好きをいう前に君の声は風になる

第四話

ポツ

そして一粒、二粒ポツポツと雨が降ってきた。このくらいなら大丈夫だろうと思っていた。時間が経てばすぐにやみそう。
私は再びペンを走らせた。自分の頭を絵に被せるようにしながら、雨から絵を守った。せっかくの絵が雨で馴染んでしまったら困るからね。
今回はコマ割りが重要な回になってくる。どうすれば読者が喜ぶのか。続きが気になるような描き方って、どうやればいいんだろう。
「えぇ.....」
しかし雨は勢いを増してきた。ポツポツだった雨が、時期に大粒になった。
「.....」
早くしないと濡れてしまう。だけどその場から動こうとは思わなかった。
私はただ、空を見上げた。時々目に雨粒が入って痛くなる。それでも曇天の空を見続けた。
降り注ぐ雨に見惚れていた。
美しいな、ってね。
雨は悲しい気持ちになる。でも、同時にどうでもいい気持ちにもなる。
手で持っていたペンを離して、手のひらを太陽と重ねた。
あそこにはきっお、母親がいるはず。顔も知らないし、声も知らない。もし私が死んでも、私だって分かってくれるかな?すっかり見た目も声も昔と変わり混乱しないかな?
なーんて、いつも不可能なことばかり考えてしまう。

ザァーーー!!!!!

「うわっ!」
突然強烈な雨が降ってきた。
こんなの聞いてないよ。
私は急いで立ち上がり、点滴スタンドを引きずりながら紙とペンを両手に持ち裏口の扉に向かって走り出した。中庭から室内まではそれほど離れていないため、頑張って走ればじきに着く。
突然立ち上がったせいで進む足が遅れて転びそうになる。咄嗟に扉に手を伸ばして体勢を保った。
「はぁ、はぁ、はぁ———!」
なんとか走り切って室内に戻れた。
しかし呼吸をする間もなくすぐに息切れが始まった。
私は体が弱いのに、無心に走ってしまっていた。
そのせいでうまく呼吸ができない。
あたりに視線を配ってみても、部屋に入った先には誰もおらず、古い廃墟病院のようになっていた。
「さいあく」
入院服が雨水で濡れてしまった。勿論、完成間近だった漫画も濡れてしまった。紙だからしなしなになってしまい再生は無理そうだった。
私は服を軽く手ではたいた。
古びた床に水飛沫が飛ぶ。私のせいで床は滑りやすくなってしまったな。
疲労が一気に押し寄せてきて、これはもう立てない、と思った。
静かに近くにあったソファに座り込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
丁寧な呼吸をするのにはまだ時間がかかりそうだった。
ここ最近、もう長いこと体を動かしていなかった。いきなり走ったから動悸がおさまらない。
私は描いた漫画を抱き抱えるようにして呼吸を整えようとした。

「白夜さん?」

名前が呼ばれ、咄嗟に顔を上げた。
視線の先にいたのは、担当医の朝倉だった。毎朝毎朝検診をするあの人。
「あ、先生」
「何してるの.....って、びしょ濡れじゃん」
先生の声は低く、どこか怒っているようにも聞こえた。
「ちょっと待ってて」
そして小走りでどこかに行ってしまった。あの人はなんだか不思議な人だ。
頭が良くて人に優しいことはよく伝わる。だけど、彼だけの独特な空気が纏っているような気がする。
この間だって、いつもは笑って患者と接しているのに、いきなり一人で空を見つめていた———


『先生?』
私が話しかけると、我にかえったように小さく驚く。この反応が、どうしても普通の人とは思えないんだよね。
『あぁ白夜さん。こんなところで何してるの?』
『先生こそ、いきなり空なんか見上げて。』
『ぼーっと出来るっていうか、何も考えなくて済むからかな』
私は、上手く反応できなかった。
『あ、なるほど。それは、お邪魔でしたか』


先生はパッチリな二重目で鼻の筋がよく通ってる。悔しいくらいに顔が整っている。私も男に生まれ変わるとしたら先生みたいな顔になりたいと思うほど。
.....って、私何考えてるんだろう。
先生はただの先生。彼にとって私は一人の患者に過ぎないのだ。
過去のことを振り返って回顧するのは脳が疲れる。加えて今は体も疲れている。
もう、何か考えるのは辞めよう。
私は背もたれに首を預けて天井を見上げた。少しシミができた天井は、なんだか掃除したくなった。どうせ背が低いから届かないだろうけど。
先生なら届くかな?先生は身長があるからきっと届くだろう。
うそ、また、先生のこと考えてしまった。
ちがうちがう。ただ脳が疲れるだけだ。現実逃避するために先生を使ってるだけ。
「白夜さん、無理しちゃダメでしょ」
「うわっ」
いきなり後ろからタオルをかけられた。
私はタオルの合間をぬって上を見た。そこには、少し微笑んだ先生がいた。そして、優しく頭を撫でられた。
「こんな大雨の中、何やってたの」
「日向ぼっこしてました」
「日向ぼっこ。楽しそうだね」
「ほんとは思ってないでしょ」
「いやいや、医者やってると、一見つまらなそうなものでも楽しく見えてしまうんだよ。仕事から逃げたいと思うからね」
「それ、言っちゃっていいんですか?」
「ダメだったか」
今は普通に会話をしているだけなのに、胸が楽器のように弾む。
話している最中も先生は頭を拭いてくれた。時々耳に当たる手がくすぐったい。
「部屋戻ろっか」
先生は頭を撫でる手を止めた。
———その瞬間、心にぽっかり穴が空いたようになった。
先生を見ると、タオルを片手に歩き出していた。
それに続くように立ち上がり先生を追いかけた。先生が歩くのが早いってことは、もちろん知っていた。

「先生、待って———!」

自分が思っていたよりも大きな声だった。
先生は足を止めてこちらを見た。少し首を傾げていた。
「ん?ゆっくりで大丈夫だよ」
その声に、またなぜか緊張してしまった。
「あの、ありがとうございます」
私はお辞儀をした。
頭を拭いてくれてありがとうございますとか、来てくれてありがとうございますとか、主語がなかったと後から後悔した。

コツ...コツ...コツ

先生が歩いてくる足音がした。
今度は、なぜか背筋が凍った。怖くなってその場から逃げ出したくなる。
先生の威圧感に圧倒されそうになった。目を合わせていないのにこんなにも圧を感じるなんて。逆に凄すぎでしょ。
このまま無視されるだけかなと、思っていたのに。
思っていた反応とは大分違った。
先生は少し間をおいてこちらに歩いてきた。そして目の前で立ち止まりら再び頭を撫でた。
「どういたしまして」
「え?」
私は思わず顔を上げてしまった。先生は真顔だった。
なのに、すぐにそっぽを向いてしまった。
「先に戻ってますよ」
そう言い残して、その場から離れた。
私は視線を上げて、先生がいなくなったことを確認した。そして、自分の手を頭に当てた。
「いま、あたま撫でた.....」
こんな感情は人生で初めてだった。
心音の速さが普段よりも早い気がした。さっきからずっと、先生に頭を撫でられてから心音が早くなっている。
あの顔を思い出す度に、病気とは関係のない心音の速さ。
このままじゃここで死んでしまう。何か別のことを考えよう。
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