洛陽夜曲

帰郷

神野に丁重な挨拶を済ませると、京司は奈良をあとにした。
遠ざかる古都の街並みをバックミラーに映しながら、
ハンドルを握る京司の胸には、
鈴華と共にある未来への確かな予感が熱く脈打っていた。

一方、京司の車が曲がり角に消え、排気音さえ聞こえなくなるまで、
鈴華はその場を動けずにいた。
隣で同じ道を見つめている神野に、
彼女は心の片隅に引っかかっていた疑問を、そっと投げかける。


「……烏丸の若頭とは、以前からお知り合いだったんですか?」


神野は視線を動かさず、ただ口元に深い皺を刻んで微かに笑った。
その表情からは、真意など少しも読み取れない。

「さあて、どうだったかな。この歳まで生きてると、
腐れ縁も通りすがりの顔も増えすぎてな。
いちいち記憶の棚に整理しとくほど、私の頭は賢うないんや」


はぐらかすような言葉を残して、神野はゆっくりと歩き出す。
その背中は、どこか底知れない影を纏っているように見えた。

「……ああ、そうや。槇村から連絡があってな。
祭りも終わったことやし、ぼちぼち大阪に戻ってこいと言うてたわ」


その言葉が落ちた瞬間、静寂が鼓膜を震わせた。


「えっ……!」


「鈴華さんがおらんなったら、うちの若い衆もさぞ寂しがるやろうなぁ」


男のどこか湿り気を帯びた声が、初秋の風に混じって消えていく。

(大阪に、帰れる……)

胸の奥で、せき止めていた感情が静かに決壊した。
古都・奈良の、青丹よしと謳われる山並みに囲まれた数か月。
それは、悠久の時が止まったかのような、
長く、そして重厚な静養の月日だった。
寺社の線香の匂いや、鹿の鳴き声に象徴される「異界」での生活に、
今、終止符が打たれようとしている。

夕闇が迫る街並みに、遠く大阪の喧騒を想起させる光が滲んだ。
祈りの地を去り、欲望と活気に満ちたあの濁流の街へ。
鈴華の心は、名残惜しさと焦燥の狭間で、
ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。

---大阪、六穣会事務所。
静謐を好む若頭補佐、早緑の声が室内に響き渡った。


「――やかましいぞ、藤四郎!」


受話器を握りしめ、一人で浮き足立っている藤四郎に対し、
宏一は鋭い視線を向ける。
しかし、藤四郎は怯むどころか、顔を紅潮させて叫んだ。


「カシラ! お嬢が……会長のお許しが出て、こちらに戻って来はります!」


その言葉が落ちた瞬間、
デスクで書類に目を通していた宏一の動きが止まった。
次の瞬間、彼は弾かれたように椅子を蹴立てて立ち上がる。


「何だと……!? 貴様、それを先に言え!」

「ですから、今必死に言うてますやんか!」


あまりの衝撃に、普段の冷静さをかなぐり捨てた宏一。
対して、興奮のあまり口答えする藤四郎。
静まり返っていた事務所は、たった一本の電話を境に、
にわかに熱を帯びた喧騒に包まれた。
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