恋は静かに焼きあがる。〜やさしい日常と、まだ知らない夜の顔〜

7.繋がってしまう線

 いつも通りの朝。いつも通りの日常。
 でも今日は普段より少しだけ、厨房の中が静かだった。

 黎斗さんと一緒に開店前の準備をしている私は、それがなんだか落ち着かなくて。
 会話がないわけじゃないけど、普段とは空気が違う……とでも言うのかな。
 普段なら私から話しかけられるような話題もなぜか喉に詰まって出せなかった。

「えっと、これ終わったので、フロアの準備してきますね」
「ああ」

 黎斗さんの返事を聞いてフロアへ向かう。
 私も黎斗さんも話しかけられれば返事はするけれど、視線をあえて合わせないようにして黙々と作業をしていた。

 私が意識してそうしてしまっているのをきっと彼も気づいているはず。
 あえて言わないように、聞かないようにしているのだと思う。
 私も、黎斗さんも。


 それでも日常はいつも通りに進んでいく。
 お客さんたちと話す黎斗さんも普段と同じ。私も普段と同じように振る舞う。
 少しだけぎこちなかった笑顔も、お客さんたちと接するうちに自然といつも通りの笑顔を浮かべられるようになっていった。

 でも普段と違う日常がそうさせたのか。
 いつもならすぐに見つけて対応できるはずなのに、落とし物に気づくのも遅くなってしまうほど、今日の私はやっぱり調子が狂っているようだった。
 誰の物なのかまったく分からない落とし物を拾うため、しゃがんで腕を伸ばす。

 ――そのとき、またあの目眩のような感覚を覚えた。
 それはまた同じように一瞬の出来事で、もう片方の手を床につくのと同じくして目眩もすぐに治まる。
 ほんのわずかに乱れた呼吸を整える。

 何事もなかったフリをして立ち上がり、そのままカウンターへと足を進めた。
 さいわい誰にも気づかれていない。店内は普段どおりの和やかな空気のまま。
 ほっ、と安堵の溜め息を吐く。

 目眩の一瞬で、またいくつかの光景が見えた。
 この間から見え続けている光景。
 すべて同じような光景で、意味ありげなそれが私の心を揺らし続けている。

 いま見えた光景も、以前見たものと同じ夜の景色だった。
 黎斗さんに似た後ろ姿。
 誰かと何かをやり取りしている黎斗さんが見えた。

 これはいったいなんなの? どうして黎斗さんの姿が見えるの?
 黎斗さんは何をしているの……?

 何度も繰り返し見える光景が偶然とは思えなくて、疑問に思っていたことがまるで確信へと変わっていくような思いすらした。
 また呼吸が荒くなり始めるのを感じて、咄嗟にゆっくりと息をして整える。
 違うはず、私の思い込みに違いない。そう自分へ言い聞かせるように静かに呼吸を繰り返した。

 指が微かに震えている。動揺しているのが分かった。
 自分の中で飲み込もうとしているのに、気持ちが整理できない。

「…………っ」

 カウンターの後ろにある厨房への入り口。そっと覗き込んで黎斗さんの姿を探す。
 こちらに気づかずテーブルと向かい合って楽しそうにお菓子作りをしているのが見えた。
 いつもと同じ、私の知っている黎斗さんだ。スイーツが大好きでたまらない、ちょっと歳上の優しい黎斗さん。

 でも繰り返し見える光景に映る黎斗さんは知らない顔をしていた。
 冷たくて真っ暗な夜の闇に溶け込む、私の知らない夜の顔。
 身震いのような感覚を覚える。

 私の知っている黎斗さんと、知らない夜の黎斗さん。
 どちらが本当の黎斗さんなの? 私に優しくしてくれる黎斗さんはどちらなの?

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。知りたいけれど、知りたくない。
 その複雑な思いが苦しくて、あとのことはよく覚えていない。普段通りに仕事をこなしたように思う。
 気づいたら夕飯もお風呂も済んでいて、布団の中で呆然と天井を見つめていた。


   ◇


 月明かりの下、冷たいコンクリートの壁にもたれている黎斗の姿があった。
 街はすでに寝静まったあとで、夜の闇と静寂に包まれている。
 自宅から遠く離れた顔見知りの居ない街で、依頼人と合流し新たな資料を受け取ったところだった。

 建物と建物の間の狭い通りだ。依頼人と別れたいま、周りには人っ子一人居ない。
 黎斗は深い溜め息を吐いたあと、静かに資料をめくる。
 街灯の明かりは届かない。月明かりのみで文字をたどっていく。

 そこに書かれているのは捜索対象となっている人物に関すること。
 依頼を受けてからだいぶ日が経ったが、依頼人も慎重なのかこれまで具体的な情報はなかった。
 顔写真や似顔絵などもなく、あるのは文字での簡素な情報のみ。

 今回の情報もまた同じか、と文字のみの資料に目を通していく。
 ありふれた、さほど重要でもない情報の中にやっと目を引くものが出てきた。
 書かれてあったのは『ある特殊な能力を持っている』というもの。

「……特殊な能力?」

 それで捜索依頼を出しているというわけか。黎斗は合点がいった表情をした。
 そして続けて書かれてあった『施設からの失踪』という情報を見て、黎斗の眉間に微かに皺が寄る。

 思った以上に訳アリの厄介な依頼だな、と黎斗は静かに溜め息を吐いた。
 吐いたところで微かな違和感を覚えた。だが、それが何なのかは分からない。
 ただなんとなく、嫌な気分になる。そう感じた。


   ◇


 よく眠れないまま朝になった。体が重たく感じる。
 黎斗さんのことすごく気になるのに、すごく知りたいはずのに……聞いてしまうと何かが壊れるような気がして怖い。
 身支度をするのも指先が思うように動かなくて普段より手間取ってしまった。

 このところ何度も繰り返し見ている光景。
 あれは何なのか。いったいどういうことなのか。
 知らないほうがいいのかもしれない。けれどあれはたしかに……。

 心のモヤモヤが晴れないままキッチンへと着いてしまった。
 早起きのおばあちゃんはお友達とのお喋りのためにもう出掛けたあと。
 そこに居るのは朝食をとっている黎斗さんだけ。

「……あれ?」

 そう思っていたのにキッチンには誰も居ない。もう朝食を終えたのかと思ったけれどそんな様子は残っていない。
 不思議に思っていると、背後から気配がした。
 ビクリと体が小さく跳ねる。

 恐る恐る振り返る。やはりそこには黎斗さんが立っていた。
 寝癖の残ったままの髪。さきほど起きたと言わんばかりの姿だった。

「おはよう、陽菜」
「……お、おはようございます」

 なんとか声を絞り出す。
 ほとんど寝起き姿の黎斗さんを見るのはこれで何度目だろう。
 いつもはしっかり身支度を整えてくることが多い彼だけれど、たまにこうして寝坊してくるときは普段見られない姿を見られるからちょっとだけ嬉しい。

 ……寝坊、したんだ。黎斗さん。
 昨夜寝るのが遅かったということ。何かをしていた、ということ?
 私の胸が静かに乱れ始める。

 朝食の準備を始めた黎斗さんの後ろ姿を見つめる。
 普段と同じその後ろ姿が、なぜかいつもと違うように見えてしまった。

「……黎斗さん」
「んー?」
「……昨夜、遅かったんですか?」

 トースターにパンをセットしていた黎斗さんの手が止まった。
 こちらを振り返ることはせず、背を向けたまま。ほんの一瞬だけ沈黙が流れる。
 すごく長いように感じたけれど短かったかもしれない。

「ああ、仕事のことでちょっとな」

 返事をした黎斗さんはこちらを振り向くことはなく、そのままトースターのスイッチを入れた。
 いま一瞬だけ流れた沈黙はなんだったんだろう。もしかして言葉に詰まったのだろうか。
 黎斗さんの声は普段通り穏やかなものだった。受け答えも違和感がない、いつもと同じ。

 何もかも普段と同じはずなのに。なぜかいつもと違うような気がしてしまう。
 私の心のモヤモヤがそう感じさせているのかもしれない。
 トーストが焼けて朝食をとり始めた黎斗さんを眺めながら、私もトースターでパンを焼き始めた。

 テレビのニュースを見ながら会話をしたり、仕事の段取りを話したり。
 普段と変わらないやり取りをする。トーストの味も普段通りだ。
 けれど、黎斗さんにあれ以上なにかを聞くことはできなかった。


 いつもと同じはずなのに、違うような気がする。
 そんな心のモヤモヤは私の調子を大いに狂わせた。

「……ご、ごめんなさいっ!」

 開店準備をしている最中。やってはいけない失敗をしてしまった。オーブンの設定を間違えた。
 オーブンの中で真っ黒焦げになっているケーキを眺めて私は青ざめる。
 やってしまった、どうしよう。そんな自責の念が首を絞めていく感じがした。

「どうした、陽菜?」

 私の声に気づいた黎斗さんが傍に来てオーブンの中を覗き込む。
 廃棄するしかないほど焦げすぎたケーキの数々。それを取り出して今いちど確かめた黎斗さんが何かを喋っていた気がする。けれどその声が頭に入ってこない。
 どうしよう、取り返しのつかないことをしてしまった。そんな思いで頭がいっぱいになって何も入ってこない。

 怒られる、どうしよう、私のせいで大変なことになってしまった。
 指先が震える。呼吸も苦しくなってきた。頭もクラクラする。

「……陽菜!」
「…………っ!?」

 私を呼ぶ黎斗さんの声で意識がはっきりとした。
 いつの間にか溢れていた涙が、頬を伝って床にぽとりと落ちる。
 視線があちこち移動して、やっと目の前の黎斗さんと目が合う。

「陽菜、大丈夫だ。落ち着いてくれ」
「……は、はい」

 そうか。私はパニックを起こしていたらしい。
 黎斗さんの呼びかけにも反応しなくて、どんどん青ざめて震えていく私の肩を掴んで必死に揺すってくれたようだった。

 時間はある、また作り直せばいい。俺も同じ失敗をしたことがある。
 黎斗さんは穏やかでゆっくりな口調で慰めてくれた。
 その声がすごく優しくて、落ち着く感じがして。だんだんと呼吸がもとに戻るのを感じた。

 嬉しくてきゅっと瞼を閉じたはずみで、目尻に溜まっていた最後の涙が一粒落ちた。
 黎斗さんが微かに苦しそうな表情になる。

「……陽菜」
「はい、わっ……?」

 黎斗さんに抱きしめられた。胸が跳ね上がる。涙も引っ込んだ。
 とても優しく包み込んでくれて、しっかり抱きしめられているのに苦しくない。
 制服に染み込んだ甘い匂いと、黎斗さんの温かい体温を感じる。

 大丈夫だから。黎斗さんの穏やかな声がした。
 私の知っている優しい黎斗さんだ。
 傍に居ると落ち着いて、幸せになれる大好きな黎斗さんだ。

「……ありがとうございます。もう大丈夫です」
「そうか。よかった」

 安堵の息をこぼした黎斗さんの体がそっと離れる。
 いやだ、名残惜しい。もっと感じていたい。
 そう思ったけれど、今は仕事中だからすぐに飲み込んだ。


 閉店後。制服から着替えるために自室へ戻った私は、ベッドに腰掛けてぼんやりと虚空を見つめていた。
 心のモヤモヤは少し晴れたけれど、やっぱり奥の方で燻るものがある。
 消そうとしても消しきれない。何度も繰り返し見るあの光景。

 私の知っている穏やかで優しい黎斗さん。
 夜の闇に包まれる知らない顔の黎斗さん。
 思い出した瞬間に、その2つが重なった。

 だめだ、またモヤモヤが大きくなってしまう。
 私の知っている黎斗さんは優しい黎斗さんだ。
 知らない顔の黎斗さんは、きっと私の不安が作り出した想像に違いない。

 同じわけがない。同じ人なわけがない。
 だって同じだったとしたら、私……。

 手が震え始める。怖くてどうしようもない。
 どちらが本当なの? その思いが消しきれなくて息が苦しくなる。
 私は優しい黎斗さんしか知らない。知らない顔なんて見たくない。知りたくない。

 両手を握りしめて願うように目を閉じた。


   ◇


 自室に戻る陽菜の後ろ姿を見届けて、黎斗も自室へと向かい扉を開けた。
 制服を適当に脱ぎ捨ててベッドへ上半身を放り投げる。
 思い返すのは昼間に見た陽菜の姿。

 こちらの声も聞こえないほどにパニックになる様子は初めて見た。
 すぐに落ち着きこそしたが、あの異様なほどのパニックぶりはいったい何なのか。
 目を閉じて思案していた黎斗の表情が微かに険しくなる。

 陽菜がこの家で暮らすようになって、そろそろ一年が経とうとしている。
 だいぶ知った仲になったと思っていたが、どうやら知らない一面があったようだ。

「…………」

 何かに気づいた黎斗が起き上がり、サイドテーブルの引き出しを開けて紙の資料を取り出す。
 長期依頼の捜索対象に関する資料だ。書かれた文字を急いで追っていく。
 ある部分で視線が止まり、戻ってまた読み直す。

 捜索対象の特徴。体格や、性格に関するもの。
 小柄で内向的。発作を起こす場合あり。

 無意識に陽菜を姿を重ねてしまい、慌てて顔を振って消し飛ばした。
 そんな特徴に当てはまる人なんてもっと他にもいる。
 陽菜を重ねるなんて、どうかしている。

「まさか、な……」

 黎斗は静かに溜め息を吐いた。
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