営業部の穂積先輩は今日も不機嫌で困る
「高校の頃に父親を亡くしてから、俺はずっと音羽社長に世話になってきた。大学まで出してもらって、応和に入ったのも、その恩を返したかったからだ」
「すごく……やさしそうな方でしたよね。先輩を大事にされてるのが伝わってきました」
「ああ。だから、社長に報いたくて、新卒で入社以来、ずっと必死で働いた。だが気がついたときにはなぜか、社内政治のど真ん中に立たされてた」

 穂積先輩は自嘲するように少しだけ笑った。

「誰の側につくかとか、誰を後ろ盾にしてるとか、そんな話ばかりでな。仕事そのものを見てもらえなくなるのが、だんだん耐えられなくなった」

 静かな声だった。
だけどその奥に、長く押し込めてきた疲れが滲んでいる気がした。

「静香も、悪い奴じゃないんだけどな」

 不意に落ちたその言葉に、思わず穂積先輩を見る。

「昔から、あいつは結果を出すことに真っ直ぐだった。だからこそ、応和をもっと大きくしたかったんだと思う」

 夜風の中で、先輩は少しだけ視線を細めた。

「でも俺は、そこまでして上に行きたいとは思えなかった」
「……そこまでってどういう意味?」
「誰かを蹴落としてでも勝つとか、利用できるものは利用するとか……そういうやり方に、最後まで馴染めなかった」

 穂積先輩はそこで小さく笑う。

「たぶん、静香は俺が応和に戻るのが正しいと思ってたんだろうけど……」
「……先輩は?」
「俺はもう、今の会社がいい」

 その言葉と一緒に、繋いでいた手に少しだけ力がこもる。

「お前と仕事してる時間、結構好きなんだよ」
「そ、そうですか……」

 急な好きに、全身が赤くなりそうなほど体温が上がる。
 そんなわたしを見て、先輩が面白そうに笑った。

「わ、笑わないでくださいよ」
「いや、可愛いなと思って」
「かっ……」

 狼狽えると、ますます表情を崩して笑う穂積先輩に、なぜか泣きそうなくらい、心臓をぎゅっと掴まれる。
 こんな顔を見せられたら、もう離れられないと思った。

「そういえば、タクシー全然来ないな」
「あ、本当ですね」
「……配車アプリでタクシーを呼ぶこともできるけど」
「ここって駅から遠いんですか?」
「いや……二十分くらいじゃないか?」
「じゃあ、歩きましょう」
「疲れてないのか?」

 その言葉に、立ち上がり胸を張るようにして答えた。

「営業ですから」

 先輩はふっと笑って、「それもそうだな」とわたしの手を握りしめる。
 わたしたちはそのまま、同じ歩幅で駅へ向かって歩き出した。


【了】
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