Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する
「私は前に進んでる」

その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。

旬の奥が、じわりと熱くなる。

希は小さく息をつく

旬は、ゆっくり希を抱き寄せる。

今度は強がらない。

余裕も、見栄もいらない。

ただ、抱きしめたいから抱きしめる。

額が触れる距離。

呼吸が混ざる。

さっきまで張りつめていた空気が、
ようやくほどける。

そのとき。

希の表情が、ふっと変わる。

少しだけ、いたずらっぽい目。

旬が怪訝そうに見る。

「なに?」

希は、くすっと笑う。

「旬ってさ」

わざと間を置く。

「余裕なくなると、ちょっと可愛いよね」

旬の眉がぴくりと動く。

「……は?」

「さっきの“俺が動揺してる”とか」

真似するみたいに、低い声で。

旬は一瞬あきれた顔をして、
でもすぐに笑ってしまう。

緊張が、完全に解ける。

「からかうな」

そう言いながら、腰に回した腕に少し力を込める。

「からかってないよ」

希は肩をすくめる。

「好きだなあって思っただけ」

その一言に、旬の顔が静かに変わる。

真面目な目。

「……ほんとに?」

「ほんとに」

迷いのない声。

旬は、希の額に軽くキスを落とす。

今度は、不安でも確認でもない。

ただ、愛しさから。

過去は終わらせるためにある。

今は、守るためにある。

そして未来は、

二人で作るものだと、

ようやく同じ場所に立てた気がした。

でも希は、ふいに表情を変える。

さっきまでの真剣さが、ふっとほどける。

「ってゆうかさ」

旬を見る。

まっすぐ。

「私が旬の元カノに会っちゃってさ」

「……うん」

旬は静かにうなずく。

「で、ヤキモチやいてたらさ」

距離が縮まる。

「旬だって今の私と同じこと言うんじゃないの?」

旬が、ぱち、と瞬きをする。

希は続ける。

「それとも、元カノに気持ち行っちゃうの?」

わざとらしく頬を膨らませる。

「私、そんなのやだよ?」

拗ねたような仕草。

でも、その目は冗談じゃない。

真剣だ。

旬は一瞬、黙る。

自分の中に落ちた言葉を拾うみたいに。

そして——

「あぁ、そうか」

小さく息を吐く。

「ごめん」

照れたように笑う。

「冷静じゃなくなってた」

本当にそうだった。

自分だけが不安になって、
自分だけが傷ついた気になって。

でも希は、ちゃんと“同じ立場”を想像している。

旬は希の額に、そっと触れる。

「元カノに気持ち行くわけないだろ」

即答。

迷いは、ひとつもない。

希が小さく笑う。

「だよね」

少し、沈黙。

穏やかな空気。

でも旬は、そこで止めなかった。

今度は目を逸らさずに言う。

「でもさ」

声が低くなる。

「俺なんかじゃ、太刀打ちできる相手じゃない気がして」

正直な声。

肩書きも、余裕も、関係ない。

「不安になった」

希の表情が変わる。

柔らかくなる。

「……オレなんか、って何」

少しムッとする。

「青山不動産のくせに」

冗談めかして言う。

旬が吹き出す。

「そこじゃない」

希の手を取る。

指を絡める。

「俺は今の希しか知らない」

まっすぐ。

「歩は、昔の希を知ってる」

それが、怖い。

言葉にしたことで、余計にリアルになる。

希は少し考える。

そして静かに言う。

「高校生の私だよ?そんな大したもんじゃないよ」

首をかしげる。

「今の方がいい」

はっきり。

迷いなく。

「今の私は、旬と一緒にいる私だもん」

「旬が見つけてくれたんだよ」

その一言が、深く刺さる。

過去に勝つとか、比べるとか、
そんな次元じゃない。

“今”を選んでいるという宣言。

旬は希を抱き寄せる。

さっきより、少し安心が勝っている。

「……ずるいな」

小さくつぶやく。

「何が?」

「そうやって真っ直ぐ言うとこ」

希はくすっと笑う。

「旬が好きだから言ってるだけ」

「好きって言えなかった時、辛かったから。今はいっぱい言うの」

シンプル。

飾らない。

まっすぐな言葉。

旬の中で荒れていた波が、少しずつ静まる。

完全には消えない。

歩という存在は、まだどこかで動いている。
< 134 / 161 >

この作品をシェア

pagetop