あの公園で、君に会えたら

10話 触れたいのに、遠ざかる人

あの日から、諒は奈々の前に現れなくなった。

あれほど突然現れて、強引で、逃げ場なんて与えてくれなかった人が、今度は嘘みたいに姿を消している。

連絡はない。
偶然もない。
黒塗りの車も見ない。

分かっている。

きっと忙しいのだ。
抗争の空気も濃くなっている。

それに――あんな夜のあとだ。

それでも。

(避けられてる……)

そう思ってしまう自分がいる。



救命の夜勤は、相変わらず容赦がない。

搬送、処置、記録、次の患者。

身体は忙しいのに、心のどこかが空白のままだ。

ふとした瞬間に思い出すのは、あの夜の諒の涙だった。

「守れなかった」

あの低い声が、耳から離れない。

シーツを握りしめていた手。
震えを隠そうとする横顔。

あんな諒を、奈々は初めて見た。

(颯太がいるのに……)

そう、自分には恋人がいる。

優しくて、真っ直ぐで、ずっと隣にいてくれた人。

それなのに。

最近、颯太と会ってもどこか上の空の自分がいる。
笑っているつもりでも、心が追いつかない。

颯太は気づいている。きっと。

でも彼は何も言わない。
ただ少しだけ、笑顔が寂しそうになった。

それが逆に、胸を締めつける。



夜勤明けの朝。

空は薄く白み始めている。

奈々は無意識にスマホを開く。

諒の名前。

表示されるだけで胸がざわつく。

『大丈夫?』

打ちかけて、消す。

『ちゃんと寝てる?』

それも違う気がする。

そもそも、送っていい立場なのか分からない。

恋人は颯太。
許婚は諒。

でも距離は今、どちらとも曖昧で。

自分の気持ちが、一番分からない。

そのとき。

「……奈々」

低い声。

振り返った瞬間、息が止まりそうになった。

諒がいた。

黒いシャツにコート姿。
少し痩せた気がする。
目の下に、うっすら疲れが見える。

けれど視線は、いつも以上に静かだった。

奈々は思わず一歩近づく。

「諒……」

でも諒は、距離を詰めない。

むしろ半歩、下がる。

そのわずかな動きが、胸に痛い。

「この前は……ありがとな」

短い言葉。
感情を抑え込んだ声。

「ううん。何もしてないよ」

沈黙が落ちる。

以前なら、諒はもっと踏み込んできた。

強引に距離を縮めて、奈々の手を取って。

今日は違う。

まるで壁があるみたいだ。

奈々は勇気を振り絞る。

「避けてた……?」

少しの間。

諒は視線を外す。

「……会わねぇようにしてた」

その一言で、奈々の呼吸が止まる。

「会ったら」

喉が動く。

「離れられなくなるから」

胸が、強く鳴る。

「……巻き込みたくねぇんだよ」

低く、苦しそうな声。

「俺の世界、奈々には向いてない」

「そんなの、今さらでしょ」

思わず声が震える。

「私、全部知ってる」

諒が小さく笑う。

でもその笑みは苦い。

「知ってるのと、傷つくのは違う」

一歩近づく。

奈々は動かない。

「この前みたいなこと、またある」

「次は守りきれねぇかもしれねぇ」

あの夜の恐怖がよみがえる。

それでも。

「それでも」

声が自然に出た。

「諒が一人で抱えるほうが、嫌」

諒が固まる。

しばらくして、小さく息を吐いた。

「奈々ってさ」

ぽつりと言う。

「俺が離れようとすると、絶対追ってくるよな」

懐かしむ声。

でもどこか寂しい。

「でも今回は」

諒は言葉を飲み込む。

顎の筋が、わずかに強張る。

「……追ってくんな」

奈々の喉が詰まる。

諒は続ける。

「俺、今のお前に触れたら」

一瞬、視線が揺れる。

「戻れなくなる」

心臓が強く跳ねる。

空気が息苦しいほど濃くなる。

「奈々」

名前を呼ばれるだけで、足が動きそうになる。

「俺、ちゃんと離れようとしてんだよ」

その声は怒りじゃない。

必死だった。

奈々の足が、ほんの一歩前に出る。

止めようとしても、止まらない。

「……諒」

その瞬間。

諒が一歩下がる。

距離を、戻す。

それが決定的だった。

「颯太、大事にしろよ」

今度ははっきりと言う。

「俺が言える立場じゃねぇけど」

かすかに笑う。

でも目は、笑っていない。

そして背を向ける。

奈々は動けない。

追いかけたい。

抱き止めたい。

それなのに、体が凍りつく。

視界がにじむ。

ぽたり、と一滴。

自分でも気づかないうちに、涙が落ちた。

朝の光に溶けるみたいに、静かに。

諒の背中は振り返らない。

触れたいのに。

触れたら、もう戻れない。

胸の奥で、何かが確実に傾いた。

それでもまだ、

自分は決めきれない。

遠ざかる背中を見つめながら、奈々は初めて思う。

――私は、どこへ行きたいんだろう。
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