恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜

8.触れてはいけない秘密

 いつも通りの朝。いつも通りの厨房。
 ――ただひとつ違うのは、私がそれを“普通”だと思えなくなってしまったこと。

 嗅ぎ慣れた甘い香りが満ちている厨房。
 オーブンの熱と、焼き上がる生地の匂い。
 変わらないはずのその空気が、今日は少しだけ遠く感じる。

「これ運んでおいてくれるか」
「はい」

 黎斗さんから焼き上がったものを受け取る。
 会話はあるけれど、どこか表面的でぎこちない。
 彼もそれをなんとなく感じているようで、無理に会話を広げようとはしてこなかった。

 普段通りに仕事をしているように見える黎斗さん。
 その表情も、その手つきも、なにもかも私の知っているいつもの彼だ。
 繰り返し見るあの“知らない黎斗さん”の面影は微塵も感じない。

 ここ最近なぜか頻繁に見るようになったあの光景が、心のざわつきとトゲが抜けないような痛みを抱え続けている。
 黎斗さんとはもう一年近く一緒に過ごしているのに、どうして最近になって突然あんなものが見えるようになったんだろう。

 黎斗さんに触れたらまた見てしまうはず。きっと、見えてしまうはず。
 私の意思とは関係なく頭の中に流れ込んでくる光景。
 見たくないのに、見えてしまう。

「…………」

 無意識に黎斗さんの手を眺めてしまっていた。そっと視線を落とす。
 ときどき彼からの視線を感じるけれど、すぐにその気配もなくなる。
 ぎこちない、ということを黎斗さんも薄々と感じているのかもしれない。

 お互いに形だけの微笑みを浮かべていることに、普段とは違う空気を感じていた。


   ◇


 今日も静かな一日だった。否、あえて静かにしていた、が正解かもしれない。
 違和感があるといえばそうなのだが、触れないようにしている空気を感じて“普段通り”をあえて演じていた気がする。
 黎斗はひとりの自室で、虚空を眺めて深い溜め息を吐いた。

 違和感といえば、この依頼もそうだ。
 紙書類で直接の受け渡しがあったと思えば、メール添付で書類が届いたりする。
 複数人が関与しているのか、依頼の端々でまったく一貫性がない。

 受け取った資料にも違和感はあちこちにあった。
 捜索対象となっている人物の情報。漠然としたものばかりでどういう人物なのかいまいち浮かび上がらない。
 依頼を受けて以降ずっと調べているが、依頼した側もあまり情報を掴めていないのか、はたまたグレーな領域のものなのかと勘ぐるような状況だった。

「…………はぁ」

 依頼の仕事も、プレイベートも、思うように上手くいかない。
 裏の仕事である以上ややこしい案件があるのはしょうがないだろう。
 しかしプライベートに関しては納得がいかない。黎斗の唇が噛み締められる。

 最近、陽菜の様子がどこかおかしい。
 体の調子が悪いのか立ち眩みのようなものを起こしている場面を何度も見た。
 すぐに治まるものばかりで最初は心配ないと思っていたが、ここ数日で頻度が増している気がする。

 黎斗がベッドに背を預けて天井を仰ぐ。腕を伸ばして手のひらを見つめる。
 あの日、陽菜の体を後ろから抱きしめたとき。その手の小ささや、体の細さに驚いた。
 守ってやりたい。以前から燻っていた感情が一気に芽生えた。

 それなのに現実は何も出来ていやしない。
 仕事で失敗をして軽くパニック症状を起こした彼女を見て、ただ抱きしめることしかできなかった自分にやるせなさを感じている。

 ……あんなに怯えて混乱する陽菜は初めて見た。
 黎斗の眉間に皺が寄る。
 勢いよく上半身を起こし、引き出しから書類を取り出したあと携帯を引っ掴む。

 バラバラに寄越された依頼資料に、片っ端から目を通していく。
 探し出してほしいというわりに知られたくないのか断片的で漠然としたものしかない情報。
 怪しいと疑るには十分すぎるそれらをまとめて繋ぎ直していく。

 そして見えてきた、繋がったもの。
 謎だった『とある能力』とは『接触による過去の記憶の読み取り』。
 それも発作的に発現するということが分かった。

「……そんなことが、本当にあるのか」

 探してほしいのか知られたくないのか、矛盾していたことにも合点がいく。
 もしこの能力が本当なら、捜索対象の人物を見つけだしても捕らえるのは難しい恐れがあるということ。

 黎斗の表情が、険しくなった。


   ◇


「陽菜、それを取ってくれ」
「はいっ」

 厨房で朝の準備中。黎斗さんが指さした伸ばし棒を取って渡そうとした。
 黎斗さんの指先が、私の指にほんの少し触れる。

「…………っ!」
「陽菜?」

 咄嗟に手を引いてしまった。
 見たくないのに、またあの光景を見てしまったらどうしよう。
 そんな気持ちから出た咄嗟の反応が、逆におかしな行動となってしまった。

 私たちの間に沈黙が流れる。
 そのまま改めて渡せばいいのに、体がすぐに動かない。
 先に口を開いたのは黎斗さんだった。

「どうした?」

 優しくて穏やかな声色。心配するような色が感じ取れる。
 ……けれど彼の顔を直視することができない。

「っ、ごめんなさい、びっくりして……」

 指が当たって驚いた。ただそれだけ。
 ぎこちない笑みを貼り付けながら、それっぽいことを説明した。

 伸ばし棒を受け取った黎斗さんが「そうか」と頷きながら作業へ戻る。
 よかった、ごまかせた……。安堵の溜め息を静かに吐いた。

 私もすぐに作業に戻り、変わりないいつもの日常を続ける。
 けれど“意識しない”ということは、意外と難しいんだなと痛感する。
 どんなに平静を装っても頭のどこかで忘れることができずにいた。

 黎斗さんの手や腕に触れしまえば、またあの光景を見てしまうかもしれない。
 知らなくていいことまで、知りたくないものまで見えてしまうかもしれない。

 またあの光景が、“夜の黎斗さん”の姿が脳裏に蘇る。
 一度見てしまった光景は、焼き付いて簡単に忘れることができない。
 ふとしたときにまで思い出すようになってしまった。

 今まで何気なく黎斗さんに触れてしまうことなんてよくあったのに……。
 見ようとしているわけじゃないのに、触れてしまうと見てしまうんじゃないかと思えて黎斗さんに触れることが怖くなっていた。

「…………っ」

 目の前が真っ暗になる感覚がした。
 体がふらついて倒れそうになる予感がして咄嗟にテーブルへ手を置く。
 ……大丈夫。なんとか倒れずにすんだ。

「大丈夫か?」

 心配する声が聞こえて振り向くと、黎斗さんが私のほうへ腕を伸ばそうとしているところだった。

「だ、大丈夫です。ちょっと、ぼーっとしちゃって」

 えへへ、と笑ってごまかす。
 けれど私を心配してなのか、黎斗さんはずっとこちらを向いたまま。少し眉間に皺を寄せているような気がする。
 じっと見つめられていて、視線が痛い。

「……偶然、か?」
「え?」

 ぽつり、と呟いた黎斗さんの言葉がうまく聞き取れなかった。
 微笑んで「いや、大丈夫ならいいんだ」と続けた黎斗さんはそのまま作業に戻ってしまい、なんと言ったのか分からないまま。
 私もそれ以上は聞き直すことができなかった。


 黎斗さんも私も普段と同じ、いつも通りの日常を過ごしているように思う。
 けれどお互いに何かを感じているような、そんなふうに思えた。
 日を跨いでもそれが変わることはなく、微かなぎこちなさを感じながら過ごしていた。

 触れないように、触れてしまわないように。どこかで意識してしまっていたんだと思う。
 何気ない作業中や物の受け渡しのとき、黎斗さんから必要以上に距離を取ってしまっていることに気づいたのは他でもない彼自身だった。

「陽菜」

 私の名前を呼ばれて背筋がビクついて体が固まる。
 低く抑揚のない彼の声。いつもと違う声だとすぐに分かった。
 ドクンドクン、心臓の鼓動が早くなる。冷や汗のようなものも感じた。

「今日はやけに避けるな」

 その一言にトゲの刺さる感覚がした。
 すぐに返事をできなくて、声が喉に詰まる。

「そ、そんなこと、ないです」

 必死に絞り出した声は微かに震えていた。
 黎斗さんのほうを見ることができなくて、その場に立ちすくむ。

 近づいてくる足音が聞こえた。全身が強張る。
 すぐ傍まで来た気配を感じて、恐る恐る振り向いた。

「無理してるだろ」

 私を見下ろす黎斗さんの瞳は、優しくて穏やかな色をしていた。
 怒ってるわけじゃなかった。安堵すると同時に強張っていた体がスッとほぐれる。

 けれど、詰められた距離に心がざわついている。肌で感じる何かが違う。
 逃げ場のない空間で息が詰まりそうになった。
 すぐ目の前にある黎斗さんの顔は優しさを帯びているのに、胸の奥がなぜか悲鳴を上げている。

 ジリ……、彼がさらに距離を詰めてくる。
 すぐ後ろの壁に背中が当たって逃げられないことを悟り、コクンと喉が鳴った。

 見上げるほど高い位置にある黎斗さんの視線が真っ直ぐに私を捉えている。
 視線を外すことができなくて、呼吸もじわじわと乱れていく。
 黎斗さんの体が動いた気配を感じて咄嗟に目を瞑った。

「っ……!」

 条件反射で咄嗟に前へ出た私の腕を、黎斗さんの手が掴んでくる。
 驚いて目を開けた私の脳裏に流れ込んできたのは、目の前に見えている景色とはまったく異なる光景。

 またあの目眩のような感覚を覚えて、脳裏に流れ込んできた。
 夜の景色。真っ暗闇に佇む黎斗さんの姿。冷たい声。知らない表情。
 繰り返し見るあの光景が、私の意識とは関係なく見えてくる。

「…………っ」

 一瞬だけですぐにその光景は見えなくなり、視界はもとに戻った。
 けれど全身の力が抜ける感覚がして、その場に両脚から崩れ落ちてしまう。
 咄嗟に黎斗さんが抱えてくれたけれど、体勢を崩した私たちはそのまま床に座り込むように倒れた。

 息が苦しくて、ぜぇはぁと肩で呼吸をする。
 黎斗さんの胸元に顔を埋めてしまっているのは理解できたけど、うまく力が入らなくてそのまま抱きしめられていた。
 甘い香りと心地良い温かさに、ゆっくりと息が整っていく。

「陽菜、大丈夫か?」
「…………っ、!」

 名前を呼ばれたことに気づいてハッとして、慌てて黎斗さんの体から離れた。
 起き上がれてよかった、力が入るようになった。
 大きく息を吸って吐いて、呼吸を整える。

 黎斗さんの腕が伸びてくるのが見えたけれど、下を向いて見えてないフリをしてさらに一歩下がった。
 彼の体が追いかけてこようとしてるのを気配で感じて咄嗟に立ち上がる。

「……ごめんなさい。ちょっと、外の空気吸ってきますっ」

 まだ少しふらつく体を必死に動かしてその場を離れた。
 私の名前を呼ぶ声がした気がする。でも立ち止まらずにお店の外へ逃げる。
 心臓の音がうるさい。呼吸もまだ乱れているままだ。

 ズルズルとすがるように壁にもたれる。
 もう、無理かもしれない。
 知られるのも、見るのも……怖いよ。

 頬を伝った雫が、地面を濡らした。


   ◇


 その夜もまた黎斗は自室でひとり静かに過ごしていた。
 起き上がるのも億劫でベッドに全身を預けたままぼんやりとしている。

 利き手の左手を掲げて、眺める。思い返すのは昼間の出来事だ。
 細くて柔らかい陽菜の手首を掴んだとき、明らかに様子がおかしくなった。
 具合を悪くしたかのような反応に、脱力して崩れ落ちる様子。

「……触れたとき、か」

 傍らへ並べられた資料に書かれてある捜索対象が持つ特殊な能力の発動条件。
 触れたときに発現する、というそれ。

 疑わずにはいられない不可思議な能力。
 そんなもの本当に存在するのかと思っていた黎斗だったが、確かに存在するのかもしれないという思いへ変わっていた。
 信じたくはないが、何よりの証拠をこの目で見てしまったから。

「……確認する必要があるな」

 依頼された仕事だからではない。
 黎斗自身が確かめたいと思った、疑念だ。
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