恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜
3.静かな違和感
気がつくと、私は真っ暗闇の中に立っていた。
どこを見渡しても何も見えなくて、どこまでも続く闇だけが広がっている。
そう思っていると、ぼんやりと光るものが見えた。
そう思うと同時に、それは次第に輪郭をはっきりとさせていく。
光っていると思ったものは人だった。
――黎斗さんだ。
後ろ姿だけでもそれが黎斗さんだと分かる。
黎斗さん、そこで何をしているの? どうしてこっちを向いてくれないの?
私はここに居るよ。ずっと貴方のそばに居るよ。こっちを向いて。
ねえ、黎斗さん――。
「……黎斗さんっ!」
自分の声に驚いて、はっと目を覚ました。
視界に広がるのは、見慣れた天井と愛用してるふかふかの布団。
乱れていた呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
どうやら私は夢を見ていた。それも怖いと感じるほどのものを。
のそのそと起き上がり、楽な体勢になるように座り込んだ。
夢で良かった、と心底ほっとする。
枕元に置いてあるスマホへ手を伸ばそうとした時、そこにあるには不自然な物が目に入った。
濃い色をした、スウェットのようなズボン生地。
なんだこれは。私が疑問に思うと同時に頭上から声が降ってきた。
「大丈夫か、陽菜?」
この場所で聞こえるはずのない声。低くて柔らかい、胸が高鳴る音。
私の部屋になんて居るはずのない、居るなんておかしい人物の声。
ドクンドクン、と心臓から全身へすごい勢いで血液が送られていく。
「れ、黎斗さん……!?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
なんで黎斗さんが私の部屋に? いったいどうして?
色んな疑問符が次々と浮かんで、私は文字通り混乱した。
私の部屋は、お店や黎斗さんたちの部屋とは離れた場所にある。
離れているとは言っても、中庭を挟んだだけのすぐ目の前なのだが。
「ずいぶんうなされていたぞ、お前」
黎斗さんが私と同じ目線まで座り込んだ。
少し覗き込むような体勢で、その表情は明らかな心配の色をしている。
「あ、えっと……怖い夢を見て……」
「怖い夢、か……」
なるほど、と腑に落ちた表情をする黎斗さん。
でもその夢の内容までは言えなくて、それ以上はぐっと口をつぐんだ。
そんな私の様子を見てか、夢の内容を掘り下げられることはなかった。
安堵をしたところでふと、私は気づいた。
今の、この部屋で、私が置かれている状況に。
ベッドの上に座り込んだ私と、その私と目線を合わすように座り込んでベッドの縁へ組んだ両腕を乗せている黎斗さん。
私はパジャマ姿。黎斗さんも部屋着だ。
寝起きの顔に、寝癖だらけの髪。
おまけにパジャマという油断しきった姿。
絶対に見られたくない姿を、今まさに、見られたくない人に見られている。
顔から火が出る、とはこの事だ。
顔や体も一気に熱くなって、羞恥心で爆発しそうになっている。
「れ、れれ、黎斗さんはなんでここにいるんですか……?」
声が震えている。動揺し過ぎているが聞かずにはいられない。
気づくのが遅すぎた質問をぶつけられた彼は、ふむ、といった表情になる。
「時計を見たか? お前が寝坊しないように起こしに来たんだ」
ほんの少し口元を緩めた黎斗さんが、穏やかな口調で答えた。
その言葉に、私はハッとする。
時計を見ると、時刻は私がいつも起きる時刻を過ぎていた。
「あ、あああっ……!」
悲鳴とも取れる情けない声を出して私は飛び起きた。
そんな私を見て、黎斗さんは面白そうにクツクツと喉で笑っている。
バタバタと制服をハンガーから外したり、慌てている様子の私を眺めた彼は、立ち上がってドアのほうへ歩み寄り、振り返りながらこう言った。
「勝手にお邪魔して悪かったな。でも、陽菜のパジャマ姿は悪くなかったぞ」
「…………っ!?」
ぱたん、と扉が閉められて黎斗さんが出て行った。微かに吐息笑いも聞こえる。
制服を握りしめたまま、真っ赤な顔で立ち尽くす私の姿が見られなくてよかった。
しばらくの間、指先が震えてまともに支度ができなかったことも黙っておこう。
それでもなんとか身支度を終えた私は、急いでキッチンへと向かった。
近づくほどに甘くて良い香りが漂ってくる。
これは、おばあちゃんがよく淹れてくれるミルクティーの香りだ。
キッチンでは、黎斗さんとおばあちゃんがすでに朝食を囲んでいた。
二人とも私に気づいて「おはよう」と声をかけてくれる。
私の分の朝食もきちんと用意されていて、ほかほかとトーストが湯気を立てていた。
みんなで一緒にご飯を食べられるのは本当に嬉しい。
幸せそうな表情でトーストを頬張る私を見て、おばあちゃんが優しく微笑んでくれるのもいつもの光景だ。
先に食べ終わり食後のコーヒーでまどろんでいた黎斗さんが、ふと話を切り出してきて私は咀嚼するのを止めた。
「以前から試作を重ねていたケーキだが」
黎斗さんは飲んでいたコーヒーをいったんテーブルの上に置き、冷蔵庫から何かを取り出して再びテーブルへ戻ってきた。
手に持っているのは見覚えのあるケーキだが、今まで見てきたものと少し見た目が変わっている。
黎斗さんの口ぶりからするに、これは……。
「ついに完成したぞ」
私の前へケーキの乗ったお皿が置かれた。
今まで何度も試行錯誤を重ねてきてたどり着いた完成品。
見るだけで口の中が涎で溢れそう。
キラキラと目を輝かせて眺めていた私だったが、二人とも黙っていることに気づいた。
顔を上げて二人を交互に見やると、黎斗さんがコホンと咳払いをひとつした。
「……陽菜に食べてもらいたいんだが、いいか?」
その言葉に胸の奥がトクンと跳ねた。
試食をしてもらったり、その都度感想を聞かせてもらったお礼だろうか。
私に食べてもらいたい、とわざわざ用意してくれたことがとても嬉しい。
私は二つ返事をして、黎斗さんへ満面の笑みを向ける。
彼は安堵した表情になり、再びイスへ腰掛けた。
瑞々しいした紫色をしたベリーが乗った、チーズクリームたっぷりのタルトケーキ。
前回試食させてもらった時は、ベリーではなく別の果物が乗っていた。
乗せる果物が変わっているし、盛り付け方も少しだけ変わっている。
「陽菜ちゃんが好きって言っていたものが乗ってるわねぇ」
おばあちゃんが穏やかに微笑みながら呟いた。
やっぱりそうだ。たまたまじゃなくて、私の好きな果物が採用されている。
黎斗さん、私がベリー系を好きだとこぼしていたのを覚えてくれてたんだ。
彼のほうを見ると、少し気まずそうに目を伏していた。
おばあちゃんに改めて言われたのが照れくさかったのかもしれない。
黎斗さんはおばあちゃんの前ではいつもこうなんだなぁ。
心の中で、ふふふ、と笑いながら私はフォークを手に取りタルトへ突き刺した。
この生地の質感も私の好きな感じだ。サクサクしてるんだけど、しっとりとしていて口当たりの良い溶け方をする。
ベリーも甘く煮詰められていて、中のチーズクリームとも相まってすごく美味しい。
「すっごく美味しいです!」
いつも黎斗さんとおばあちゃんの二人だけで試作を重ねていて、いつも私はただ味見をするだけだった。
知識や技術もないからそんなの当たり前なのに、それがなんだか寂しくて……。
ずっと味見させてもらうたびに心のどこかでモヤモヤを感じていた。
それが今回は私の好みが採用されている。
なんだか仲間に入れてもらえた気がして、なんとも言い表せられない幸せな気持ちになった。
ちらりと黎斗さんのほうを見る。
相変わらずこちらに目線は合わせてくれていない。
と思っていたら、きつく結ばれていた彼の口が静かに開いた。
「いつも作りたいものを作っていたんだが、今回は……食べてもらいたいものを作ったんだ」
それだけ言うと、彼は再びコーヒーカップへ口をつけ始めた。
彼の言葉はつまり、私に食べてもらいたいものを作った、ということでいいのかな。
私の胸がまた、熱く波打ち始める。
このあいだも黎斗さんは言っていた。「陽菜の作るご飯が楽しみだった」って。
あの時から私の心はさらに揺れ始めた気がする。
日々を重ねるほどに溢れそうになる熱いもの。黎斗さんへの気持ちが積もっていく。
また顔が火照りそうになるのを抑えながら、私はタルトを食べ進めた。
美味しそうに幸せそうな笑みで頬張る私の姿を、黎斗さんが視界の端でこっそり眺めていたことには気づかないまま。
その日の閉店後。片付けの終わった厨房で、私と黎斗さんは休憩がてら軽く雑談をしていた。
新作のタルトケーキは常連さんたちにとても喜んでもらえて、お店の外の看板を見て来てくれた初めてのお客様も居たりして。
新作が並ぶたびにドキドキして一日を過ごしてた私たちは、確かな手応えと満ち溢れた気持ちを感じていた。
「タルトケーキ、好評で良かったですね」
「ああそうだな。少し肩の荷がおりた気分だ」
いつも閉店後の休憩で飲む紅茶も、いつもより美味しく感じる。
お腹も心もぽかぽかで温かい。
「そうだ、陽菜」
黎斗さんが改めて座り直して私の名を呼んだ。
なんだろう、とわずかに身構えて私は耳を傾ける。
「今回だけじゃなく今後も、陽菜の感想や意見を聞いて新作を作っていきたいと思ってるんだが……」
そのあと一拍の間を置いて「お前が良ければ一緒に新作作りをして欲しい」と、黎斗さんが言った。
とても落ち着いた、芯のある声色で、私の目をまっすぐ見ている。
また、私の胸が熱く、確かな鼓動を打ち始める。
とくん、とくん、とその動きは少しずつ早くなっていく。
溢れそうになる気持ちを寸でで止めて、落ち着けと自分に唱えながら声を絞り出した。
「私でよければ、ぜひ……!」
笑みとともに告げられた私の言葉を聞いた黎斗さんは、安堵した表情でわずかに上がり固くなっていた肩の力を抜いた。
ありがとう、と静かに呟いた彼。飲みかけだったコーヒーをぐいっと飲み干す。
なんて満ち溢れた日々なんだろう。
この生活を手放したくない。ずっとずっと、このままでいたい。
その瞬間、私の耳に細かく振動する低い機械音が聞こえた。
黎斗さんのズボンのポケットに入れられたスマホのバイブレーションだ。
手に取った黎斗さんが画面を見て、ほんの一瞬だけ表情を変える。
「悪い陽菜。少し席を外す」
黎斗さんはそれだけ言うと、スマホを片手に持ったまま厨房の勝手口から外へ出て行く。
私は少し首を傾げながらも、仕事の電話なのだろうと、とくに気にせず彼を見送った。
……でも、なぜだろう。
窓越しに見える黎斗さんの背中が、なんだか“彼”ではないような気がした。
窓から少し離れた場所で通話を始める黎斗さん。
電話口へ相槌を打つ彼の声がいつもより微かに低い気がした。
仕事で何かトラブルでもあったのだろうか。私の胸がざわつき始める。
「……わ…った。……の……時だな」
途切れ途切れに聞こえる会話。
聞いてはいけないと分かっているのに、私の耳が勝手に彼の声を拾ってしまう。
断片的に聞き取れる言葉を聞いても、なんの会話をしているのかは分からない。
だけど、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。
それ以上聞いてはいけない、関わってはいけないと、心の奥で叫んでも私の耳は聞こてくえる声を塞ぐことは出来なかった。
――と、その時。
「黎斗~、陽菜ちゃ~ん。お夕飯が出来たわよぉ~」
二階からおばあちゃんの呼ぶ声が聞こえて、私の意識がこちらへ戻ってくる。
その言葉を受けて、私は体が勝手に動くのを止められないまま、厨房の勝手口の扉を開いて外へ出た。
外は上着を羽織らないと寒く感じる気温だった。体がぶるると震える。
薄暗く日も落ちかけているけれど、黎斗さんの姿は視認できる。
ゆっくりと黎斗さんのほうへ歩み寄って行った。
「……っ!」
私の足音に気づいた黎斗さんが、顔をこちらに向けて微かに目を瞬かせた。
そして咄嗟の動きでスマホの画面を切り、こちらへ体を向けてくる。
その動作があまりにも速くて、邪魔をしてしまったことに気づいたが、もう遅い。
私はほんの少し罪悪感を覚えた。
でも、どうしても、声をかけずにはいられなかった。
「あの、黎斗さん……」
彼の名前を呼ぶ。怒っていたらどうしよう。指先が震えている。
だけど黎斗さんは穏やかな表情をしていた。いつもの“彼”だ。
ほうっ、と安堵の息が漏れた。
「おばあちゃんが、晩ご飯が出来たって……」
声まで震えてしまわないように気をつけて絞り出す。
黎斗さんは「ああ、そうか」と穏やかに笑って返事をしてくれた。
その笑顔が、いつもの笑顔のはずなのに、なぜだか少しだけ冷たさを感じてしまう。
「寒いから中へ戻るぞ」
「……はい」
黎斗さんが、立ち止まっていた私の肩を優しく押してくれる。
彼の傍で感じる温かさは普通なのに、冷たく感じたのは外気が寒いせいだろうか。
指先はまだ微かに震えている。胸もざわついたままだ。
厨房へ戻ると、外気との温度差で体が一瞬ぶるついた。
私に続いて入ってきた黎斗さんが静かに扉を閉める。
振り向いた時に見えた顔は、いつもと変わらない穏やかで優しい彼だった。
さきほどまで感じていた冷たさはもう無い。
やっぱり外が寒かったから冷たく感じていたようだ。
二階へ続く階段を登り始めると、厨房の電気が消えて黎斗さんも続いて来た。
キッチンへ向かうにつれて漂ってくる夕飯の匂いに、安堵するとともに体が温かくなっていくのを感じた。
◇
陽菜がキッチンへ向かうのを見届けて、厨房の明かりを消した黎斗は静かに息を吐いた。
――任務開始まで、あと三時間。
どこを見渡しても何も見えなくて、どこまでも続く闇だけが広がっている。
そう思っていると、ぼんやりと光るものが見えた。
そう思うと同時に、それは次第に輪郭をはっきりとさせていく。
光っていると思ったものは人だった。
――黎斗さんだ。
後ろ姿だけでもそれが黎斗さんだと分かる。
黎斗さん、そこで何をしているの? どうしてこっちを向いてくれないの?
私はここに居るよ。ずっと貴方のそばに居るよ。こっちを向いて。
ねえ、黎斗さん――。
「……黎斗さんっ!」
自分の声に驚いて、はっと目を覚ました。
視界に広がるのは、見慣れた天井と愛用してるふかふかの布団。
乱れていた呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
どうやら私は夢を見ていた。それも怖いと感じるほどのものを。
のそのそと起き上がり、楽な体勢になるように座り込んだ。
夢で良かった、と心底ほっとする。
枕元に置いてあるスマホへ手を伸ばそうとした時、そこにあるには不自然な物が目に入った。
濃い色をした、スウェットのようなズボン生地。
なんだこれは。私が疑問に思うと同時に頭上から声が降ってきた。
「大丈夫か、陽菜?」
この場所で聞こえるはずのない声。低くて柔らかい、胸が高鳴る音。
私の部屋になんて居るはずのない、居るなんておかしい人物の声。
ドクンドクン、と心臓から全身へすごい勢いで血液が送られていく。
「れ、黎斗さん……!?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
なんで黎斗さんが私の部屋に? いったいどうして?
色んな疑問符が次々と浮かんで、私は文字通り混乱した。
私の部屋は、お店や黎斗さんたちの部屋とは離れた場所にある。
離れているとは言っても、中庭を挟んだだけのすぐ目の前なのだが。
「ずいぶんうなされていたぞ、お前」
黎斗さんが私と同じ目線まで座り込んだ。
少し覗き込むような体勢で、その表情は明らかな心配の色をしている。
「あ、えっと……怖い夢を見て……」
「怖い夢、か……」
なるほど、と腑に落ちた表情をする黎斗さん。
でもその夢の内容までは言えなくて、それ以上はぐっと口をつぐんだ。
そんな私の様子を見てか、夢の内容を掘り下げられることはなかった。
安堵をしたところでふと、私は気づいた。
今の、この部屋で、私が置かれている状況に。
ベッドの上に座り込んだ私と、その私と目線を合わすように座り込んでベッドの縁へ組んだ両腕を乗せている黎斗さん。
私はパジャマ姿。黎斗さんも部屋着だ。
寝起きの顔に、寝癖だらけの髪。
おまけにパジャマという油断しきった姿。
絶対に見られたくない姿を、今まさに、見られたくない人に見られている。
顔から火が出る、とはこの事だ。
顔や体も一気に熱くなって、羞恥心で爆発しそうになっている。
「れ、れれ、黎斗さんはなんでここにいるんですか……?」
声が震えている。動揺し過ぎているが聞かずにはいられない。
気づくのが遅すぎた質問をぶつけられた彼は、ふむ、といった表情になる。
「時計を見たか? お前が寝坊しないように起こしに来たんだ」
ほんの少し口元を緩めた黎斗さんが、穏やかな口調で答えた。
その言葉に、私はハッとする。
時計を見ると、時刻は私がいつも起きる時刻を過ぎていた。
「あ、あああっ……!」
悲鳴とも取れる情けない声を出して私は飛び起きた。
そんな私を見て、黎斗さんは面白そうにクツクツと喉で笑っている。
バタバタと制服をハンガーから外したり、慌てている様子の私を眺めた彼は、立ち上がってドアのほうへ歩み寄り、振り返りながらこう言った。
「勝手にお邪魔して悪かったな。でも、陽菜のパジャマ姿は悪くなかったぞ」
「…………っ!?」
ぱたん、と扉が閉められて黎斗さんが出て行った。微かに吐息笑いも聞こえる。
制服を握りしめたまま、真っ赤な顔で立ち尽くす私の姿が見られなくてよかった。
しばらくの間、指先が震えてまともに支度ができなかったことも黙っておこう。
それでもなんとか身支度を終えた私は、急いでキッチンへと向かった。
近づくほどに甘くて良い香りが漂ってくる。
これは、おばあちゃんがよく淹れてくれるミルクティーの香りだ。
キッチンでは、黎斗さんとおばあちゃんがすでに朝食を囲んでいた。
二人とも私に気づいて「おはよう」と声をかけてくれる。
私の分の朝食もきちんと用意されていて、ほかほかとトーストが湯気を立てていた。
みんなで一緒にご飯を食べられるのは本当に嬉しい。
幸せそうな表情でトーストを頬張る私を見て、おばあちゃんが優しく微笑んでくれるのもいつもの光景だ。
先に食べ終わり食後のコーヒーでまどろんでいた黎斗さんが、ふと話を切り出してきて私は咀嚼するのを止めた。
「以前から試作を重ねていたケーキだが」
黎斗さんは飲んでいたコーヒーをいったんテーブルの上に置き、冷蔵庫から何かを取り出して再びテーブルへ戻ってきた。
手に持っているのは見覚えのあるケーキだが、今まで見てきたものと少し見た目が変わっている。
黎斗さんの口ぶりからするに、これは……。
「ついに完成したぞ」
私の前へケーキの乗ったお皿が置かれた。
今まで何度も試行錯誤を重ねてきてたどり着いた完成品。
見るだけで口の中が涎で溢れそう。
キラキラと目を輝かせて眺めていた私だったが、二人とも黙っていることに気づいた。
顔を上げて二人を交互に見やると、黎斗さんがコホンと咳払いをひとつした。
「……陽菜に食べてもらいたいんだが、いいか?」
その言葉に胸の奥がトクンと跳ねた。
試食をしてもらったり、その都度感想を聞かせてもらったお礼だろうか。
私に食べてもらいたい、とわざわざ用意してくれたことがとても嬉しい。
私は二つ返事をして、黎斗さんへ満面の笑みを向ける。
彼は安堵した表情になり、再びイスへ腰掛けた。
瑞々しいした紫色をしたベリーが乗った、チーズクリームたっぷりのタルトケーキ。
前回試食させてもらった時は、ベリーではなく別の果物が乗っていた。
乗せる果物が変わっているし、盛り付け方も少しだけ変わっている。
「陽菜ちゃんが好きって言っていたものが乗ってるわねぇ」
おばあちゃんが穏やかに微笑みながら呟いた。
やっぱりそうだ。たまたまじゃなくて、私の好きな果物が採用されている。
黎斗さん、私がベリー系を好きだとこぼしていたのを覚えてくれてたんだ。
彼のほうを見ると、少し気まずそうに目を伏していた。
おばあちゃんに改めて言われたのが照れくさかったのかもしれない。
黎斗さんはおばあちゃんの前ではいつもこうなんだなぁ。
心の中で、ふふふ、と笑いながら私はフォークを手に取りタルトへ突き刺した。
この生地の質感も私の好きな感じだ。サクサクしてるんだけど、しっとりとしていて口当たりの良い溶け方をする。
ベリーも甘く煮詰められていて、中のチーズクリームとも相まってすごく美味しい。
「すっごく美味しいです!」
いつも黎斗さんとおばあちゃんの二人だけで試作を重ねていて、いつも私はただ味見をするだけだった。
知識や技術もないからそんなの当たり前なのに、それがなんだか寂しくて……。
ずっと味見させてもらうたびに心のどこかでモヤモヤを感じていた。
それが今回は私の好みが採用されている。
なんだか仲間に入れてもらえた気がして、なんとも言い表せられない幸せな気持ちになった。
ちらりと黎斗さんのほうを見る。
相変わらずこちらに目線は合わせてくれていない。
と思っていたら、きつく結ばれていた彼の口が静かに開いた。
「いつも作りたいものを作っていたんだが、今回は……食べてもらいたいものを作ったんだ」
それだけ言うと、彼は再びコーヒーカップへ口をつけ始めた。
彼の言葉はつまり、私に食べてもらいたいものを作った、ということでいいのかな。
私の胸がまた、熱く波打ち始める。
このあいだも黎斗さんは言っていた。「陽菜の作るご飯が楽しみだった」って。
あの時から私の心はさらに揺れ始めた気がする。
日々を重ねるほどに溢れそうになる熱いもの。黎斗さんへの気持ちが積もっていく。
また顔が火照りそうになるのを抑えながら、私はタルトを食べ進めた。
美味しそうに幸せそうな笑みで頬張る私の姿を、黎斗さんが視界の端でこっそり眺めていたことには気づかないまま。
その日の閉店後。片付けの終わった厨房で、私と黎斗さんは休憩がてら軽く雑談をしていた。
新作のタルトケーキは常連さんたちにとても喜んでもらえて、お店の外の看板を見て来てくれた初めてのお客様も居たりして。
新作が並ぶたびにドキドキして一日を過ごしてた私たちは、確かな手応えと満ち溢れた気持ちを感じていた。
「タルトケーキ、好評で良かったですね」
「ああそうだな。少し肩の荷がおりた気分だ」
いつも閉店後の休憩で飲む紅茶も、いつもより美味しく感じる。
お腹も心もぽかぽかで温かい。
「そうだ、陽菜」
黎斗さんが改めて座り直して私の名を呼んだ。
なんだろう、とわずかに身構えて私は耳を傾ける。
「今回だけじゃなく今後も、陽菜の感想や意見を聞いて新作を作っていきたいと思ってるんだが……」
そのあと一拍の間を置いて「お前が良ければ一緒に新作作りをして欲しい」と、黎斗さんが言った。
とても落ち着いた、芯のある声色で、私の目をまっすぐ見ている。
また、私の胸が熱く、確かな鼓動を打ち始める。
とくん、とくん、とその動きは少しずつ早くなっていく。
溢れそうになる気持ちを寸でで止めて、落ち着けと自分に唱えながら声を絞り出した。
「私でよければ、ぜひ……!」
笑みとともに告げられた私の言葉を聞いた黎斗さんは、安堵した表情でわずかに上がり固くなっていた肩の力を抜いた。
ありがとう、と静かに呟いた彼。飲みかけだったコーヒーをぐいっと飲み干す。
なんて満ち溢れた日々なんだろう。
この生活を手放したくない。ずっとずっと、このままでいたい。
その瞬間、私の耳に細かく振動する低い機械音が聞こえた。
黎斗さんのズボンのポケットに入れられたスマホのバイブレーションだ。
手に取った黎斗さんが画面を見て、ほんの一瞬だけ表情を変える。
「悪い陽菜。少し席を外す」
黎斗さんはそれだけ言うと、スマホを片手に持ったまま厨房の勝手口から外へ出て行く。
私は少し首を傾げながらも、仕事の電話なのだろうと、とくに気にせず彼を見送った。
……でも、なぜだろう。
窓越しに見える黎斗さんの背中が、なんだか“彼”ではないような気がした。
窓から少し離れた場所で通話を始める黎斗さん。
電話口へ相槌を打つ彼の声がいつもより微かに低い気がした。
仕事で何かトラブルでもあったのだろうか。私の胸がざわつき始める。
「……わ…った。……の……時だな」
途切れ途切れに聞こえる会話。
聞いてはいけないと分かっているのに、私の耳が勝手に彼の声を拾ってしまう。
断片的に聞き取れる言葉を聞いても、なんの会話をしているのかは分からない。
だけど、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。
それ以上聞いてはいけない、関わってはいけないと、心の奥で叫んでも私の耳は聞こてくえる声を塞ぐことは出来なかった。
――と、その時。
「黎斗~、陽菜ちゃ~ん。お夕飯が出来たわよぉ~」
二階からおばあちゃんの呼ぶ声が聞こえて、私の意識がこちらへ戻ってくる。
その言葉を受けて、私は体が勝手に動くのを止められないまま、厨房の勝手口の扉を開いて外へ出た。
外は上着を羽織らないと寒く感じる気温だった。体がぶるると震える。
薄暗く日も落ちかけているけれど、黎斗さんの姿は視認できる。
ゆっくりと黎斗さんのほうへ歩み寄って行った。
「……っ!」
私の足音に気づいた黎斗さんが、顔をこちらに向けて微かに目を瞬かせた。
そして咄嗟の動きでスマホの画面を切り、こちらへ体を向けてくる。
その動作があまりにも速くて、邪魔をしてしまったことに気づいたが、もう遅い。
私はほんの少し罪悪感を覚えた。
でも、どうしても、声をかけずにはいられなかった。
「あの、黎斗さん……」
彼の名前を呼ぶ。怒っていたらどうしよう。指先が震えている。
だけど黎斗さんは穏やかな表情をしていた。いつもの“彼”だ。
ほうっ、と安堵の息が漏れた。
「おばあちゃんが、晩ご飯が出来たって……」
声まで震えてしまわないように気をつけて絞り出す。
黎斗さんは「ああ、そうか」と穏やかに笑って返事をしてくれた。
その笑顔が、いつもの笑顔のはずなのに、なぜだか少しだけ冷たさを感じてしまう。
「寒いから中へ戻るぞ」
「……はい」
黎斗さんが、立ち止まっていた私の肩を優しく押してくれる。
彼の傍で感じる温かさは普通なのに、冷たく感じたのは外気が寒いせいだろうか。
指先はまだ微かに震えている。胸もざわついたままだ。
厨房へ戻ると、外気との温度差で体が一瞬ぶるついた。
私に続いて入ってきた黎斗さんが静かに扉を閉める。
振り向いた時に見えた顔は、いつもと変わらない穏やかで優しい彼だった。
さきほどまで感じていた冷たさはもう無い。
やっぱり外が寒かったから冷たく感じていたようだ。
二階へ続く階段を登り始めると、厨房の電気が消えて黎斗さんも続いて来た。
キッチンへ向かうにつれて漂ってくる夕飯の匂いに、安堵するとともに体が温かくなっていくのを感じた。
◇
陽菜がキッチンへ向かうのを見届けて、厨房の明かりを消した黎斗は静かに息を吐いた。
――任務開始まで、あと三時間。