『バンコク・オーバーラン~偽装のハイウェイ~」タイ・トラベルミステリー・シリーズ

EP1.不夜城のプロトコル ―漆黒の品川ナンバー




 バンコクの熱気は、深夜になってもアスファルトにへばりついたままだ。

 レムチャバン国際港からバンコク都心部へ向かう深夜のブラパ・ウィティ高速道路。

 等間隔に並んだナトリウム灯が、フロントガラスを早送りのオレンジ色に染めていく。

 GT-R、R35。

 日本の技術が結晶したそのマシンは、今、異国の闇を時速220キロで切り裂いていた。

 タコメーターが4000を越えた瞬間、車内の空気がわずかに震え始める。

 アクセルを踏み増すと、3.8リッターV6ツインターボが低く腹の底で唸る。

 その音は単なる咆哮(ほうこう)ではない。

 抑制された猛獣が、鉄檻の内側で静かに牙を研いでいるような、圧縮された重低音。

 漆黒のボディが鈍く光り、暗闇の景色に同化していく。

「......ジャック。前方3キロ先に検問だ」

 低い声の無線が車内に流れた。

 バケットシートに深く沈めた身体は、高速度域の微振動を正確に捉えている。

「了解......問題ない」

 前方に、タイ警察の検問が見える。

 赤と青のパトライトが重苦しく回転し、自動小銃を手にした警官たちが車両を一台ずつ止めている。

 だが、坂本はアクセルを緩めない。

「おい、大丈夫か?」

 助手席に座る組織の男、ブンロートが引きつった声で叫ぶ。

「黙ってろ」

 シフトダウンの強烈な排気音(エキゾースト)が路面に反響し、大気を震わせる。

 エンジンブレーキを利かせ、検問の直前でわずかに速度を落とした。

 警官の一人が、GT-Rのフロントに掲げられた、エメラルドグリーンに光る"品川ナンバー"をライトで照らした。

 それは、タイの公道において本来存在するはずのない特権の証だった。

 形式上は日本政府とタイ官僚による「特例措置の輸入」だが、その実態は単純だ。

 日本の財閥が投じた莫大な裏金が、警察上層部の沈黙を買い叩いている。

 警官の無線から、上部命令を伝える乾いたノイズが響く。

 彼は即座に姿勢を正した。

 真っ黒なスモークフィルムで覆われた、誰が乗っているかも見えぬ運転席に向かって、警官は自らのこめかみへと右手を添えた。

 ―敬礼

 法を守るべき者が、法を蹂躙する車を最大級の敬意で見送る。

 GT-Rは警官たちの前に挨拶代わりの排気音を残して加速した。

 助手席でブンロートが、中国製の電子タバコの紫煙を吐き出した。

「......ハッ、最高だぜ。奴らも全く俺たちには手が出せねぇってわけだ」

 坂本は無言でステアリングを握り直す。

 だが、ミラーの隅で、ひとつの光が動いた。

 ライムグリーンのボディを翻し、一台のバイクが検問の制止を振り切って急加速してくる。

 カワサキZX-6R NINJA

「ジャック、(うるさ)い蜂が一匹飛んでくるぞ!」

 ブンロートが腰のグロックに手をかける。

「銃なんか要らない......」

 バックミラーの中、ライムグリーンの車体が車線を割り込みながら距離を詰めてくる。

 あり得ないはずの"品川ナンバー"を、猛然と追いかけるように。

 坂本はさらにアクセルを蹴り込んだ。

 タービンが完全に目を覚ます。

 ―ブゥオロロロ......

 吸気の吸い込みと、金属を擦るような高周波の過給音が重なり、背後から不可視の推進力が背骨を押し上げる。

 シフトアップの瞬間、デュアルクラッチが炸裂音のような「バンッ」という破裂を挟み、次のギアへ叩き込む。

 速度域が上がるにつれ、風切り音が加わり、エンジン音はさらに鋭利になる。

 戦闘機の離陸前、滑走路を震わせるあの予備振動に近い。

 リサが右サイドに並びかけようとする。

 坂本は無表情のまま、ステアリングを右に切った。

「ハハッ! いいぞ、ジャック。お前、相当に狂ってるぜ」

 ブンロートの嘲笑を背に、スクムヴィットの複雑なジャンクションの右急カーブへと車体を滑らせた。

 リサのZX-6Rは、路上の車の間を縫うようにして一気に距離を詰めてくる。

 坂本はパドルシフトを弾き、四速から三速へシフトした。

 回転が跳ね、横Gが激しく、ブンロートを"くの字"にくねらせる。

 タイヤを鳴らしながらGT-Rの巨体が、まるで意志を持った筋肉のように限界のグリップで曲がり切る。

「止まりなさい!」

 リサのヘルメット越しの怒声が飛んできた。

 リサは車体を強引にGT-Rの右側に迫った。

 時速240キロを超え、並走する二台が周囲の風景を光の線へと変えていく。

 坂本はサイドウィンドウ越しに、真横についたライダーを視界の端に捉えた。

 漆黒のヘルメット。

 赤いバンダナが首元から流れ出る。

(まさか――リサか!)

 坂本は直感した。

 リサは左手で鋭く「路肩に寄せろ」とハンドシグナルを送る。

 彼女の視線は、坂本の顔を覆うスモークシールドを貫こうとしていた。

 坂本は応じない。

 彼は言葉を交わす代わりに、わずかにステアリングを右へ当て、二トンの鉄塊をリサの膝元へと滑らせた。

 200キロを超える速度域での「拒絶」。

 接触すれば、彼女は肉塊となってアスファルトに散る。

「......あなた、正気なの!」

 リサがラインを割った瞬間、坂本はブレーキペダルを蹴り飛ばした。

 強烈な制動により、一瞬にして荷重がフロントへ移りタイヤが悲鳴を上げる。

 GT-Rは本線から逸れる工事車両用の未完成出口へ、テールを流しながら飛び込んだ。

 バリケードの隙間をすり抜け、そのまま逆走車線へと車体をねじ込む。

 リサの反応は一瞬遅れた。

 そのわずかな隙に、GT-RはVR38エンジンを咆哮させ、一瞬でリサを後方の彼方へと引き離す。

「おい......死ぬ気か! 俺まで道連れにするんじゃないぞ」

 助手席のブンロートが、ダッシュボードを掴んだまま声を震わせた。

 坂本は答えず、ステアリングを握る指先の微震を楽しんでいた。

 夜空を埋め尽くすバンコクの高層ビル群が、巨大な壁となってそびえ立っている。

 バックミラーの中、リサのライトは次第に小さくなり、不夜城の底へと溶けて消えた。

 積み上げられたコンテナ。

 重油と鉄の匂いが澱む、深夜のラッカバン工業団地。

 人気のない裏道では、規則正しいエンジンの鼓動だけが砂利を叩いている。

 エメラルドグリーンに光る「品川」の文字を闇に沈め、黒い獣は倉庫街の奥へと消えていった。

 ヘルメット越しに、リサは遠ざかる左右二対の丸いテールランプを睨み続けた。

 追いつけたはずだという焦りが胸を締めつけた。

「必ず行き場所を突き止めて見せるわ......」

 唇を噛み、スロットルを握る右手を緩めた。

「それにしても、あの車の性能を限界まで引き出す運転テクニック......まさか?」
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