夢さらい王子
夢さらい王子は今宵もあなたのそばにいる
「こんばんは、哀れな子羊ちゃん」
青年は、ベッドで眠る女性を静かに見下ろした。
眠る女性は、眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。
「可哀想に……悪夢に、うなされているんだね」
青年──メアは、女性に手を伸ばした。
汗で額に張り付いた彼女の前髪を、そっと指先で払う。
メアの指先が心地良かったのか、女性の目元は僅かに和らいだ。
だがそれでも、苦しそうな表情に変わりはない。
「開かない瞼のその先で、君は何を視ているのかな。どうか、僕にも見せておくれ」
メアは人差し指を一本立て、女性の額にトンと置く。
じわり。
メアの置いた指先の周りに、紫色の輪がじんわりとにじんだ。
「おじゃまするね、子羊ちゃん」
じんわりとにじんだ紫色の輪がメアの指を伝い、徐々にメアの身体を覆っていく。
プツン。
何かが途切れる音と共に、メアの姿は女性の隣から消えた。
──
「ん……」
メアがゆっくりと目を開くと、そこは子ども部屋のようであった。
どうやら女の子の部屋らしい。ピンク色のレースやリボンで全体的に可愛らしい印象を受ける。
おもちゃはキレイに片付けられ、ぬいぐるみなども規則正しく並べられていた。
メアは一番左に置かれていたくまのぬいぐるみをしげしげと眺めた。ぬいぐるみの真っ黒で無機質な瞳に、メアの顔が映り込む。
「さて……。子羊ちゃんはどこかな」
メアは歌うように呟くと、キョロキョロと思います辺りを見回した。
踊るように優雅に歩を進め、室内を探索していく。
部屋全体は決して広くは無いのだが、何故か壁に行き当たらない。
不思議な空間だ。だが、メアは臆することなく目的のものを探し、歩を進めていく。
その時。メアの視界の左端で何かが動いた。
常人ならば気のせいで終わらせるであろう僅かな気配の揺らぎを、メアは見逃さずに動きのあった方へと歩み寄る。
室内は明るく、花を逆さまにしたような可愛らしい形のライトが壁にいくつもついているのだが、今メアが向かっている方向だけは異様に暗い。
まるでその一角だけが、黒い靄に覆われているようであった。
メアは黒い靄の前で立ち止まった。新たな動きがないかじっと見つめる。
すると、再び靄がゆらりと揺れた。
「……っく。……ひっく」
か細い声で泣いている女の子の声が聞こえてくる。
メアは、黒い靄に向かって声をかけた。
「こんばんは、お嬢さん」
「……だれ?」
「僕は、メアって言うんだ。良かったら君の名前、教えてくれないかな?」
「……みこ」
「みこちゃんか。可愛い名前だね」
「……」
メアが名前を呼ぶと、靄の中から一人の女の子が現れた。
ピンク色の毛布にくるまり、濡れた瞳でメアを見つめる。
そのどこか無機質に思える黒色に、メアは先程のくまのぬいぐるみを思い出した。
「みこちゃん。みこちゃんのお部屋には、たくさん可愛いものがあるね」
「……」
みこは無言のまま、メアをじっと見つめる。
外見の幼さに不釣り合いな、目の前の相手が自分の敵か味方かを窺うようなみこの視線を、メアはふっと笑ってかわす。
「僕は君とお話ししに来たんだ」
「……お話し? 私と?」
「そう、みこちゃんとお話ししに来た。
おいで。甘いお菓子でも食べながら、ゆっくり話そうよ」
メアがパチンと指を鳴らすと、今さっきまで何もなかった場所に突然テーブルと椅子が現れた。
テーブルの上にはクッキーやチョコレート、ドーナッツなどたくさんのお菓子が皿いっぱいに盛られて置かれている。
「すごい……! お兄ちゃん、どうやったの!?」
目を丸くしながら、みこは興奮した様子でメアに尋ねた。
その拍子に、頭から被っていた毛布がするりと床に落ちる。
「おや? みこちゃん、落ちたよ」
メアが毛布を拾い上げて手渡そうとする。
だがそれよりも早く、みこが「ダメッ!」と言ってメアから毛布をひったくるように奪い取った。
メアはぽかんとした表情で空いた手を見つめる。
そんなメアの様子に気がついたみこは、毛布をギュッと握りしめながら怯えた表情を見せた。
「……あ。ご、ごめんなさい。でも、これは大事なものなの……」
たどたどしい口調で、みこは謝る。
毛布を持つ手が、小さく震えている。
心なしか部屋の明かりも暗くなったようにさえ感じた。
メアは返事の代わりに、みこに向かって左手を差し出した。
「まずは座ろうか。飲み物は何がいい? 何でも好きなものを言っておくれ」
「……何でも? 何でもいいの?」
「ああ。みこが飲みたいものを教えておくれ」
メアはみこの右手を取り、椅子の前まで連れて行く。まるで執事のようにみこの椅子を引き、メアは着席を促す。
恐る恐るみこが椅子に座ると、メアは満足そうに笑い、自身も腰を下ろした。
向かい合うような形となり、みこは再びどこか緊張した表情を浮かべる。
「さあ、みこちゃん。何が飲みたい?」
「え、えっと……」
「先にお菓子を食べるのもいいね」
メアは目の前のクッキーを一枚指でつまみ上げた。
男性にしては白く細い指に、小さなクッキーが良く似合う。
そのまま口元に運ぶと、メアはクッキーを一口で食べた。
「ん……美味しそうで、つい一口で食べてしまったよ。みこちゃんもどうぞ?」
「い、いただきます!」
お腹が空いていたのか、それともメアの食べる姿に食欲をそそられたのか、つられてみこもクッキーを手に取る。
みこが勢いよく口に放り込むと、まるでリスのように両頬が膨らんだ。
「クッキー、美味しいね。……ああ、そうだ。僕はジュースを飲みたいな」
パチン。メアが再び指を鳴らすと、先程まで空だったカップにオレンジ色の液体が注がれていた。
甘酸っぱい香りが辺りに漂い、みこは鼻をひくひくさせる。
「お兄ちゃん、オレンジジュースにしたの?」
「うん。今はオレンジジュースが飲みたい気分だったんだ。みこちゃんは何がいい?」
「私、いちごミルクがいい!」
「仰せのままに」
パチン。今度はみこの目の前にあったカップにいちごミルクが注がれた。
「わあ! お兄ちゃん、ありがとう!」
みこは弾けるような笑顔を見せた。
右手でカップを手に取ると、一気にいちごミルクを飲み干してしまう。
「おかわりはいるかい?」
「うん!」
メアが指を鳴らすと、再びカップの中身が増える。
みこは、今度は大事そうにゆっくりと口をつけた。
そして、にんまりと嬉しそうに笑った。
どうやらメアへの警戒心はすっかり解けたらしい。
メアはにこにこと微笑みながら、みこの様子を観察し続けた。
すると、みこは自分が見られていることに気がついたらしい。
お菓子に伸ばしかけた手を引っ込めると、再び毛布を両手で抱きしめた。
「ねえ、みこちゃん。一つ、聞いてもいいかな?」
「……なあに?」
「みこちゃんの抱きしめているその毛布。
みこちゃんにとって、とても大切なものなんだよね?」
確認するようにメアが問うと、みこは慎重に首を縦に振った。
「もし良かったら、なんだけど。
みこちゃんとその毛布のエピソードを聞かせてもらえないかな?」
「エピソード?」
「うん。どうしてその毛布が大切なのか、とか。
誰にもらったものなかな、とか」
みこは俯いて考える素振りを見せた。
部屋は一気に静まり返る。
互いの息遣いさえ聞こえそうなほどだ。
チッ、チッ、チッ、チッ。
どこからか、時計の秒針が動く音がメアの耳に届く。
(なるほど。この秒針の音が、今回のタイムリミットってわけだね)
メアは無表情になり、秒針の音に注意深く耳を澄ませる。
秒針の音は徐々に大きくなっているように感じられた。
「あの……」
みこの声が秒針の音の間に割り込んでくる。
メアは先程と同じようにみこに微笑みかけると、目で続きを促した。
「この毛布はね、いつもお家で使っているものなの。
それでね、家族とケンカしちゃったり、寂しい気持ちになった時に、さっきみたいに毛布にくるまったり、ぎゅーって抱きしめたりしているんだ。
そうしているとね、温かくて、とっても落ち着くの。
だからね。この毛布は私にとって大事な家族なの!」
みこの言わんとしていることが分かり、メアはうんうんと頷く。
「そっか。みこちゃんの大事な家族なんだね。
僕も毛布は大好きだよ。ふわふわしててさ。
……だけどね、みこちゃん。
その毛布は今、君を悲しませている原因になっているよ」
「えっ? どういうこと?」
ゆらり。みこと毛布の存在が、霞がかったようにぼやける。
メアはその揺らぎに向かって右手を突き出した。
「姿を現せ。闇夜の夢に潜む異形よ」
突き出されたメアの右手から、紫色の稲光のような閃光が迸った。
「きゃっ!?」
眩さに目が眩ませ、みこが小さく悲鳴を上げる。
その拍子に、白い床にピンク色の毛布がパサリと落ちる。
すると、毛布からドロリとしたスライムのようなものが這い出てきた。
メアは椅子から立ち上がると、ツカツカと毛布に近づき、黒いスライムを見下ろした。
「フッ……。現れたな。夢の異形よ」
「お、お兄ちゃん、あれ何?」
大事な毛布から現れた妙な物体を前に、みこは椅子の上で身体を強ばらせた。
(異形と距離が近いが、変に暴れられるよりマシ、か)
心の中で呟きながら、メアはみこに「そのままでいてね」と声をかける。
「みこ。あれはね、夢の異形という生き物なのさ」
「ゆ、ゆめの、いぎょう?」
聞きなれない言葉に、みこが目をパチパチさせた。
夢の異形と呼ばれた楕円形の存在は、一見すると怖くなさそうな姿をしていた。
黒い泥のスライム、と言った方が表現としては的確かもしれない。
「みこ。夢の異形っていうのはね、君たち人間の夢の中に入り込んで、夢の中で人間を苦しめる存在なんだ」
「えっと……?」
「悪夢、って言葉があるだろう?
悪い夢、と書いて悪夢。
自然に見る悪夢もあれば、毎晩繰り返すように悪夢にうなされることもあるだろう?
何故人が毎夜悪夢を見てしまうのか……。
それはね、夢の異形が君たちの夢の中で悪さをしているからなんだ」
「どうしてそんなことするの?」
「君たちの暗い感情が、彼ら夢の異形の大好物だからさ」
メアの金色の瞳がギラリと光を放つ。
獲物を見つけたと言わんばかりの鋭い眼光に、みこは椅子の上でぶるりと身体を震わせた。
先程までの優しい青年とはまるで別人にさえ思える。
みこが顔を青くして震えているのに気がつき、メアは口元だけで笑みを浮かべた。
「ごめんね、怖がらせちゃって。でも、僕がこうして怖い顔になっちゃうくらい、夢の異形は悪い奴らなんだよ」
「ねえ、お兄ちゃん。その、夢の異形? っていうのは、例えばナイトメアとか、そういう存在ってこと?」
みこが恐る恐る訊ねる。
すると、メアは急に笑い始めた。
「おいおい。やめてくれよ、みこちゃん。
こんな奴らと僕を一緒にしないで欲しいな」
「一緒に……って?」
「僕だよ、みこちゃん。僕が、ナイトメアだ。
闇夜に忍び寄り、人を悪夢で苦しめて愉悦に浸る存在──それが僕たちナイトメアの一族だ」
「じゃ、じゃあ、お兄ちゃんも悪者ってこと!?」
「んー……今は、ちょっと事情が違うかな。
少なくとも人間に悪夢を見せて楽しんだりはしないよ」
「?」
みこが頭の上に疑問符を浮かべている。
「僕たちもね、この夢の異形に困っているんだ。
勝手に人間の夢に侵入するし、夢の中で好き放題暴れるし。
夢の中にコイツらが入ったままだとね、人間はどんどん弱っていっちゃうんだ。
僕たちナイトメア一族は、人が自然に見る悪夢の中の住人。
人間が弱れば僕たちもまた弱体化してしまう。
それを防ぐために、僕たちはこうして夢の異形狩りをしているんだ」
メアは忌々しそうに夢の異形を見下ろす。
視線だけで相手の動きを奪ってしまいそうなほどに、金色の瞳は冷たい光を湛えている。
夢の異形は、変わらず毛布にくっついたまま離れようとはしない。
「ねえ、お兄ちゃん。どうして夢の異形は、私の毛布から離れないの?」
「それはね、君の毛布が、君にとって大切なものだからだよ。
君の心の拠り所である、ピンク色の毛布を触媒として、君の夢に入り込んでいるんだ」
「……でも」
みこは慎重に口を開いた。
まるで、次に口にする言葉が、自分でも信じられないといったように。
「私のお部屋に、もうあの毛布はないよ?」
次の瞬間、部屋の空気がピシリと音を立てた。
何かに亀裂が入ったような、そんな不気味な音がメアとみこの耳に届いた。
「いい子だね。
そう。君の部屋にあの毛布はもうない。
ここは君の夢の中。
大人になった君に、幼い頃抱きしめていた毛布はもう必要ない。
なのにどうして現れたのか?
それはね……大人になった君が、現実で苦しんでいるからだよ」
「大人になった、私……?」
「そう。大人になったみこちゃん。
君はね、お仕事で疲れちゃっていてね。
無意識のうちに、安心するものを求めていた。
それがあの、幼い頃に大切にしていた、ピンク色のふわふわの毛布。
誰かに守られたい、何かに癒されたい、そんな気持ちが膨らんで、遠い昔にしまいこんだはずの記憶のフタが開いてね。
それに目をつけたのが、夢の異形。
弱った君の心に入り込み、君の大切な記憶と夢を荒らす害虫の正体だよ」
メアは夢の異形に向かって真っ直ぐに腕を伸ばす。
彼の手のひらから紫色の光が迸る。
バチバチと稲妻のような音を立てるそれは、恐ろしくもどこか神々しい印象を受けた。
風も吹いていないのに、メアの髪がふわりと宙に浮く。
メアの足元から同じような紫色の光が立ち上り、彼の周囲を駆け巡る。
「うう、眩しいよぉ……」
あまりの眩しさに思わずみこは両手で目を覆った。
「ごめんね、みこちゃん。もうすぐ終わるから」
メアの声が、みこの耳に届く。
稲光のような音の隙間を縫うようにして遠くから届いたようにも聞こえるし、耳元で囁かれたように近くにも聞こえる不思議な感覚がみこの鼓膜を揺らす。
「さて、夢の異形よ。この哀れな子羊ちゃんの夢から、そろそろご退場願おうか。
……ワーデ・レトロ!」
メアが言い放つと同時に、紫の光が夢の異形めがけて飛んでいく。
夢の異形に当たった瞬間、バチバチと一際大きな音が部屋中に響き渡った。
「みこちゃん。ちょっと耳を塞ぐね」
「えっ? あの……!」
いつの間に動いたのか。
メアはみこの背後へ回ると、彼女の両耳を手で塞いだ。
「キィィイイイイイィ!」
音が一瞬途切れた。と思った直後、この世のものとは思えないような甲高い音がした。
「う……っ!」
メアの手の上から、みこは自分の手を重ねて強く耳を塞ぐ。
鼓膜が破れてしまいそうなほど大きな音に、みこはじっと耐え続けた。
「……ちゃん。……ちゃん。……みこちゃん」
「あ……お兄、ちゃん?」
メアの声に、みこはぎゅっと閉じていた瞼を開いた。
「もう大丈夫だよ。お疲れ様」
耳を塞いでいた手は、いつの間にか外されている。
みこは、今自分が体験したことが信じられなず、ただ黙ってぼんやりとしていた。
「お兄ちゃん、あの……」
チッ、チッ、チッ。
みこが話しかけようとした時、どこからか時計の秒針の音がした。
今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、はっきりと大きな音で時を刻んでいる。
まるで、何かを急かすように。
「みこちゃん。残念だけど、そろそろタイムリミットだ」
「タイムリミット?」
「うん、そうだよ。僕たちはね、人間の夢の中にいていい時間が決まっているんだ。
人や条件によって色々変わるんだけど……今夜は、ここまでみたい」
説明している傍から、メアの身体がぼんやりと透け始め出す。
「やだ、やだよ! まだ、何もお礼できていないのに」
「お礼なんていらないよ。僕は、僕のするべきことをしただけだ。
……ああ、だけど。これだけは覚えておいて欲しいな」
「なぁに?」
すがるようにみこが尋ねると、メアはキザっぽくウィンクをした。
「君が悪夢を見る夜に、僕は必ず傍にいる。
もしもまた夢の異形が君の夢に潜りこんだら、僕は必ず助けに来るよ」
「お兄ちゃ……メア!」
みこが力いっぱい名前を呼ぶと、メアは意外そうに目を丸くした後、クスッと笑った。
「みこちゃん、ありがとう。さよなら、哀れな子羊ちゃん」
ひらひらと手を振るメア。次の瞬間、彼の姿は消え失せた。
***
「ふぅ……」
メアが目を開けると、そこには一人の女性がいた。
ベッドに横たわる彼女は、最初に見た時とは違い、どこか幸せそうな表情を浮かべながら、穏やかな寝息を立てている。
みこの寝顔を見て満足したのか、メアはくるりと背を向けた。
「バイバイ、哀れな子羊ちゃん。君の悪夢は、僕がさらっていくよ。
どうか君の夜に、安らかな眠りを」
青年は、ベッドで眠る女性を静かに見下ろした。
眠る女性は、眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。
「可哀想に……悪夢に、うなされているんだね」
青年──メアは、女性に手を伸ばした。
汗で額に張り付いた彼女の前髪を、そっと指先で払う。
メアの指先が心地良かったのか、女性の目元は僅かに和らいだ。
だがそれでも、苦しそうな表情に変わりはない。
「開かない瞼のその先で、君は何を視ているのかな。どうか、僕にも見せておくれ」
メアは人差し指を一本立て、女性の額にトンと置く。
じわり。
メアの置いた指先の周りに、紫色の輪がじんわりとにじんだ。
「おじゃまするね、子羊ちゃん」
じんわりとにじんだ紫色の輪がメアの指を伝い、徐々にメアの身体を覆っていく。
プツン。
何かが途切れる音と共に、メアの姿は女性の隣から消えた。
──
「ん……」
メアがゆっくりと目を開くと、そこは子ども部屋のようであった。
どうやら女の子の部屋らしい。ピンク色のレースやリボンで全体的に可愛らしい印象を受ける。
おもちゃはキレイに片付けられ、ぬいぐるみなども規則正しく並べられていた。
メアは一番左に置かれていたくまのぬいぐるみをしげしげと眺めた。ぬいぐるみの真っ黒で無機質な瞳に、メアの顔が映り込む。
「さて……。子羊ちゃんはどこかな」
メアは歌うように呟くと、キョロキョロと思います辺りを見回した。
踊るように優雅に歩を進め、室内を探索していく。
部屋全体は決して広くは無いのだが、何故か壁に行き当たらない。
不思議な空間だ。だが、メアは臆することなく目的のものを探し、歩を進めていく。
その時。メアの視界の左端で何かが動いた。
常人ならば気のせいで終わらせるであろう僅かな気配の揺らぎを、メアは見逃さずに動きのあった方へと歩み寄る。
室内は明るく、花を逆さまにしたような可愛らしい形のライトが壁にいくつもついているのだが、今メアが向かっている方向だけは異様に暗い。
まるでその一角だけが、黒い靄に覆われているようであった。
メアは黒い靄の前で立ち止まった。新たな動きがないかじっと見つめる。
すると、再び靄がゆらりと揺れた。
「……っく。……ひっく」
か細い声で泣いている女の子の声が聞こえてくる。
メアは、黒い靄に向かって声をかけた。
「こんばんは、お嬢さん」
「……だれ?」
「僕は、メアって言うんだ。良かったら君の名前、教えてくれないかな?」
「……みこ」
「みこちゃんか。可愛い名前だね」
「……」
メアが名前を呼ぶと、靄の中から一人の女の子が現れた。
ピンク色の毛布にくるまり、濡れた瞳でメアを見つめる。
そのどこか無機質に思える黒色に、メアは先程のくまのぬいぐるみを思い出した。
「みこちゃん。みこちゃんのお部屋には、たくさん可愛いものがあるね」
「……」
みこは無言のまま、メアをじっと見つめる。
外見の幼さに不釣り合いな、目の前の相手が自分の敵か味方かを窺うようなみこの視線を、メアはふっと笑ってかわす。
「僕は君とお話ししに来たんだ」
「……お話し? 私と?」
「そう、みこちゃんとお話ししに来た。
おいで。甘いお菓子でも食べながら、ゆっくり話そうよ」
メアがパチンと指を鳴らすと、今さっきまで何もなかった場所に突然テーブルと椅子が現れた。
テーブルの上にはクッキーやチョコレート、ドーナッツなどたくさんのお菓子が皿いっぱいに盛られて置かれている。
「すごい……! お兄ちゃん、どうやったの!?」
目を丸くしながら、みこは興奮した様子でメアに尋ねた。
その拍子に、頭から被っていた毛布がするりと床に落ちる。
「おや? みこちゃん、落ちたよ」
メアが毛布を拾い上げて手渡そうとする。
だがそれよりも早く、みこが「ダメッ!」と言ってメアから毛布をひったくるように奪い取った。
メアはぽかんとした表情で空いた手を見つめる。
そんなメアの様子に気がついたみこは、毛布をギュッと握りしめながら怯えた表情を見せた。
「……あ。ご、ごめんなさい。でも、これは大事なものなの……」
たどたどしい口調で、みこは謝る。
毛布を持つ手が、小さく震えている。
心なしか部屋の明かりも暗くなったようにさえ感じた。
メアは返事の代わりに、みこに向かって左手を差し出した。
「まずは座ろうか。飲み物は何がいい? 何でも好きなものを言っておくれ」
「……何でも? 何でもいいの?」
「ああ。みこが飲みたいものを教えておくれ」
メアはみこの右手を取り、椅子の前まで連れて行く。まるで執事のようにみこの椅子を引き、メアは着席を促す。
恐る恐るみこが椅子に座ると、メアは満足そうに笑い、自身も腰を下ろした。
向かい合うような形となり、みこは再びどこか緊張した表情を浮かべる。
「さあ、みこちゃん。何が飲みたい?」
「え、えっと……」
「先にお菓子を食べるのもいいね」
メアは目の前のクッキーを一枚指でつまみ上げた。
男性にしては白く細い指に、小さなクッキーが良く似合う。
そのまま口元に運ぶと、メアはクッキーを一口で食べた。
「ん……美味しそうで、つい一口で食べてしまったよ。みこちゃんもどうぞ?」
「い、いただきます!」
お腹が空いていたのか、それともメアの食べる姿に食欲をそそられたのか、つられてみこもクッキーを手に取る。
みこが勢いよく口に放り込むと、まるでリスのように両頬が膨らんだ。
「クッキー、美味しいね。……ああ、そうだ。僕はジュースを飲みたいな」
パチン。メアが再び指を鳴らすと、先程まで空だったカップにオレンジ色の液体が注がれていた。
甘酸っぱい香りが辺りに漂い、みこは鼻をひくひくさせる。
「お兄ちゃん、オレンジジュースにしたの?」
「うん。今はオレンジジュースが飲みたい気分だったんだ。みこちゃんは何がいい?」
「私、いちごミルクがいい!」
「仰せのままに」
パチン。今度はみこの目の前にあったカップにいちごミルクが注がれた。
「わあ! お兄ちゃん、ありがとう!」
みこは弾けるような笑顔を見せた。
右手でカップを手に取ると、一気にいちごミルクを飲み干してしまう。
「おかわりはいるかい?」
「うん!」
メアが指を鳴らすと、再びカップの中身が増える。
みこは、今度は大事そうにゆっくりと口をつけた。
そして、にんまりと嬉しそうに笑った。
どうやらメアへの警戒心はすっかり解けたらしい。
メアはにこにこと微笑みながら、みこの様子を観察し続けた。
すると、みこは自分が見られていることに気がついたらしい。
お菓子に伸ばしかけた手を引っ込めると、再び毛布を両手で抱きしめた。
「ねえ、みこちゃん。一つ、聞いてもいいかな?」
「……なあに?」
「みこちゃんの抱きしめているその毛布。
みこちゃんにとって、とても大切なものなんだよね?」
確認するようにメアが問うと、みこは慎重に首を縦に振った。
「もし良かったら、なんだけど。
みこちゃんとその毛布のエピソードを聞かせてもらえないかな?」
「エピソード?」
「うん。どうしてその毛布が大切なのか、とか。
誰にもらったものなかな、とか」
みこは俯いて考える素振りを見せた。
部屋は一気に静まり返る。
互いの息遣いさえ聞こえそうなほどだ。
チッ、チッ、チッ、チッ。
どこからか、時計の秒針が動く音がメアの耳に届く。
(なるほど。この秒針の音が、今回のタイムリミットってわけだね)
メアは無表情になり、秒針の音に注意深く耳を澄ませる。
秒針の音は徐々に大きくなっているように感じられた。
「あの……」
みこの声が秒針の音の間に割り込んでくる。
メアは先程と同じようにみこに微笑みかけると、目で続きを促した。
「この毛布はね、いつもお家で使っているものなの。
それでね、家族とケンカしちゃったり、寂しい気持ちになった時に、さっきみたいに毛布にくるまったり、ぎゅーって抱きしめたりしているんだ。
そうしているとね、温かくて、とっても落ち着くの。
だからね。この毛布は私にとって大事な家族なの!」
みこの言わんとしていることが分かり、メアはうんうんと頷く。
「そっか。みこちゃんの大事な家族なんだね。
僕も毛布は大好きだよ。ふわふわしててさ。
……だけどね、みこちゃん。
その毛布は今、君を悲しませている原因になっているよ」
「えっ? どういうこと?」
ゆらり。みこと毛布の存在が、霞がかったようにぼやける。
メアはその揺らぎに向かって右手を突き出した。
「姿を現せ。闇夜の夢に潜む異形よ」
突き出されたメアの右手から、紫色の稲光のような閃光が迸った。
「きゃっ!?」
眩さに目が眩ませ、みこが小さく悲鳴を上げる。
その拍子に、白い床にピンク色の毛布がパサリと落ちる。
すると、毛布からドロリとしたスライムのようなものが這い出てきた。
メアは椅子から立ち上がると、ツカツカと毛布に近づき、黒いスライムを見下ろした。
「フッ……。現れたな。夢の異形よ」
「お、お兄ちゃん、あれ何?」
大事な毛布から現れた妙な物体を前に、みこは椅子の上で身体を強ばらせた。
(異形と距離が近いが、変に暴れられるよりマシ、か)
心の中で呟きながら、メアはみこに「そのままでいてね」と声をかける。
「みこ。あれはね、夢の異形という生き物なのさ」
「ゆ、ゆめの、いぎょう?」
聞きなれない言葉に、みこが目をパチパチさせた。
夢の異形と呼ばれた楕円形の存在は、一見すると怖くなさそうな姿をしていた。
黒い泥のスライム、と言った方が表現としては的確かもしれない。
「みこ。夢の異形っていうのはね、君たち人間の夢の中に入り込んで、夢の中で人間を苦しめる存在なんだ」
「えっと……?」
「悪夢、って言葉があるだろう?
悪い夢、と書いて悪夢。
自然に見る悪夢もあれば、毎晩繰り返すように悪夢にうなされることもあるだろう?
何故人が毎夜悪夢を見てしまうのか……。
それはね、夢の異形が君たちの夢の中で悪さをしているからなんだ」
「どうしてそんなことするの?」
「君たちの暗い感情が、彼ら夢の異形の大好物だからさ」
メアの金色の瞳がギラリと光を放つ。
獲物を見つけたと言わんばかりの鋭い眼光に、みこは椅子の上でぶるりと身体を震わせた。
先程までの優しい青年とはまるで別人にさえ思える。
みこが顔を青くして震えているのに気がつき、メアは口元だけで笑みを浮かべた。
「ごめんね、怖がらせちゃって。でも、僕がこうして怖い顔になっちゃうくらい、夢の異形は悪い奴らなんだよ」
「ねえ、お兄ちゃん。その、夢の異形? っていうのは、例えばナイトメアとか、そういう存在ってこと?」
みこが恐る恐る訊ねる。
すると、メアは急に笑い始めた。
「おいおい。やめてくれよ、みこちゃん。
こんな奴らと僕を一緒にしないで欲しいな」
「一緒に……って?」
「僕だよ、みこちゃん。僕が、ナイトメアだ。
闇夜に忍び寄り、人を悪夢で苦しめて愉悦に浸る存在──それが僕たちナイトメアの一族だ」
「じゃ、じゃあ、お兄ちゃんも悪者ってこと!?」
「んー……今は、ちょっと事情が違うかな。
少なくとも人間に悪夢を見せて楽しんだりはしないよ」
「?」
みこが頭の上に疑問符を浮かべている。
「僕たちもね、この夢の異形に困っているんだ。
勝手に人間の夢に侵入するし、夢の中で好き放題暴れるし。
夢の中にコイツらが入ったままだとね、人間はどんどん弱っていっちゃうんだ。
僕たちナイトメア一族は、人が自然に見る悪夢の中の住人。
人間が弱れば僕たちもまた弱体化してしまう。
それを防ぐために、僕たちはこうして夢の異形狩りをしているんだ」
メアは忌々しそうに夢の異形を見下ろす。
視線だけで相手の動きを奪ってしまいそうなほどに、金色の瞳は冷たい光を湛えている。
夢の異形は、変わらず毛布にくっついたまま離れようとはしない。
「ねえ、お兄ちゃん。どうして夢の異形は、私の毛布から離れないの?」
「それはね、君の毛布が、君にとって大切なものだからだよ。
君の心の拠り所である、ピンク色の毛布を触媒として、君の夢に入り込んでいるんだ」
「……でも」
みこは慎重に口を開いた。
まるで、次に口にする言葉が、自分でも信じられないといったように。
「私のお部屋に、もうあの毛布はないよ?」
次の瞬間、部屋の空気がピシリと音を立てた。
何かに亀裂が入ったような、そんな不気味な音がメアとみこの耳に届いた。
「いい子だね。
そう。君の部屋にあの毛布はもうない。
ここは君の夢の中。
大人になった君に、幼い頃抱きしめていた毛布はもう必要ない。
なのにどうして現れたのか?
それはね……大人になった君が、現実で苦しんでいるからだよ」
「大人になった、私……?」
「そう。大人になったみこちゃん。
君はね、お仕事で疲れちゃっていてね。
無意識のうちに、安心するものを求めていた。
それがあの、幼い頃に大切にしていた、ピンク色のふわふわの毛布。
誰かに守られたい、何かに癒されたい、そんな気持ちが膨らんで、遠い昔にしまいこんだはずの記憶のフタが開いてね。
それに目をつけたのが、夢の異形。
弱った君の心に入り込み、君の大切な記憶と夢を荒らす害虫の正体だよ」
メアは夢の異形に向かって真っ直ぐに腕を伸ばす。
彼の手のひらから紫色の光が迸る。
バチバチと稲妻のような音を立てるそれは、恐ろしくもどこか神々しい印象を受けた。
風も吹いていないのに、メアの髪がふわりと宙に浮く。
メアの足元から同じような紫色の光が立ち上り、彼の周囲を駆け巡る。
「うう、眩しいよぉ……」
あまりの眩しさに思わずみこは両手で目を覆った。
「ごめんね、みこちゃん。もうすぐ終わるから」
メアの声が、みこの耳に届く。
稲光のような音の隙間を縫うようにして遠くから届いたようにも聞こえるし、耳元で囁かれたように近くにも聞こえる不思議な感覚がみこの鼓膜を揺らす。
「さて、夢の異形よ。この哀れな子羊ちゃんの夢から、そろそろご退場願おうか。
……ワーデ・レトロ!」
メアが言い放つと同時に、紫の光が夢の異形めがけて飛んでいく。
夢の異形に当たった瞬間、バチバチと一際大きな音が部屋中に響き渡った。
「みこちゃん。ちょっと耳を塞ぐね」
「えっ? あの……!」
いつの間に動いたのか。
メアはみこの背後へ回ると、彼女の両耳を手で塞いだ。
「キィィイイイイイィ!」
音が一瞬途切れた。と思った直後、この世のものとは思えないような甲高い音がした。
「う……っ!」
メアの手の上から、みこは自分の手を重ねて強く耳を塞ぐ。
鼓膜が破れてしまいそうなほど大きな音に、みこはじっと耐え続けた。
「……ちゃん。……ちゃん。……みこちゃん」
「あ……お兄、ちゃん?」
メアの声に、みこはぎゅっと閉じていた瞼を開いた。
「もう大丈夫だよ。お疲れ様」
耳を塞いでいた手は、いつの間にか外されている。
みこは、今自分が体験したことが信じられなず、ただ黙ってぼんやりとしていた。
「お兄ちゃん、あの……」
チッ、チッ、チッ。
みこが話しかけようとした時、どこからか時計の秒針の音がした。
今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、はっきりと大きな音で時を刻んでいる。
まるで、何かを急かすように。
「みこちゃん。残念だけど、そろそろタイムリミットだ」
「タイムリミット?」
「うん、そうだよ。僕たちはね、人間の夢の中にいていい時間が決まっているんだ。
人や条件によって色々変わるんだけど……今夜は、ここまでみたい」
説明している傍から、メアの身体がぼんやりと透け始め出す。
「やだ、やだよ! まだ、何もお礼できていないのに」
「お礼なんていらないよ。僕は、僕のするべきことをしただけだ。
……ああ、だけど。これだけは覚えておいて欲しいな」
「なぁに?」
すがるようにみこが尋ねると、メアはキザっぽくウィンクをした。
「君が悪夢を見る夜に、僕は必ず傍にいる。
もしもまた夢の異形が君の夢に潜りこんだら、僕は必ず助けに来るよ」
「お兄ちゃ……メア!」
みこが力いっぱい名前を呼ぶと、メアは意外そうに目を丸くした後、クスッと笑った。
「みこちゃん、ありがとう。さよなら、哀れな子羊ちゃん」
ひらひらと手を振るメア。次の瞬間、彼の姿は消え失せた。
***
「ふぅ……」
メアが目を開けると、そこには一人の女性がいた。
ベッドに横たわる彼女は、最初に見た時とは違い、どこか幸せそうな表情を浮かべながら、穏やかな寝息を立てている。
みこの寝顔を見て満足したのか、メアはくるりと背を向けた。
「バイバイ、哀れな子羊ちゃん。君の悪夢は、僕がさらっていくよ。
どうか君の夜に、安らかな眠りを」
