絡まる残り香―滴る甘い蜜―
第一章:白衣の陥穽

【第一話】: 白衣の陥穽 1

夕暮れの幕張、潮の香りが高層マンションのベランダを撫でる。

若林ひとみは、西日に透ける自慢の脚を組み替えた。

ストッキングの摩擦音が、静かなリビングに乾いた音を立てる。

​夫の帰宅まで、あと三時間はある。

喉を焼く冷えた白ワインが、胃の腑に熱く落ちた。

指先でなぞる胸の曲線は、自分でも惚れ惚れするほど高い。

​「……足りないわ」

独り言が、冷たいフローリングに吸い込まれて消える。

大学病院の白い廊下を歩く時、男たちの視線が肌を刺す。

あの粘りつくような欲望の視線こそが、私の栄養剤だ。

​スマホの画面が、見知らぬ男からの通知で震えた。

御茶ノ水での勤務中、エレベーターで擦れ違った外科医だ。

清潔な石鹸の香りと、隠し切れない獣の匂いがした。

​不倫、という言葉にはもう飽きている。

私はただ、誰のものでもない自分を確かめたいだけ。

束縛という鎖を断ち切り、複数の手掌に溺れたい。

​小学生の娘が描いた家族の絵が、壁で笑っている。

その無垢な色彩が、今の私には酷く毒々しく見えた。

舌先で唇を湿らせ、次の獲物への返信を打ち込む。

御茶ノ水、大学病院の重厚な空気。

消毒液の刺激臭が、鼻腔の奥を容赦なく突く。

受付カウンターで、ひとみは静かに背筋を伸ばした。

​タイトスカートから覗く、曲線美を描く自慢の脚。

行き交う医師たちの視線が、そこに縫い付けられる。

視覚の網に掛かる彼らの欲望を、肌で冷たく享受した。

​「若林さん、このカルテの確認を……」

背後から、低いバリトンボイスが耳朶を震わせる。

振り向くと、外科医の加納が至近距離に立っていた。

微かに漂う、高価な煙草と清涼剤の混じった匂い。

​彼の指先が、書類を受け取る瞬間にひとみの指に触れた。

熱を帯びた皮膚の感触が、電気のように脳まで駆け上がる。

「今夜、いつもの場所で待っていますよ」

​加納の囁きに、ひとみの喉が微かに鳴った。

診察室の白い壁が、一瞬だけ歪んで見えた気がする。

夫の無味乾燥な体温とは違う、侵食するような熱情。

​「ええ、少し遅れるかもしれませんけれど」

冷徹な事務員を演じながら、瞳の奥を濡らして微笑む。

胸の奥で、形の良い双丘が期待に硬く尖った。

制服の薄い生地越しに、自分の鼓動が早まる。

​ロビーの喧騒が、遠い異国の音のように遠ざかる。

窓の外、御茶ノ水の空は不吉なほど赤く染まっていた。

自由を喰らう「不倫」という名の果実が、今、爆ぜる。

加納の視線が、ひとみの胸元を執拗に這った。

糊の効いた白衣の擦れる音が、耳元で響く。

無機質な廊下に、男の隠し切れない体温が漂う。

​「待っていますよ、若林さん」

去り際の言葉が、重く湿った熱を帯びていた。

ひとみは、震える指で受話器を握りしめた。

冷たいプラスチックの感触が、高揚を鎮める。
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