激甘嘘婚~冷徹社長は初恋秘書を手放さない~

プロローグ

「やっと来たのか。さっさと荷物持っていけよ。迷惑してたんだ」

玄関のドアを開けるなり、腰にタオルを巻いた半裸の元カレの(じゅん)が、茶色い前髪をかき上げながら迷惑そうに言った。

由利(ゆり)が住んでいた時は片付いていた玄関には、靴が散乱している。中でも、光沢のあるハイヒールがひときわ存在感を放っていた。

その先に、まるでゴミのように由利の荷物が散らばっている。

由利は無言で荷物をかき集め、スーツケースにまとめた。

「荷物を取りに来るのが遅くなってごめんなさい。それでは、失礼しました」

潤に向かって頭を下げ、スーツケースを持ってさっさと立ち去ろうとする。

石立(いしだて)さん、忘れ物ですよ」

すると、甘ったるい声に引き留められた。

寝室から、体に巻いたシーツを引きずって現れたのは、乱れたセミロングの栗色の髪を色っぽく片耳にかけた、同じ会社の受付の美月(みづき)だ。

美月が持ってきたのは、使い古した黒のトートバッグだった。

「これ、ファンシーショップとかで三千円くらいで売ってるバッグですよね。中学生の持ちものみたいだから、買い換えた方がいいですよ」

「いい年した女が、よくそんなダサい安物バッグを持てるよな」

美月と潤が身を寄せ合い、由利にバカにしたような目を向ける。

「きも」

潤に放り投げられたバッグが、玄関の床にたたきつけられる。その瞬間、由利の心が割れたように激しく痛んだ。

――『お姉ちゃん、就職おめでとう! これ、就職祝いのプレゼント。兄弟三人でお小遣いを出し合って買ったんだ』

あどけない弟たちの顔が、頭の中をよぎる。

あの時あの子たちはまだ、中学生と小学生だった。それでもなけなしのお小遣いを出し合って、由利のためにこのバッグを買ってくれたのだ。

由利は唇を固く引き結ぶと、黙ってバッグを拾い上げ、大事に胸に抱えた。

(私、どうしてこんな人に尽くしてきたのかしら?)

由利と付き合っていながら若い女性社員と浮気し、あげく由利が悪いかのように責めて追い出した潤は、クズ中のクズ男だ。

後悔から、由利は今すぐ泣き出したいのをこらえながら、スーツケースを持って潤の家を後にする。

マンションのエントランスを出ると、夜風が由利の体に吹きつけた。

三月初めの夕暮れは、まだ風が冷たく、傷ついた心に余計に染みる。

「泊まれる場所を探さなきゃ……」

うつむき、そう呟いた時のことだった。

「行くところがないのか?」

覚えのある声が聞こえてきて、由利はハッと顔を上げる。

すぐそこに、見慣れた黒の高級車が停まっていた。

運転席の窓を開けてこちらを見ている黒髪の整った顔立ちの彼は、ここ最近由利が嫌になるほど四六時中一緒にいる上司――社長の堂前朔也(どうぜんさくや)だった。
< 1 / 13 >

この作品をシェア

pagetop