『バンコク・オーバーラン~偽装のハイウェイ~」タイ・トラベルミステリー・シリーズ

ミッドナイト・オーキッド



 二時間前――。

 パタヤ、ナークルア地区。

 ビーチサイドの名店『ザ・グラスハウス』のテラス席は、欧米人観光客の陽気な喧騒と、心地よいハウスミュージックに包まれていた。

 だが、非番のリサの心境は、目の前のエメラルドグリーンの海とは程遠い場所にある。

「......また一人死んだわ。今度はサイアムの『Club 88』の裏よ。原因不明の中毒死らしいわ」

 大学時代からの親友であるジャーナリスト、ヌイが差し出したスマートフォンの画面を、リサは無言で覗き込んだ。路地裏で事切れた少年の、焦点の合わない瞳。

「高精度の新型合成麻薬――通称『ブルー・シルク』。純度が異常に高い。日本製だっていう噂だけど、警察でさえルートどころか、末端の売人すら一人も挙げていない。不自然だと思わない?」

 リサは、氷の溶けきった『ミッドナイト・オーキッド』を飲み干した。

「日本製......」

 ぬるい甘さだけが舌に残る。

「上層部から『特別指示』が出ているのよ。この件には触れるな、とね」

 リサはそう言うと静かに喉を鳴らした。

 この「ブルー・シルク」の背後に、日本とタイの間に横たわる(よど)んだ闇を感じざるを得ない。

 ヌイが小声で続ける。

「どうも日本の大手財閥が、タイの高速鉄道入札における「優先交渉権」を確実にするため、警察上層部や高級官僚に莫大な裏金を流しているという噂よ。その裏金の一部として、日本で盗まれた高級車が「便宜供与(べんぎきょうよ)」という名目のもと、正規の通関手続きを回避して彼らに"献上"されているらしいのよ」

 ヌイはグラスに残ったアイスをガリっと一嚙みしてリサを睨んだ。

「リサ、あんたの正義感は知ってるけど、深追いはやめなさい。相手は国家レベルの”聖域(アンタッチャブル)”なんだから、あなたの敵う相手じゃないわ......」

「分かってるわ。でも......」

 リサは席を立ち、ヘルメットを手に取った。

「ヌイ、今日はありがとう、また何かわかったら連絡頂戴、きっとよ!」

 ヌイと軽くハグをして、リサは愛車のライムグリーンのカワサキZX-6Rに跨った。

 腰に巻いていた黒革のライディングスーツに腕を通す。

 リサの華奢な肢体を包み込むレザーが、ジッパーの鋭い金属音と共に、彼女の輪郭をタイトに引き締めていく。

 喉元までジッパーを引き上げると、ブーツのヒールでサイドスタンドを跳ね上げた。

 首元には、トレードマークの鮮烈な赤のバンダナを巻き直し、フルフェイスを被り、スモークシールドを落とす。

「ブォンッ――!」

 短く鋭い咆哮が全身を震わせる。

 細い指先がクラッチを離した瞬間、ライムグリーンの閃光は歓楽街の雑踏を蹴散らすかのように、走り抜けていった。

 帰路、レムチャバン港に続く幹線道路。

 重い潮風が街を包み込む中、港のゲートを抜けてきた漆黒の影が、猛スピードで本線へ飛び出してきた。

 GT-R、R35。

 見慣れないナンバープレート。

 エメラルドグリーンに光る「品川」の文字が闇に浮かび上がる。

 以前、日本での研修で目にしたあの見慣れた地名だ。

 "なぜ、日本のナンバーがそのまま走っているの......?"

 保税地域から何らチェックを受けずに公道へ躍り出たその不自然な挙動に、刑事としての直感が反応した。

 彼女は迷わずシフトダウンし、漆黒の背中を追ってスロットルを開けた。

 リサはインカム経由で、バンコク首都警察交通部チャクリット警部へ確認の電話を入れた。

「こちらリサ。レムチャバン付近で不審な黒のGT-Rを確認。追跡の許可を――」

『追跡だと?その必要はない。そもそも、君の管轄外だ』

 チャクリット警部の返答は、事務的なまでに冷淡だった。

「ですが、明らかに不審な車両ですが......」

『構うな。追跡は許可しない。おい! 聞いているのか!』

 彼女はわざとマイクを風にさらした。

 "本当に癪《しゃく》に障る交通課のオヤジだわ..."

「......ノイズが酷くて聞こえません、海風が強すぎるわ。以上!」

 リサはわざと聞き取れなかったふりをして通信を切り、スロットルをさらに捻り込んだ。

 それは、バンコク(天使の都)まで続く追跡劇の、最初の火花だった。





 現在――。

 リサは路肩にバイクを止め、生ぬるい風に髪をとかし、小さく溜息を漏らした。

 結局、赤い二対の真円は夜霧の向こうへ溶けるように消えた。

 深夜の猛烈なスコールのせいで、ラマ9世通りは文字通りテールランプの赤い川となっていた。

 リサは、先ほどのGT-R追走を反芻していた。

 本線から未舗装の工事車両用出口へ、テールを流し切り込んだ、あの瞬間。

 奴は私のラインを強引に塞ぎ、私を側壁に激突させて、三十メートル下の運河へ叩き落とすことも可能だった。あの速度域なら、軽く接触(タップ)するだけで、私は終わっていただろう。

 だが、奴はそれをしなかった。

 フロントが壁を叩く寸前、奴は精密なブレーキで、私が立て直すためのわずかな走行ライン(マージン)を差し出した。

(......あの速度で、私を落とさないための制御ができる奴が、他にいる?)

 脳裏にかつて日本で目にした、ある男の残像が重なる。

(ひょっとして、まさか、あの男......?)

 右手の痺れは、まだ取れない。

 ポケットの中でスマートフォンのバイブレーションが、リサの思索を打ち消した。

 チャクリットからのメッセージだ。

 "พรุ่งนี้ 07:30 มารายงานตัวที่ สน.จราจร ไม่มา โดนสอบวินัย”
 (明日0730、交通部本部へ出頭せよ。従わない場合は懲罰委員会に回す)

 リサは忌々しげに画面を睨み、電源を落とした。

 今はただ、目の前の赤信号に従うしかない。だが、アスファルトにはまだ、漆黒の獣が残した焦げた熱気が、消えない残像のように漂っていた……。
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