あの公園で、君に会えたら

11話 許婚という立場

仕事帰りの夕方、街の空気はどこか重かった。

奈々は駅へ向かって歩きながら、無意識にため息をつく。

最近、自分の中が静かじゃない。

守れなかった命。
涙を流した諒。
何も言わずに隣に立つ颯太。

どれも胸に残っている。

「奈々さん」

不意に呼ばれ、振り向く。

若菜だった。

整った表情。
落ち着いた視線。
逃げ場を与えないまなざし。

「少し、お時間いいですか」

柔らかい声なのに、断れない。



カフェに入ると、若菜は迷わなかった。

「許婚、解消してください」

単刀直入。

奈々の指先が冷える。



「諒さんとは海外で出会いました」

若菜は静かに続ける。

「最初は偶然でした。でも一緒に過ごすうちに、自然に付き合うようになりました」

誇張も照れもない。

事実だけ。

「帰国してから奈々さんのことを聞きました」

視線がまっすぐ向けられる。

「幼馴染で、許婚だって」

奈々はうなずくことしかできない。



若菜は、ほんの少し身を乗り出す。

「正直に言います」

声が低くなる。

「奈々さんの立場、かなりおかしいです」

胸が刺される。

「許婚がいるのに、別の恋人がいる」

颯太の顔が浮かぶ。

「でも、その許婚は解消しない」

言い訳が浮かばない。

「それって、誰に対しても誠実じゃないですよね」

静かに言われる方が、痛い。



「私ははっきりしてます」

若菜の目が揺れない。

「諒さんが好きです」

一拍。

「だから、隣にいる覚悟があります」

迷いがない。

「でも奈々さんは違う」

言葉が落ちる。

「諒さんを手放さない。でも恋人も手放さない」

奈々は視線を落とす。

逃げ場がない。



若菜は少しだけ息を吸った。

「諒さん、あなたの前だと弱くなるんです」

その一言に、奈々の心臓が跳ねる。

「強い顔してますけど、本当は――」

そこで初めて、若菜の声がわずかに震えた。

「あなたに拒まれるの、すごく怖がってる」

奈々の喉が詰まる。

若菜はすぐに声を整える。

「だからこそ言います」

「覚悟がないなら、離れてください」

それは宣戦布告じゃない。

覚悟の確認だった。



奈々はしばらく黙っていた。

怖い。

迷っている。

でも。

「解消、できません」

静かな声。

若菜の眉が、わずかに動く。

「理由を聞いてもいいですか」

奈々は息を吸う。

正直に。

「諒を完全に手放す想像が、できない」

言ってしまった。

胸が痛い。

颯太の顔が浮かぶ。

自分がいかに残酷か、分かっている。



若菜は奈々を見つめる。

怒らない。

泣かない。

ただ、はっきり言う。

「それ、恋人の前で言えますか」

息が止まる。

言えない。

言えるわけがない。

若菜は立ち上がる。

「私は逃げません」

静かな宣言。

「諒さんの恋人は、私です」

一瞬だけ、視線が鋭くなる。

「でも奈々さんが本気で向き合うなら、私は負けません」

そして最後に。

「逃げないでくださいね。誰の気持ちからも」

若菜は店を出ていった。



奈々は動けない。

胸が重い。

絡み合う感情。

そしてはっきりしたことが一つ。

自分は、選んでいない。

ただ、失うのが怖いだけだ。

夕暮れの光がテーブルを照らす。

幼馴染では、もういられない。

恋人でも、まだ決めきれない。

でも――

逃げているのは、自分だ。
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