恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜

4.優しい嘘の温度

 ある日の夕食後。おばあちゃんから買い出しを頼まれた。
 可愛いスイーツ柄のメモ用紙には、達筆な字でいくつかの日用品や食品が書かれている。
 最後の行には“陽菜ちゃんの好きなお菓子”とも書かれていた。

 私はウッキウキで跳ねながら自室へ戻り、身支度をしながら時計を見た。
 日も沈み暗くなったけれど、出かけるにはまだ十分な時刻。
 お気に入りのショルダーバッグを下げたら出かける準備は完了だ。

 どのお店から回ろうか、と思案しつつ部屋を出て廊下を進む。
 ここを曲がれば玄関だ、というところで、柔らかいけれど硬いものにぶつかった。

「……わぷっ!?」
「おっと。悪い、大丈夫か?」

 ぶつかったものの正体は黎斗さんだった。
 慌てて一歩下がって顔の見える距離をあける。
 どこかへ出かけるのか、黎斗さんは厚めの黒いジャケットを羽織っていた。

「大丈夫です。黎斗さんもお出かけですか?」
「ああ。その買い出し、俺も一緒に行く」
「へっ……?」

 ジャケットのポケットから車のキーを取り出して、くるくると見せてきた黎斗さん。
 私が状況を飲み込めずに呆けていると、「行くぞ」と言って先頭を歩き始めた。
 一拍遅れて理解した私は慌ててその後ろを追いかける。

 靴を履きながら悶々と思考が巡る。黎斗さんと一緒にどこかへ出かけるのは初めてだ。
 これは、もしかしなくても、いわゆる“デート”というものになってしまうのでは……。
 私は震えてきた指先を必死でごまかしながら靴を履き終えた。

 ドアを開けて待っていてくれた黎斗さんにお礼を言って一緒に外へ出る。
 屋根付きの駐車場へ停められている黎斗さんの愛車。今までただ眺めるだけでいたその車に、ついに乗せてもらえる。
 じわりと手のひらに汗が滲んできた。胸の鼓動も早くなった。

 黎斗さんの愛車は、いかにも男の人が好きそうな見た目のもので、詳しくない私でもカッコイイ車だということが分かる。
 真っ黒な車体はいつも綺麗でピカピカしていて、休みの日なんかは車を洗ったりドライブに出かける彼の姿をよく見た。

 そこで私は気づく。
 私が乗る席は、いったいどこにしたらいいのか。

 思わず助手席に乗ろうとしたが、男性にとって自分の愛車の助手席はとても大切な席のはず。
 ドアノブに伸ばしかけた腕を引っ込めて、ふう、と息を吐いて冷静になる。
 黎斗さんの愛車に乗せてもらえるというこの大事な時に、乗る席を間違えてはいけない。

「陽菜」
「…………っ!」

 そうやって私が悶々と悩み、立ち止まっていることに気づいたのか、黎斗さんが私の名前を呼ぶ。
 ほんの少し身構えつつ顔を上げると、黎斗さんは私をまっすぐ見ていて、穏やかな表情を浮かべたまま「遠慮しなくていいんだぞ」と続けた。
 遠慮しなくていい、その言葉を聞いてまたさらに悩みそうになった私だけど、彼の言葉を信じて、えいっ、と助手席のドアを開けた。

「わ、わあ……!」

 初めて乗る黎斗さんの車。初めて乗るとても立派な車。座席さえも想像していたものを超える座り心地だ。
 なにもかもが初めての出来事で、私は思わず車内をきょろきょろと見渡してしまう。
 そんな私を見て黎斗さんが喉で笑っている声が聞こえて、私は慌てて姿勢を正した。

「そういえば俺の車に乗るのは初めてだったか」

 黎斗さんが気づいたように言う。
 おばあちゃんを乗せて車で出かけるところは何度も見たことがあるけど、私は一度も無いことを告げると彼は、ふむ、といった表情になった。

「初めてで緊張してるか?」
「えっ……そ、それは……そうですけど、」

 声がうわずる。緊張しているのがバレている。
 こんな立派な車のうえに黎斗さんが大事にしている愛車だ。緊張しないはずがない。

 いや、あまり緊張しすぎても黎斗さんに失礼かもしれない。
 そう思った私は、落ち着こうとゆっくり深く深呼吸をした。
 すると突然、黎斗さんが体をこちらに寄せてきて、驚いた私の口からひっくり返った声が出た。

「なっ、な……!?」
「シートベルトはしっかりな」

 黎斗さんの腕が伸びて私側のシートベルトを掴んだあと、その身が下がりガチャリと音がした。
 心臓が口から飛び出るかと思った。鼓動が駆け足を刻み続けている。

「あ、あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」

 震える声の私。隣からはクツクツと喉で笑っている声が聞こえる。
 車に乗ったらシートベルトを締めないといけないのに、緊張のあまりすっかり忘れていた。
 至近距離になったせいで黎斗さんから香った良い匂いが、まだ私の鼻腔をくすぐっている。


 お店までの道中はずっとソワソワしっぱなしだった。
 車内という密室空間に黎斗さんと二人きり。しかも運転席と助手席という至近距離。
 気を遣ってくれた彼がオーディオを流してくれていたけど、何の曲が流れていたかまったく覚えていない。

 ハンドルを握る手、ギアを動かす仕草。
 運転をする時だけ眼鏡をかけることも初めて知った。
 そんな普段見ているものとは違う黎斗さんの姿に、私の心臓はずっと早足で鼓動を刻み続けていた。

 目的のお店に着き、いざ買い出しが始まると、さすがにこのままでいけないと気を引き締まる。
 メモに書かれた物をしっかりと買って帰らなければならない。それが私の仕事だ。
 買い物カゴを持ってくれている黎斗さんへ、次はこれ、次はあれ、と伝えていく。

 しばらく二人であちこち回ったあと、全部そろったかな、とメモを上から順に確かめていった。
 ふと、目の前に影が落ちて、私は首を傾げながら顔を上げた。

「それ、最後なんて書いてあるんだ?」
「……え?」

 黎斗さんに気づかれた。ススッ、と彼が向きを変えて私のすぐ傍に立つ。
 ち、近い。と思ったけれど動けずに、私は黙ってメモを彼へ見せた。
 私より頭ひとつ分ほど高いところにある黎斗さんの顔が近づいてくる。

「“陽菜ちゃんの好きなお菓子”」
「……は、はい」
「ほう……?」

 黎斗さんの低い声が耳元で聞こえて、ぶるる、と体が震えた。
 なるほどね、といった様子でメモの内容を咀嚼している彼。
 体が離れたと気づいたときには、黎斗さんはスタスタと前を歩き始めていた。

 慌てて後ろを着いて行く。
 どこへ向かうのだろうと疑問に思っていると、たどり着いた場所はスイーツ売り場。
 お菓子売り場ではないじゃないか、と思わず突っ込みそうになる。

 でもこのお店の手作りスイーツはどれも美味しそうなものばかり。
 いつも一人で買い出しに来ては、食べたいなぁと眺めるばかりで買って帰ったことは一度もなかった。
 もしかして、黎斗さんがここへ来たということは、ここのスイーツを買って帰っても良いということ!?

 私はウキウキで売り場を眺めた。色とりどりの美味しそうなスイーツが並んでいる。
 お菓子がスイーツになってもきっとおばあちゃんは怒らないだろう。

「お前も好きなのを選べよ。ばあちゃんは孫に甘いものだからな」

 黎斗さんが悪い笑みを浮かべて言った。
 この男、おばあちゃんの生態をよく理解している。いい歳の大人なのに。
 黎斗さんのぶんのスイーツがひとつ増えても、おばあちゃんは優しく微笑むだけだろう。孫に甘い、というよりは、ただ唯一の大切な家族なのだから。


 なぜかメモに書かれた物よりいくつか量の増えた気がする買い出しは終わった。
 駐車場までの道は短いとはいえ、黎斗さんがすべての袋を持ってくれている。
 その状況に、私は少々申し訳無さを感じていた。

「あの、黎斗さん。私もちょっと持ちます」
「いーや、ダメだ。お前は前に落とした前科がある」

 うっ……。一人で買い出しへ行った時に、無理をして持って帰って来て袋を落としたことがあるのをなぜ知っているんだ。
 たしかに黎斗さんのほうが力はあるし、遠慮するほどの量でもないことは分かっているけど……。

「……お前は少し無理をするところがあるから、こういう時ぐらい甘えろ」

 黎斗さんが真面目な声色でそう呟いた。
 無理をするところがある、自分でも少しだけ自覚していることだ。
 私がたまに無理をしていたこと、黎斗さん知ってたんだ。

「ありがとうございます……」

 黎斗さんの目を見てお礼を言う。彼は穏やかに微笑んでくれた。
 胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
 私のことを見ていてくれていたことが嬉しい、そんな気持ちでいっぱいだ。

 ――その時、聞き覚えのあるバイブレーションの音がした。
 音のしたほうへ顔を向けると、黎斗さんも同じように足を止めていた。

 持っていた買い物袋を器用に持ち替えて、ジャケットからスマホを取り出した黎斗さんは、画面をチラと確かめたあと、震え続けているスマホをポケットへ戻した。
 画面を見た時の黎斗さんの表情が、一瞬だけ変わったように思えた。
 私の手に汗がじわりと滲む。

 こちらを振り向いた黎斗さんが「大丈夫だ」と、一言だけ呟く。
 その笑顔が、笑っているはずなのに、どこか冷たさを感じてしまって私の体が震える。
 この間と同じだ。そう思ったけど、なにも言えなくて黙り込んでしまう。

「少し電話してくるよ。先に車へ乗っててくれ」
「……わかりました」

 黎斗さんからキーを受け取る。持てる分だけの袋も預かって私は言われた通りに車へ向かった。
 車を見つけて荷台に乗せたあと、後ろを振り向いた時に、遠くに黎斗さんの姿を見つける。

 柱の影に隠れてきちんとは見えないけど、スマホを耳に当てて通話をしている。
 声は聞こえない。何を話しているのか分からない。
 黎斗さんがスマホをおろして画面をタップした。通話を終えたみたいだ。

 車に乗っていてくれと言われたのに、私はその場を動けなかった。
 彼の様子が気になる、見たい。
 見てはいけないかもしれないのに、目が離せない。

 ふと、黎斗さんが顔を上げて何かに気づく。体ごとそちらの方へ向いた。
 口が動いている。誰かと話をしている? いったい誰と?
 ……だめだ。柱に隠れてなにも見えない。分からない。

 どうして黎斗さんの顔がいつもと違うの。
 あの時と同じ、あの夜に見た、冷たくて影のある顔をしている。

 声をかけそうになる。足を動かしそうになる。
 でも彼の邪魔をしてはいけない、と頭の片隅でなんとか踏ん張った。

 その時、黎斗さんが柱の影から出てきた。
 私に気づいて向けてきた表情はいつもの見慣れた穏やかな笑み。
 さきほどまで薄っすら感じていた冷たさはもうない。

 私は安堵した。漏れた吐息が白く広がって溶けていく。
 車へ戻ってきた黎斗さんへ向けて「おかえりなさい」と声をかける。
 黎斗さんは優しい声色で「ただいま」と答えたあと、持っていた残りの買い物袋を荷台に乗せた。

「寒かっただろ。乗っていてよかったのに」
「……そうですね。でも、待っていたかったので」

 私の言葉を受けて、黎斗さんが目を瞬かせる。
 そして少しの間のあと、彼がゆっくりと静かに荷台の扉を閉めた。

 車内がなんとなく居心地の悪い気がする。変なことを言ってしまっただろうか。
 仕事の電話をしていたと思ったら、そのあとその場で誰かと話していた。
 もしかして、私やおばあちゃんには言えない悩みを抱えているのでは……。

 そんな考えが過ぎって、私は頭を左右に振る。
 もしそうだとしても私が出る幕じゃない。黎斗さんが仕事のことで相談するとしたらおばあちゃんだ。
 ただの従業員で、ただの居候で……。そんな立場の私がしゃしゃり出たところで何も分からないのだから、ただ迷惑なだけだ。

 私はシートベルトを握りしめながら悶々とそう考える。
 夜の暗がりと、思考がぐちゃぐちゃの状態だったからか、シートベルトを差す先が見つからず思わず「あれ……」と声を漏らしてしまった。

「ここだな」
「あっ……」

 黎斗さんの骨ばった大きな手が伸びてきて、私の手ごとを鷲掴むと、差し込むべき所へ誘導してくれた。
 彼の手に力が加わったのを重なった肌ごしに感じて、ガチャリと音がして差し込まれる。
 あわわわ、と口をパクパクさせて固まってしまう私。今の一瞬で体温が急上昇した。

 こんな二人きりの密室空間で、手と手とはいえ、肌が密着することになろうとは思ってもいなかった私は心臓が張り裂けそうになっている。
 はひはひ、と呼吸を整える。ショルダーバッグの紐を握りしめた手がまだ小刻みに震えていた。

 ――その時。くらり、と目眩のような感覚を覚えた。
 一瞬の間に色々な映像が頭に入り込んでくる。
 数枚の紙芝居を一瞬で見せられたような、そんな感覚。

 今のは一体なに……。そう思う頃には目眩は跡形もなく治まった。
 見えたものの中に確かに“黎斗さんの姿”があった。でもそれがどんな光景だったのかは分からない。
 たしかに“黎斗さん”が居た。それに、彼が握りしめていた物は一体……。

 隣からガチャリと音が聞こえて、私はハッとする。
 黎斗さんがシートベルトを締めた。もう間もなく発車をする。

 眼鏡をかけた黎斗さんがキーをひねりエンジンをかけた。
 車が大きな音を立てて揺れる。「じゃあ帰るぞ」と彼が一言呟いて車は駐車場から出発した。

 夜の街の灯りが次々と流れていく。
 車内はエンジン音とカーオーディオの音楽だけが響いている。
 お互い一言も発しない。ずっと沈黙が流れていた。

 静かに車を走らせている黎斗さんの横顔を見る。
 見慣れた、私の好きな穏やかな顔だ。彼のその顔を見ると安心する。
 けれど駐車場で見た黎斗さんの顔は、知らない人みたいだった。

 私の知らない黎斗さんの顔。なにか悩みがあるなら力になりたい。
 でも、私にはそんな知恵も経験もないし、そんな立場にもいない。
 話を聞くくらいなら出来るかもしれないけど、それすらも必要ないと言われたら立ち直れない。

 今のこの関係を壊したくない。
 毎日あのお店で楽しく過ごして、黎斗さんにからかわれて他愛もない会話をして、おばあちゃんの美味しいご飯を食べる。そんな生活を失くしたくない。

 ぎゅっ、と唇を噛みしめる。もうすぐ私たちのお店が見えてくる。
 家のある裏手に車を回したら、二人きりの時間も終了だ。
 名残惜しくないように、黎斗さんの運転する姿を焼き付ける。

「陽菜はこれだけ持って入ってくれ」
「はい」

 到着したあと、黎斗さんからスイーツの入った袋を受け取って返事をする。
 出かける前より気温の下がった夜の空気は、長居するには少しだけ厳しい。
 お互いに好きなものを選んだスイーツを冷蔵庫に入れるべく、私は早足で家の中へと向かった。

   ◇

 陽菜が嬉しそうにスイーツの入った袋を握りしめて家の中へ入って行くのを、黎斗は黙って見届ける。
 見計らったようにポケットの中で震え始めたスマホを取り出して、静かに画面を眺めた。

『目標確認。予定通り。』

 黎斗は素早く画面をタップし、『了解』の一言だけ打ち込むと送信ボタンを押す。
 ――今夜の任務開始まで、あと二時間。
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