止まった柱時計と、時間の子―わたしは時間と話せる―

第11章 時計が動く

 年が明けた。
 一月の明石は、空気が刃のように冷たい。でも光は確かに変わっていた。冬至を過ぎて、日が少しずつ長くなっている。朝の時間が、それを一番喜んでいた。
「光が増えてる! 気づいてる? ミオちゃん!」
「気づいてる。うるさい」
「うるさくない! 光が増えるって最高なんだよ!」
 朝の時間の声は、十二月の初めとは別人のように戻っていた。思い出を集めてから、少しずつ、少しずつ回復していた。今はもう、声が途切れることもない。
 昼の時間も同じだった。
「なんか、最近調子いい〜」
「よかった。十二月はしんどそうだったから」
「あれはきつかった〜。でも今は普通〜。眠いけど〜」
「それはいつも通りだね」
「うん〜」

 修理は、年明けすぐに始まった。
 蒼井さんが祖父の家に来て、柱時計を工房に持ち帰った。設計図と、百年以上の年月を経た本体を前に、どのくらいかかるか分からないと言っていた。でも、やると言ったらやる人だとトキが言っていた通り、蒼井さんは毎日工房で時計に向き合っていた。
 トキから、ときどき報告が来た。
「内部の歯車に傷みがあったけど、設計図通りに作り直せた」
「振り子の調整が難しくて、父さんが三日かかって合わせた」
「木の部分を少し補修して、艶を戻した」
 ミオはそのたびに、夜の時間に伝えた。夜の時間は「そうか」と言うだけだったが、声に何かが滲んでいた。


 一月後半のある日の朝、目が覚めた時、声がしなかった。
 最初は気づかなかった。布団の中でぼんやりしながら、今日は朝の時間が遅いな、と思った。でも待っても、来なかった。
「……おはよう?」
 声に出して言ってみた。
 返事がなかった。
 ミオは起き上がった。部屋の中を見回した。窓から光が入っている。普通の朝だ。でも、何かが足りない。
「朝の時間?」
「……お、はよ」
 届いた。でも、かすれていた。かすれているというより、遠かった。隣の部屋から、壁越しに聞こえるみたいな。
「どうしたの」
「……ちょっと、今日は、遠い」
「遠いって、どのくらい?」
「うまく、声に、ならない」
 一言ずつ、途切れた。まるで、風に吹かれてばらばらになるみたいに。

 学校を休もうかと思った。
 でも、休んでどうする、と思い直した。今日できることは今日やる。それを朝の時間に教えてもらった気がした。
 パジャマから着替えて、階段を下りた。
 お母さんが朝ごはんを作っていた。
「おはよう」
「おはよう。そろそろ修理の連絡来る頃かしらね」
「そうかも」
 ご飯を食べながら、ミオは窓の外を見た。
 一月の朝は、空が低い。灰色の雲が、明石の上に広がっていた。
 今日は何かが違う気がした。
 街が、静かすぎる。

 学校に向かう途中、商店街を通った。
 いつもなら八百屋のおじさんが「おう」と言って手を上げる。でも今日は店の中にいて、出てこなかった。魚屋のおばさんも見当たらなかった。
 人がいないわけじゃない。でも、何かが薄い。
「……ねえ」
 昼の時間の声がした。朝なのに、昼の時間が来た。
「昼の時間? 朝だよ」
「朝の時間が、今日は動けないから……ぼくが来た。でもぼくも、あまり元気じゃない〜」
「どうして」
「昨日の夜から、何かが重い。町全体が、息をしてない感じがする〜」
「息をしてない?」
「うまく言えないけど……時間が、固まってる感じ〜。流れが、止まりそうで怖い〜」
 昼の時間が「怖い」と言った。
 ミオは足を止めた。
 昼の時間が怖いと言うのを、初めて聞いた。


 学校では、授業が頭に入らなかった。
 先生の声が遠い。
 トキが隣から「大丈夫?」と聞いてきた。
 ミオは「うん」と答えたけど、その意味がよく分からなかった。
 昼休みに、河村さんが来た。
「なんか顔色悪い。体調悪い?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「もうすぐ、トキくんのお父さんが時計持ってくるんでしょ。トキくんから聞いた」
「うん」
「うまくいくよ、きっと」
 河村さんは笑顔で言った。根拠はない。でも、本当にそう思っていることは声で分かった。
 ミオは少し、息ができた気がした。

 学校から帰る途中、
「ミオちゃん、今日、完成した。父さんが確認して、ちゃんと動いてるって」
 トキから声を掛けられた。
 ミオは立ち止まった。
「本当に?」
「本当に。設置は明日、田中さんの家で。来られる?」
「行く。絶対行く」

 ミオはそのあと、一人で祖父の家に向かった。
 おじいちゃんにいち早く報告したいな。って思う気持ちがあった。
 商店街を走るように歩いた。
 途中で、止まった。
 何かが聞こえた気がした。声ではない。音だ。
 どこかで、かすかに音がしていた。
 でも、それが何の音なのか分からなかった。時計の音ではない。もっとかすかな、何かが軋むような音。
「……聞こえた?」
 昼の時間が聞いた。
「うん。何の音?」
「時間が、きしんでる音〜。時計が長く止まったままだから、流れが細くなってる〜。今日の夕方が、一番薄くなる〜」
「夕方が?」
「柱時計が動き始める前の夜が、一番危ない。朝の時間が……今夜、消えるかもしれない〜」

 足が、止まった。
 消える。
 朝の時間が、消える。
 ミオは商店街の真ん中で立ちつくした。周りを人が通り過ぎていった。誰も気づかない。ミオだけが聞こえている。
「消えたら、どうなるの?」
「もう声が聞こえなくなる〜。戻ってこれないかもしれない〜。ぼくも……夜の時間も、今夜どうなるか分からない〜」
「どうすれば」
「時計が動けば、大丈夫〜。でも時計が動くのは明日の午後〜。今夜の間、もつかどうか〜……ぼくたちだけじゃ、分からない〜」
 昼の時間の声が、またかすれた。
 遠くなった。
「……ミオちゃん〜。今夜だけ〜。今夜だけ、覚えていて〜。ぼくたちのこと〜。思い出してて〜」
「どういうこと」
 返事がなかった。
 昼の時間の気配が、薄くなった。消えたわけではない。でも、糸が切れる寸前みたいに、細くなった。

 祖父の家に着いた。
 設置は明日だ。今日ここにあるのは、止まった時計の空白だけだ。
 奥の部屋に入った。
 時計のない壁が、広く見えた。
 夜の時間を呼んだ。
「夜の時間、いる?」
 少し間があった。
「いる」
 声は出た。でも、いつもより小さかった。部屋の奥の方から、やっと届いているような感じがした。
「朝の時間が消えるかもしれないって、昼の時間が言ってた」
「……うん。今夜が、一番危ない。時計が長く止まったままだったから、今日でぎりぎりだと思う」
「どうすれば助けられる?」
「助けることは、ミオちゃんにはできない。ただ——」
「ただ?」
「覚えていてほしい。朝の時間のこと。昼の時間のこと。思い出してほしい」
「それで、助かるの?」
「確実じゃない。でも、思い出は時間を動かす。ミオちゃんが覚えていることが、今夜の力になる。それだけが、今できることだよ」

 ミオは床に座った。
 壁を見た。時計がない壁。でも、そこに時計があった時間は確かにあった。
 朝の時間のことを思い出した。
 最初に声が聞こえた朝。「起きろー!」という元気な声。遅刻するよ、と言われて、笑ってしまったこと。忘れ物を教えてくれたこと。河村さんが泣いていると教えてくれたこと。雨の日に声が遠くなって、しょんぼりしていたこと。
 昼の時間のことも。
 眠そうな声。のんびりとした口調。難しいこと聞かないで、が口癖。でも、ときどき大事なことを言った。ちょっとだけ変える、でいいんだよ、と言ってくれた。
「……ミオちゃん」
 夜の時間が言った。
「何」
「今、ちゃんと思い出してる。それが届いてる」
「届いてる?」
「うん。さっきより、少し近くなった。思い出が来てる感じがする」

 ミオは目を閉じた。
 もっと思い出した。
 夜の時間のことも。
 最初に声が聞こえたのは、祖父の家でこの時計に触れたとき。「やっと来た」という声。怖くなかった。どこか、ずっと待っていたものが話しかけてくれた感じがした。
 今日はどんな一日だった、と毎晩聞いてくれた。答えを急かさなかった。ただそばにいた。おじいちゃんのことを教えてくれた。人の時間を大切にする人だった、と言った。
 止まった時間のことも、かわいそうだと言っていた。
 時間はね、時計じゃなくて、思い出で動いている。
 夜の時間がいつか言った言葉が、頭の中で響いた。
「思い出で動いてるなら」
「うん」
「わたしが思い出せば、動く」
「そうだよ」
「全部思い出す。朝も、昼も、夜も。この一年間、全部」

 ミオは思い出した。
 思い出せることを、全部。
 朝の時間が「今日も晴れだよ!」と叫んだ朝。昼の時間が「眠い〜でもよかった〜」と言いながら時計が動いたのを喜んだ瞬間。夜の時間が「いい一日だったね」と静かに言ってくれた夜。
 河村さんの隣に座った昼休み。木村くんの背中を押した朝。廊下の二人に間を作ったこと。町の人たちの話を聞いて回ったこと。田所さんの目覚まし代わりの話。山本さんの、父が亡くなった朝の話。吉田さんの雨の日の話。
 トキが歯車を見て「丁寧な仕事だ」と言ったこと。「長く生きさせようとしてる」という言葉。
 止まった時間と話したこと。揺れたこと。でも戻ってこられたこと。
 全部、この一年間の時間だった。
「……来てる」
 夜の時間が言った。声が、少し大きくなっていた。
「朝の時間に、届いてる」
「本当に?」
「うん。消えかけてたのが、少し戻ってきた。昼の時間も……感じる。思い出が、ちゃんと届いてる」

 部屋が暗くなっていた。
 いつの間にか、夕方が終わっていた。窓の外に、夜の色があった。
 ミオは立ち上がった。
 足がしびれていた。ずっと座っていたから。
「夜の時間」
「うん」
「今夜、もつ?」
「……もつと思う。今夜だけは。ミオちゃんのおかげで」
「明日、時計が動いたら」
「動いたら、大丈夫だよ。あとは時計が続きをやってくれる」
「朝の時間は、また元気になる?」
「なるよ。きっと、うるさいくらいに」
 ミオは小さく笑った。
「それがいい。うるさい方がいい」
「そうだね。うるさくないと、寂しいから。それに、人の世界にも、時間はいるんだよ」
「人の世界にも?」
「ほら、すぐそばにいるじゃないか」
 
 ミオは少し考えた。

「……トキくん?」
 夜の時間が少し笑った。
「そう。時は、人の中にもいる」


 玄関を出ると、冷たい空気が顔に当たった。
 空を見上げた。
 星が出ていた。雲の切れ間から、いくつか見えた。冬の星は鋭くて、遠い。
 明日、時計が動く。
 それだけのことだった。でも今夜のミオには、それが全てだった。
 ミオは歩き始めた。
 商店街を抜けて、家に向かって。
 足取りは、朝よりずっと軽かった。

         ☆

 翌日の午後、祖父の家に蒼井さんとトキが来た。
 お母さんも仕事を早めに切り上げて来ていた。
 柱時計は、丁寧に梱包されて運ばれてきた。蒼井さんとトキが二人で、元の場所に戻した。奥の部屋、同じ壁際。ミオが最初に触れたあの場所に、また時計が立った。
 木の色が、少し明るくなっていた。艶が戻っていた。文字盤も磨かれて、ローマ数字がはっきりと見えた。
 蒼井さんが振り子を動かした。
 ゆっくりと、振り子が揺れ始めた。
 カチ、カチ、カチ。
 規則正しい音が、静かな部屋に響いた。

 ミオはその音を聞いた瞬間、何も言えなかった。
 お母さんが口元を手で押さえているのが見えた。蒼井さんは時計の前に立って、音を確認していた。トキはミオの横で、黙って時計を見ていた。
 カチ、カチ、カチ。
 止まっていた音が、また始まった。
 百年以上、この部屋で刻んできた音が。

「おはよう!」
 朝の時間の声がした。昼間なのに。
「今、朝じゃないよ」
「関係ない! これはおはようって言いたい場面だから!」
 ミオは笑った。小さく、でも本当に。
「眠い〜……でも、よかった〜」
 昼の時間も来た。眠そうな声だったが、その下に温かいものがあった。
 夜の時間は、何も言わなかった。
 でも、時計の中からかすかに、気配があった。ここにいる、という気配が。

 蒼井さんが帰り際に言った。
「田中さんの設計図がなければ、できなかった仕事です。それだけは伝えたかった」
「ありがとうございます」
 お母さんがうなずいた。
「あの設計図を書いた職人も、長い時間をかけてここまで来たんでしょう。うちの親父も、田中さんから教えてもらったことがある。そういうものが、つながってる気がした」
 蒼井さんは多くを語らない人だったが、その言葉は静かに残った。
 時計の仕事は、そうやって受け継がれてきたのだろう。

 トキは帰りがけに、ミオに話しかけた。
「父さんは、この仕事が一番楽しそうだった。最近で」
「そうなの?」
「うん。毎朝早く起きて、工房に行ってた。僕も、横で見てた」
「見て、どうだった?」
 トキは少し考えた。
「好きな気持ちが、腕に出る、って、ミオさんが言ってたでしょ。本当にそうだと思った。父さんを見てて、そう思った」

 今夜は、祖父の家に泊まることにした。
 カチ、カチ、カチ。
 動き出した柱時計の音。ミオはその音を聞きながら、夜の時間に話した。
「戻ってきたね、音が」
「うん。長かった」
「夜の時間は、ずっとあの時計の中にいたんだよね。止まってるときも」
「いたよ。静かだったけど、いた」
「寂しくなかった?」
「時間は寂しいとは思わない。ただ、待ってた」
「何を?」
「また動く日を。そういうものだよ、時間は。止まっていても、また動く日が来ることを知ってる。だから待てる」
 ミオはカチ、カチ、という音を聞いていた。
「おじいちゃんにも、聞かせてあげたかった」
「聞こえてると思うよ。そういうものだから、時間は」
「そういうもの、って?」
「流れは、続く。川が山から海に流れるみたいに、止まることがあっても、また動き出す。田中さんが守った時間は、ミオちゃんに渡って、トキくんの父親に渡って、また時計の中に戻ってきた。それがつながってる」

 時計がゴーン、と鳴った。
 低くて、深い音だった。六時を知らせる、六回。
 ミオは目を閉じた。
 子どもの頃、この音が怖くて、でも安心した。暗闇の中で聞こえると、ここが自分の場所だと思えた。
 今も、同じだった。
 怖くはない。ただ、深く、胸に響いた。
 お母さんが台所で動いている音がした。夕ご飯の準備を始めたのだろう。
 いつもの夕方だった。
 でも、何かが違った。部屋の空気が、少し変わった気がした。時計の音が加わっただけで、祖父の家の時間が、元の形に戻った感じがした。
「いい音だろう」
 夜の時間が言った。
「うん」
「この音を、これからまたたくさんの人が聞く。新しい思い出が積み重なる。そうやって、時間は動いていく」
「止まった時間は、眠ったまま?」
「今はね。でもまたいつか、誰かが強く止まりたいと思ったとき、起きるかもしれない。それはそのときのことだよ。今夜は、この音を聞いていればいい」

 カチ、カチ、カチ。
 時計は刻んでいた。
 ミオはしばらく、ただその音を聞いていた。
 おじいちゃんが聞いた音。お母さんが子どもの頃に聞いた音。商店街の人たちが生活の中で聞いた音。終戦の翌年に、やっと戻ってきた音。
 全部が、この音だった。
 ミオは静かに思った。
 わたしも、この音と一緒に生きていこう。
 時間が流れても。大切なものを失う日が来ても。また止まりたくなる日が来ても。
 この音が聞こえる限り、ここが自分の場所だと思える。
「おやすみ、ミオちゃん」
「おやすみ」
 カチ、カチ、カチ。
 時計は刻み続けた。
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