止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―

第10章 時間の選択

 十二月の半ば、蒼井時計店から連絡が来た。
 トキ経由で聞いた話では、父親が柱時計の状態を確認した結果、修理は可能だという。ただ、部品をいくつか作り直す必要がある。年内には難しいが、年明けには動かせるだろう、とのことだった。
 ミオはその話をお母さんに伝えた。
「蒼井さんとこが、やってくれるの?」
「うん。お父さんが設計図を見て、やってみたいって」
 お母さんはしばらく黙っていた。
「……お父さんが喜びそうな話やね」
 声が少し、揺れていた。
「お母さんも、思い出ある? あの時計」
「あるよ。子どものころ、お父さんに連れて行ってもらって、時計の前で写真を撮った。あの時計が止まったって聞いたとき、なんか——お父さんがいなくなったこととつながって、ずっと胸に引っかかってた」
「直ったら、また写真撮ろう」
 お母さんはミオを見た。少しの間、何も言わなかった。
「……そうしよか」

 その夜、止まった時間が来た。
 久しぶりだった。夜の時間が「流れが強くなってる」と言っていた通り、思い出が集まってから、止まった時間は遠のいていた。
 でも今夜は、来た。
「修理が決まったんだね」
「うん」
「それでいいの?」
 責める声ではなかった。ただ静かに、確かめるように聞いた。
「いいよ」
「本当に? 時間が流れ始めたら、また大切なものを失うかもしれないよ。人は死ぬし、別れは来るし、忘れることもある」
「分かってる」
「それでも?」
「それでも」

 止まった時間は少し黙った。
 ミオは窓の外を見ながら続けた。
「思い出って、時間が流れるからできる、って思うから」
「……どういうこと?」
「止まった時間の中にいたら、あの縁側の夕方はずっとある。でもそれは思い出じゃなくて、ただそこにある時間になる。今のわたしが、過去のあの時間を振り返るから、思い出になるんだと思う」
「それは、流れることで失うものがあっても、いいということ?」
「いいとは思わない。おじいちゃんがいなくなったのは、今でも嫌だよ。寂しいし、会いたい。それは変わらない」
「なのに、流れていいと言う?」
「だって」
 ミオは言葉を探した。
「流れるから、わたしはトキくんと話せた。河村さんの隣に座れた。町の人たちの話を聞けた。あの縁側の夕方を、思い出として持てた。全部、時間が流れたからできたことだから」

 しばらく、静かだった。
 止まった時間の気配が、部屋の中にあった。遠くも近くもない。ただそこに、あった。
「ミオちゃんは、おじいさんのことを泣けていない、って言ってたよね」
「うん」
「今は?」
 ミオは少し考えた。
 胸の中の靄のことを思った。最初にあったときより、ずっと薄い。でも消えてはいない。
「まだ、ちゃんと泣けてない気がする」
「そうか。それでもいいよ。泣けるときに泣けばいい。時間が流れれば、そういう瞬間も来る。止まった時間の中では、来ないけれど」
「……それも、あなたが教えてくれるの?」
「気づいたことを言っただけだよ。ぼくは止まることを望む気持ちから生まれた。でも、流れる中にしかないものも、ちゃんと知ってる。長い間、そばで見てきたから」

「ミオちゃん、一つだけ聞いていい?」
「何?」
「後悔、しない?」
 ミオは即答しなかった。
 窓の外の夜空を見た。冬の星が、静かにあった。
「後悔することも、あると思う。また何か失ったとき、あのときに止めておけばよかって思うかもしれない」
「それでも?」
「でも、そのときにはまた、流れてきたものがある。後悔も含めて、それが時間なんじゃないかって」
「……そうか」
 止まった時間の声が、少しだけ変わった気がした。
 硬かったものが、ほんの少しほぐれたみたいな。
「それなら」
 間があった。
「ぼくは眠る」
「眠る?」
「消えるわけじゃない。ただ、静かになる。この町に止まりたいと思う気持ちが消えない限り、ぼくは存在する。でも、今は眠っていい気がした」
「また来る?」
「来るかもしれない。ミオちゃんが止まりたいと強く思うとき、また声が聞こえるかもしれない。でもそれはそのときのことだよ。今夜は、眠る」

 静かになった。
 止まった時間の気配が、ゆっくりと薄れていった。
 消えたわけではなかった。どこかに行ったわけでもなかった。ただ、遠くなった。海の向こうに沈んでいくみたいに、少しずつ、少しずつ。
 ミオはしばらくそのまま座っていた。
 何かが終わった感じがした。でも終わりとも少し違う。何かが、次に進んだ感じ。
「ミオちゃん」
 夜の時間の声がした。
「聞いてたの?」
「全部は聞いてないけど、気配で分かった。止まった時間、眠ったんだね」
「うん」
「よかった」
「よかった、って、止まった時間のこと心配してたの?」
「してたよ。あれはずっと、誰かの悲しみの中にいる存在だから。眠れるなら、眠った方がいい。そう思ってた」
 ミオはそれを聞いて、少し胸が痛くなった。
 止まった時間は、悪いものではなかった。ただ、流れとは反対のものだっただけで。悲しみから生まれて、悲しみのそばにいて、ただそこにいた。
「また来たとき、怖がらないようにする」
「それでいいよ。怖いものじゃないから。ただ、流されないようにすれば」
「流されなければいい?」
「そう。悲しんでいいし、止まりたいと思ってもいい。ただ、最後には自分で動く。それだけのことだよ」

 布団に入ってから、ミオはしばらく眠れなかった。
 眠れないのに、悪い気はしなかった。
 頭の中で、いろんなことが動いていた。町の人たちの話。お母さんの顔。トキのノート。止まった時間の最後の声。
 そして、祖父のこと。
 縁側の夕方。麦茶の冷たさ。何も話さなかったけれど、それがよかったあの時間。
 ミオの目が、熱くなった。
 今度は、止まらなかった。
 静かに、涙が流れた。声も出なかった。泣いているというより、何かがやっとほどけた感じがした。ずっと胸にあった靄が、少しずつ、涙になっていた。
 泣きながら、ミオは思った。
 おじいちゃん、ありがとう。
 時計を守ってくれて、ありがとう。時間の声が聞こえる番を、わたしに渡してくれて、ありがとう。
 もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。
 でも、あの縁側の夕方は、ちゃんとここにある。
「いい一日だったね」
 夜の時間が、静かに言った。
「……泣いてるのに?」
「泣ける日は、いい日だよ。ちゃんと流れてるから、泣ける」
 ミオは涙をぬぐった。
 また出てきた。ぬぐってもまた出てきた。それでいいと思った。
 窓の外で、風が鳴った。
 冬の風だった。冷たかったけれど、澄んでいた。
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