空の色が、夜に青に溶けていく。
駐車場に着いた瞬間。
鷹宮先輩が、ふーっと深い溜息をついた。
 
​「……葵チャン、こっち向いて」
 
「あ、はい……」
 
​恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもの、ちょっと意地悪そうな顔の鷹宮先輩がいた。
でも、耳の付け根がほんのり赤い。
 
​「……さっきのは、その。アパートが寒いし、ほこりっぽくて、俺もちょっとイラついてただけや」
 
​絶対、嘘。
あんな凄い形相みたことなかったもの。
 
​「……はい」
 
「『はい』やなくて。……ほら、手。ほこりで汚れたやろ。帰ったらすぐ風呂入り」
 
​そう言って、先輩はあたしの手を引き寄せると、汚れてもいない手のひらを親指でそっとなぞった。
 
「……葵チャン、さっきちょっと泣きそうな顔しとったし。……俺のせいやないけど」
 
​鷹宮先輩は、わざとらしく視線を逸らして、シートベルトを外した。
あたしも慌てて外して、助手席から降りる。
  
​「……今日はもう、ゆっくりしよ」

あたしが呼ぶより先に、名前を呼ばれた。 
 
「……うるさい。甘やかされとけばええねん」
 
どこかバツの悪そうな顔も、あたしにとっては独占欲よりもずっと、心臓に悪い毒みたいだ。
  
「帰るで、葵」
 
理由も、説明もない。
でも、その一言で十分だった。
 
――帰り道は、もう。
ちゃんと、帰る場所になっていた。

***
 
身体も洗い、お腹も満たされ、ソファに腰を下ろしたまま、あたしは手元を見つめた。
昼間のアパートの匂いも、胸のざわつきも、少しずつ遠のいていく。
ただはっきり感じるのは、カフェオレの柔らかいあたたかさ。
鷹宮先輩が「風呂上がったら、もっと甘やかすから飲んで待っとき」とわざわざ淹れてくれた。 

(もう充分、甘やかされてる……と思う……)
 
ソファに深く身を預ける。
柔らかい革の感触。
背もたれに沈む体。
 
(……どうしよう……自分の家より……)
 
そう思ったところで、瞼が、すとんと落ちた。
 
「……ん……」
 
気づいたときには、
もう、意識は半分も残っていなかった。
テレビはついているのに、音はほとんど頭に入ってこない。
マグカップの縁から立つ湯気が、ゆっくり揺れている。
 
――安心、しちゃった。
初めて来たあの夜より。
  
自分でも驚くくらい、
何の警戒もなく。

***
   
「……ほんま」
 
少し離れたところで、
その様子を見ていた俺は、小さく息を吐く。
 
「自分の家より、落ちるの早いやん」

そらそうか。
今日は一日、家の片付けで、気ぃ張りっぱなしやったはずや。
 
寝息は静かで、呼吸はすっかり深くなっている。
起きる気配もなく、警戒心ゼロ。
完全に、ソファに身を預けている姿。
 
そっと近づいて、ブランケットを肩にかける。
 
「……無防備すぎやろ」
 
そう言いながらも、自分の声が、驚くほど柔らかい。
寝顔だと少し幼くみえる葵を見下ろす。
少し乱れた前髪。
乾かしたばかりの髪から、自分と同じシャンプーの香りがする。
 
(……俺の家やけどな)
 
思いとは裏腹に、胸の奥に湧いたのは、警戒でも困惑でもなくて。
 
――満たされる感覚。
 
「……そら、放っとかれへんわ」
 
無意識に、そう呟いていた。
ソファに腰を下ろし、起こさないように、距離を詰める。
指先で、そっと前髪を整える。
 
「安心した顔しよって……」
 
(この距離で寝れるとか、どんな信頼やねん)
  
苦笑い混じりに言いながら、一向に起きる気配がない後輩から、視線は離れない。

一瞬、
起こすべきか迷う。
――でも。
 
「……このまま寝かす方が、あかんやろ。風邪引く」
 
言い訳みたいに呟いてから、ゆっくりと立ち上がった。
ブランケットを外し、慎重に、腕を差し入れる。
 
「……軽っ」
 
思わず、本音が漏れる。
抱き上げた瞬間、
葵の腕が、無意識に俺のシャツを掴んだ。
 
「……っ」
 
息が詰まる。
 
(なんで、掴むねん)
 
(なんで、そんな自然に)
 
寝ぼけたまま、額が胸元に擦り寄せられる。
 
「それは……あかん」
 
誰に言ってるのかわからないまま、足音を殺して寝室へ向かう。
 
ベッドに下ろそうとした、その瞬間。
 
「……ん」
 
小さく上擦った声。
半分目を開けて、焦点の合わないまま、葵が呟く。
 
「……せんぱ……」

​掠れた声で、俺を呼ぶ。
胸の奥が、今まで聞いたことのない音を立てて跳ねた。
 
​(あかん、これは反則やろ……)  
 
「……起きてへん」
 
自分に言い聞かせながら、そっと布団をかける。
それでも。
葵の指をほどいて離そうとすると、またシャツを掴まれる。
完全に無意識。
 
「……ほんま」
 
俺は、動けへんくなった。
 
(なんで俺が引き止められてんねん)
 
 
(……おかしいやろ)
 
しばらく、その場で固まってから。
 
「……葵」
 
低く、静かに言う。
掴まれたシャツを、そっと今度こそほどいて。
指先だけ、髪に触れる。
 
「……おやすみ」
 
ベッドを離れ、ドアを閉める直前。
もう一度だけ、振り返る。
眠る葵は、完全に無防備で
今日一日で一番、穏やかな顔をしていた。
 
「……なんでやろな」
 
小さく呟く。
  
理由は、まだわからへん。
ただ、葵を甘やかしたい衝動だけが、はっきりしていた。

「俺の方が、目ぇ冴えてもうたわ」

俺は、この名前のない感情に、気付かんフリして蓋をする。
 

腕に残る重み。
シャツに、葵の香りが残っていた。
ほんまは、もう少しだけ――。
 
(……どうしようもないな)

さっきの寝顔が頭から離れないまま、
俺は深く息を吐いて、ノートパソコンを開いた。
 
――画面なんか、全然見えてへんのに。 
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