洛陽夜曲

九龍城塞②

紙屋川を離れる頃には、空はすでに色の境界を失い、
濃密な夕景に支配されていた。

夕刻の帳が、古都の輪郭をゆっくりと、そして深々と塗り潰していく。


「飯でも食べに行こか」


京司の唐突な言葉をどう受け止め、どんな言葉で返すべきか。
戸惑いの沈黙が流れるなか、彼女が最適解を探しあぐねていると、
それを遮るように京司の唇が再び動いた。


「何か食べたいもん、あるか?」


「い、いえ特には」


淀みなく答えを返すその横顔は、一見すれば平穏そのものだった。しかし、
わずかに震える語尾が鈴華の戸惑いを露呈させて心音だけが、
メトロノームのような音を刻んでいた。


「香港ではどんなもん食べてたんや?やっぱ中華料理かいな?」


鈴華は視線を落とし、言葉を選ぶようにしてわずかな沈黙を差し挟んだ。
京司の問いに対し、彼女は感情の起伏を削ぎ落とした、
平熱のトーンで淡々と答えを返した。


「食べていたものですか…。そうですね、その日に手に入れられたもの
を食べていたので、決まったものはありませんでしたが…
古くなって廃棄されたフィッシュボールや、
堅くて食べられなくなって捨ててあるパンなんかをよく食べてました。
時々、端に肉が残ったチキンが残飯に捨ててあって…
それが手に入った日はご馳走でした」


鈴華の言葉を耳にした瞬間、京司の眉間に深い皺が刻まれた。


「…君の親は何しとったんや?」


「親はいません。物心ついた頃には、九龍城塞の中で浮浪孤児として
生きていましたから」


鈴華の口から零れ落ちる凄惨な記憶には、感情の色彩が一切欠落していた。
過去の痛みに無感覚であるという、残酷なまでの肯定。
その異質な潔白さを前にして、京司は言葉を失い、
ただ圧倒されるばかりであった。

そこには湿った悲哀も、誰かをなじるような棘も一切ない。
ただ、自分という存在をどこか遠い場所から眺めているような、
奇妙なほど透き通った無関心があるだけだった。

京司は、彼女の背後に広がる底なしの虚無に触れた気がして、
思わず身震いした。


「君は…」

「はい?」

「…いや、何でもあらへん。京料理は好きなんか?」

「食べた事ありません」

「ほな美味い京料理食べさせたるわ」

追憶を塗りつぶすように夜の帳が降りる。
京司はアクセルを踏み込み、加速する光の粒とともに、
華やかな喧騒が潜む路地の奥へと切り込んでいった。
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